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さて、今回始まりました「あの人にインタビュー」、
最初のお客様は、紙芝居職人、猫田にゃあごろう氏です。

インタビューを行ったのは、陽当たりのいい屋根の上。
氏は、よくここで昼寝をたしなまれるそうです。
ちょうど昼寝を終えて耳をかいているところをお邪魔しました。

「ん〜〜? インタビュー? めんどくせえなあ。
ゴチャゴチャしゃべるの、嫌(きれ)えなんだから、おいら……」

と、おしゃべりが嫌いな理由を、
ニャゴニャゴ、ニャゴニャゴ、しゃべり続けること40分あまり。
が、なんとかインタビューの承諾を取り付けて、スタート。

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「え? だいたいよお、
『子どもの目線に立って』とか、
『子どもの立場になって』紙芝居を作ろうなんて奴に
ろくなのはいねぇのよ」

──はあ……。と言いますと……?

「言いてぇことはわかるよ、そりゃ。子どもの見るもんだからな。
けどな、下手すると、
手抜きのお子様ランチを食わせるようなハメになるンだな、これが」

──お子様ランチ?

「子どもに食わせるもんはさ、
一流どこのネタ使って、一流どこのモノホンの奴にしたいわけよ。
カップラーメンの中の乾燥ネギもいいだろうけど、
子どもが初めて出会うネギがそれじゃ、かわいそーだろ?
そんなもんばっか食わされてみ。
ネギがどういうもんだか、わかんないまま、育っちまう。
ホンモノのネギかじってみて、
辛(かれ)えなとか、焼いたら甘くなるんだなとか、
そういうの、やらせなきゃ。子どもにはさ」

──はぁ。

「それが、おめぇ、
ネギは臭(くせ)えからとか、この味は子ども向きじゃねえからとか言って、
子どもが好きそうなお子様ランチにしちまうんだ。
ハンバーグやオムライスなんか、二流三流のハンパもんでも
テキトーに並べときゃ、子どもは喜ぶだろうなんてぇ料簡じゃ、
おめぇ、味もへったくれも、ありゃしねえ」

──でも、子どもたちが見てくれないと……。

「ああ、ああ、いつもそう言うんだよ、二流三流どころはさ。

んー、まあな、今の子どもたちは顎(あご)の力が弱っちまってるからな。
おいらたちガキん頃は、
かつ節だろうが、ネズミの骨だろうが、ガリゴリやったもんよ。
ところが最近の奴らときたら、
グニャグニャのキャットフードばかり食ってるもんだから、
意気地までなくしちまってるんだ。

な?
歯が立たねえような固いもんでもな、
毛嫌いされるニンジンやピーマンだって、
食えそうにない骨付き肉のでっかい塊(かたまり)だってな、
どおーんと出してやりゃいいんだよ、
子どもの目の前にさ。

わかる、わからないじゃなくってさ、
子ども向け、おとな向けじゃなくってさ、
おもしれぇもんだったら食うんだよ、あいつらは。
かぶりつくね。
でもよ、おもしろくなかったら、見向きもしねえ。
そのあたりの子どもの嗅覚の確かさってぇーの?
その辺は、おいらぁ、信じてるね」

──でも、子どもたちがおもしろがるものって、
何かわかりにくいですよね?

「何だっけかな、
誰だか新聞記者さんが言ってたよ。
『読者がおもしろそうなものを書くんじゃなくて、
自分がおもしろいものを書くんだ』ってな。

おいらはさ、物語づくりは井戸掘りだって、前から言ってんだ。
どこを掘るかって?
そこらの土じゃねえよ、ここ、ここ。
てめえの腹ン中を掘るのよ。
エイコラ、エイコラ、ひたすら掘ってくのよ。
んで、深(ふけ)えとこまで掘って湧いて出てきた水ってぇのはさ、
人間誰もが持ってる地下水脈ってぇ奴に通じてるんだな。
だから、てめえがおもしれぇと思ったもんは、
誰もがおもしれぇと思えるんだ。
子どももおとなも関係ねえやな。

それをさ、子どもだったらこういうのがおもしれぇだろとか、
こんなのがウケるだろうなんてナ、
てめえの腹掘らねえで、他人(ひと)の腹ばかりうかがってちゃあ、
半端な穴しか掘れねえ。
地下水脈の深(ふけ)えとこまで届きやしねえ。

まあ、でも、中途半端な浅いとこを掘り返してても、
水道管のパイプの壊れた穴からしみだした水くらいにはぶつかるかもしれねえな。
世間に流通している殺菌済みの水だ。
こぎれいな水だから、毒もいっさい混ざり込んでねえ。
世間に出回っているそれなりの水だからな、当座の飲用には役に立つだろうよ。
ところがギッチョンチョン、毒にもならなけりゃあ、薬にもならねえ。
まあー、そんなのは、今日飲んだら明日には忘れちまうって奴だな。

10年も20年も読みつがれるもんはさ、
地下水脈までつながってるもんだからさ、
いつ読んでも新鮮なんだな、これが。
くんでも、くんでも、尽きるこたアねえってのはこのことよ。
多少、泥臭くたってな、
子どもらもさ、てめえの腹の底の泉の水と同じもんだってわかるから、
身にしみておもしれぇんだよ。
ま、読みもんでも、紙芝居でもおんなシことだわな」

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「ケストニャーって知ってるかい? ケストニャー。
そのおっさんが、トラばあさんと、リンちゃんと
ワルツを踊って、飯を食ったってんだ」

(※筆者注:おそらく、氏の言っているのは
E・ケストナー〈『ふたりのロッテ』の作者〉、
P・L・トラバース〈『メリー・ポピンズ』の作者〉、
A・リンドグレーン〈『長靴下のピッピ』の作者〉
のことだと思われます。
1953年、3人は、スイスの料理店で会食したことがありました(1)。)

「でな、3人とも人間の種族であることには違(ちげ)えねえが、
ドイツとか、イギリスとか、スウェーデンとか、国が違うんだとさ。
言葉は通じなかったりしたんだが、通じ合うもんがあったんだろな、
話はワイワイ盛り上がったっていうのよ。

でな、3人はそれぞれ、
じいさんやったり、おっ母さんやったり、先生やったりして、
日頃から子どもとつき合っていたことは、いたんだ。
子どもと接する、そういう“経験”ってぇ奴は、たしかに役に立つ。
が、子どもの本を作るってぇときには、それがいちばんじゃねえってんだな。

じゃあ、何が大事(でえじ)かってぇと、
てめえがガキん頃にさかのぼって、それを忘れねえこと。
ガキん頃のてめえ自身と接することがいちばん大事だってんだよ。
3人が3人、そうゆう結論に落ち着いたっていうんだな。

リンちゃんなんかはさ、自分の作品は、
子どもン頃の自分をおもしろがせたい、楽しませたい、
そのために送る手紙だって言ってるぜ(2)
その手紙が、自分だけじゃねえ、多くの子どもを楽しませてるってぇわけだ。

な。そうゆうこった。
てめえの腹ん中に掘り当てた泉の水だから、
その井戸は、みんなを楽しませることができる。

そらな、えばってる社長さんも、しかめっつらの先生も、
みんな昔は子どもだったっつうことよ。
そりゃ、時代が変わっても、根っこは変わんねえ。
みんな、腹の奥の奥ンところに、おんなシ地下水脈が流れてる。
100年前、200年前の物語がガツンと来るってぇのは、そおゆうとこよ。
そおゆうとこ。
人間も猫も、そこらへんは変わんねえと思うんだがなあ、おいらは」

──(ここでにゃあごろう氏は、大きなあくびをすると、
鼻をピクピクさせました。)

「ま、おめえみてえな、三流どころ……っつうかぁ、
四流か五流の人間には、わかんねえかもしれねえなあ」

──は、はぁ……。

「さて……っと。
そろそろ、おれも、夕飯(めし)を探しに行かねえとな。
ま、おめえも、せいぜいがんばんなよ。五流なりによ。
ほんじゃ、な」

そう言うと、氏は、屋根からストンと降り立って、
ふらりと路地のあいだに消えていきました。







《引用・参考文献》
(1)E・ケストナー、高橋健二編訳「子どもと子どもの本のために」同時代ライブラリー・岩波書店
(2)シャスティーン・ユンググレーン、うらたあつこ訳「遊んで、遊んで、遊びました〜リンドグレーンからの贈りもの〜」ラトルズ
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たいていは夜中に雨が降ったその朝。
植え込みの土から這い出てくるのでしょう、
ミミズが道路のアスファルトをウロウロしているときがあります。
そのままでは、太陽が昇っても土に帰ることが出来ず、
干からびてミイラになってしまう。

そこで、時間に余裕のある朝は、
ただちにNPOミミズ救助隊を組織して(と言っても隊員はひとりなのですが)、
シャベルでミミズをすくっては、土のあるところへ戻す。
なんていうことが、時々ありました。

ところが、その夜はいい月夜で、雨は一滴も降りませんでした。
にも関わらず、駐車場の隅に、ミミズ発見。
その朝に限って、一匹だけ。
どこをどうして歩いて来たのか、土のあるところからはだいぶ離れています。

いや、つくづく思ってしまいました。
なんて馬鹿なんだろう。
というのも、彼は、土のある方向には向かわず、
反対方向の広い駐車場を目指してせっせか、せっせか、歩いている──、
いえ、這っているのでした。

彼にとっては大陸ほどもありそうな広さの駐車場です。
本格的に日が昇るまでの数時間のうちに横断出来るとはとても思えません。
日干しのミイラになるか。
はたまたスズメのエサとなるか。
もしくは駐車場にやってくる車にひかれてセンベイになるか、です。

しかも駐車場の向こうの植え込みは、ブロックの壁に囲まれていて、
たとえ横断出来たとしても、そこには垂直の壁が待っている。
どうがんばっても、絶望的です。

あ。
馬鹿ではないのか。ミミズには目がないんだっけ。
と気づきましたが、いや、しかし、
目がなくても、目のはたらきをする細胞はついているそうです。
光は感じられるはず。

いやいやしかし、考えてみれば、たとえ目が見えたとしても、
彼は、地上から推定4~5ミリの高さでまわりを見渡しているわけです。

「虫瞰」「鳥瞰」という言葉があります。
「虫瞰」──地面を這いずり回る虫の視点で見ること。
細部をしっかり丁寧に見る。
対して「鳥瞰」は、空飛ぶ鳥の視点で見ること。
空高くから、地図や見取り図をながめるようにして、大局を見る。

ホモ・サピエンス一族の中では背の低い部類に入るおれでも、
ミミズに比べればはるかに背が高いわけで、
「鳥瞰」でながめることが出来ます。
その目から見れば、駐車場を横断しようと死の方向へ向かっている彼の行動は、
とんでもなく馬鹿げた暴挙です。

けれど、「虫瞰」のミミズの目からはわからない。
アスファルトの荒野の先に、
ミイラになるか、エサになるか、センベイになる運命が待っているのか、
それとも奇跡的に安息の土の場所にたどり着くことが出来るのか、
神のみぞ知るというところなのでしょう。

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「古事記」に、仲哀天皇のこんなくだりがありました(1)

別名、帯中津日子(足仲彦・タラシナカツヒコ)。
お父さんがヤマトタケル。
奥さまが神功皇后。
息子さんが応神天皇です。
有名人ファミリーに囲まれているわりには存在感の薄い方のような気もします。
というのも、道半ばで急死されたからでしょう。

仲哀天皇が熊襲(クマソ)討伐のため、九州の筑紫に滞在中のときのこと。
シャーマンである奥さまの神功皇后は、
神懸かりして住吉大神(=墨江(すみのえ)大神)の神託を告げます。

そして宣(のたま)うには、西の方角、海の彼方の先に、金や銀や宝物に満ちた国がある。
その国を属国として、天皇に授けてあげようというのです。

ところが仲哀天皇は、
「いやいや、高いところに登って西を見ても、ただ大海があるばかりで、
国土なんか見えません」
うそつきの神さまだなあと言って、琴を弾くのをやめてしまいます。

皇后が神託をするとき天皇は、神聖な楽器である琴を弾いて、
妻の神懸かり状態を盛り上げるのが、儀式のルールだったそうです。
その琴をやめて、黙ってしまう。

そこであわてたのが、大臣の建内宿禰(タケシウチノスクネ)。
「弾き続けて下さい、弾き続けて下さい」と強く促したので、
渋々天皇はまた弾き始めます。

と思ったら、ふつと音が途切れて、声もしなくなる。
そこで灯火を差し上げて様子をうかがうと、
すでに仲哀天皇の息は事切れていたというのです。

お告げの言葉を信じようとしない天皇に、
神さまが怒って命を絶たれたのだと伝えられています。

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西の海の彼方の国というのは、当時、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ))です。
対馬に渡れば、天気のいい日には肉眼で見えるそうですね。
が、筑紫からではさすがに「高いところに登っても」見えないでしょう。

しかし、神さまがどう言おうと、
九州・熊襲(クマソ)の併合さえままならない不安定な時期に、
わざわざ他国へ侵略に出かけるべきではないというのは、
賢明な選択だったのではないでしょうか。

国を理想的に統べるためには、国土があまり大き過ぎてもいけない。
国家というのは、高いところにのぼってひと目で見渡せるくらいの広さがちょうどいい。
──と言っていたのはアリストテレスでした(2)
見渡せない他国を侵略するよりも、見渡せる国土の充実をはかろうとしたことは、
むしろ評価されていいように思われます。

経済の利があるからといって、他国の島を我が国の領土だと強引に主張するのは、
昔も今も得策であるとは思えません。

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しかし、まあ、歴史的にいえば、当時の天皇が、新羅の存在を知らなかった
ということはあり得ないでしょう。

が、もしも、神話の通り、新羅という国の存在さえ知らず、
海の向こうにどんな国があるかもわからなかったとしたら……。
そんな大海原に乗り出すのは、
これはそうとうな勇気がいるんだろうなと思います。

ひょっとしたら、どこまで行っても島なんかないかもわからない。
ひょっとしたら、嵐にあったり、
当時のことだから、龍だとか、海坊主だとか、
未知の生物に出くわすと考えたかもわかりません。

無茶苦茶な航海をすることで有名なマンガ「ワンピース」の主人公一味でさえ、
「ログポーズ」などというような磁石が必需品です。
そんな磁石も持たずに、
ばかりか、海図や地図さえ持たずに、
ましてや、島があるんだかないんだか、情報も不確かなところを航海するというのは、
これは死を覚悟することだったに違いありません。

もしも神さまのお告げも何もなかったとしたら、
未知の海へ船を漕ぎ出そうだなんて、これは暴挙以外の何ものでもない。

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それを考えると、大航海時代の人々はすごいですね。

いくら羅針盤や航海技術があったとしても、
地球はきっと丸いんだろうという推測があったとしても、
黄金や香辛料や功名心に駆り立てられ、欲望に目が眩んでいたとしても、
新しい航路開拓が、当時、国家的な事業であったとしても、
生きて還れる確率は何パーセントだったでしょう?
なのに彼らは、出かけていった。

何があるかわからない未知の海へです。

その航海の果てに何かしらの島にたどり着けた者は、ほんの一握りでしょう。
ヴァスコ・ダ・ガマのように成功したらヒーローですが、
それ以外の大半の人々は、途中で引き返してくるのが関の山。
海の上で餓死や病死をした人も多かったとききます。
嵐にでも出くわせば海の泡と消え果てる。
犬死にです。
これはリスクの大き過ぎる危険な賭けと言わざるを得ません。
馬鹿と呼ばれてもしかたがありません。

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ミミズも、ずっと土の中にいれば平穏無事な人生であったろうに。
わざわざ地面の上へ顔を出すことはなかったのにと思います。

まさしく盲滅法、目隠しをしたスイカ割り状態。
ただ、やみくもに歩く(這う)。
死が待っているばかりだとも知らずに、そんな方向へ懸命に向かってしまう。

しかし、彼らの馬鹿な暴挙がなければ、ミミズ社会に明日はないという話もあります。

ミミズの仲間の大半は、オスでもメスでもない雌雄同体ながら、
誰かしらとくっついて交配をして増えます。
でも、狭い場所のご近所同士ばかりで、代々近親交配を繰り返していたら、
遺伝子の多様性がなくなり、劣った遺伝子をもって生まれる確率が高くなる。
ミミズ社会が活性化するためには、新陳代謝が必要です。
遠く離れた地に住むものたちの、新しい血を導入していかなければならない。

だから一部のミミズ連中が故郷のご近所から旅立って新天地へ向かおうとするのは、
これは本能なのでしょう。
人間が地面をアスファルトやコンクリでおおいさえしていなければ、
有効な自然のシステムです。
たとえ9匹無駄死にしようとも、1匹どこかの異国にたどり着ければ、
もしかしたらじゅうぶんなのかもしれません。

大航海の時代だって、馬鹿と呼ばれるその他おおぜいの彼らが海へ出かけなかったら、
ヨーロッパとアフリカやアジアを結ぶ交易は起こりませんでした。
アメリカ大陸の発見もありませんでした。
それが後世には、先進国が後進国を侵略するという帝国主義につながったわけですが、
そうしたマイナス面も含めて、歴史の進展はなかったでしょう。

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けれど、ひとりひとりのミミズの身になってみれば、これはたまったものじゃない。
無駄死にするために、この世へ生まれて来たわけではないはずです。
いや、それとも、たとえ無駄死にであっても、
結果的にミミズ社会に貢献できればいいと考えているのでしょうか。

ミイラか、エサか、センベイになる運命とも知らず、
懸命に全身をうねうねさせて、せっせか、せっせかと進むその姿は、
滑稽でもあり、そして哀しくもあります。

鳥瞰の眼からは「そっちの方向じゃないよ」と思わず声をかけてやりたくなるってもんです。
たとえ目隠しをして目が見えず、鳥瞰の目を持っていなくても、
周りから「スイカはそっちじゃないよ」と言われれば、方向転換することが出来る。

仲哀天皇に声をかけた住吉大神の心境も、こんな感じだったのかもしれませんね。

神さまにはスイカが見えていて、つまり海の向こうの国が見えていて、未来が見えていた。
山の上から見渡すよりも遥かに上空からの「鳥瞰」の目を持っていた。
天の視点にいる神さまからすれば、自分の言う通りの方向へ行こうとしない態度は、
きっともどかしくてしょうがなかったのでしょう。

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夫の死後、神功皇后は妊娠中にも関わらず、神さまの言う通り、
女性ながらに、海の彼方へ戦争に出かけていきます。
すると神さまが請け合った通り、新羅は降参して属国となる。
その最中、子どもが生まれそうになったため、お腹に石を当てて出産を鎮めて遅らせ、
筑紫へ帰り着いたところで応神天皇を産みます。
まさしく「母は強し」。

……ということに、神話ではなっています。
しかしながら、実際の歴史では、新羅(しらぎ)征伐はなかったともいわれています。
そもそも、仲哀天皇や神功皇后が実在したかどうかさえあやしいという説もあるのだとか。

しかし「侵略=正義」だった帝国主義の時代、
神功皇后は「戦うお母さん」のイメージとともにスター的なヒロインとなり、
明治の頃には、紙幣や切手のデザインになってもてはやされました。

神話の中では、神さまのご託宣があってそれに従いさえすれば、100%の成功が約束され、
確実に英雄(ヒーロー、ヒロイン)となることが出来るようです。

が、現実はたぶんそうはいかない。

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誰でも、Aの道を行くべきか、Bの道を行くべきか、
選ばなければならないY字路に立たされることがあります。

卵は、目玉焼きにするか、生でごはんにかけるか。

なんていう選択はどうでもいい問題かもしれませんが、
たとえば、仕事を優先するか、家庭を優先するか、とか。
職場を辞めるか、続けるか、とか。

どちらが正しいか、どちらがプラスとなるのか、
わかっていれば苦労はありません。

そんなとき、住吉大神のような神さまがいて、
「こっちの方向へ行きなさい」と指示してくれるといいんです。
殺されてはたまりませんが、決断する責任を誰かが請け負ってくれると、気が楽です。

占いは迷信といいながらも、現代人が占いに頼って、
背中を押してもらおうとする理由も、そこにあるのかもしれませんね。
おれも、一時は占いに凝ったりしたのでした。

「鳥瞰」は、“空間”を全体的に見渡すことですが、
神さまには、どうやら歴史という“時間”を「鳥瞰」してその先の結果が見えるらしい。
「そっちの方向じゃないよ」とか「そっちの方向へ行け」とか言えるわけです。

アメリカ・インディアンのチーフ(酋長)のひとりポカゴンという人は、彼の一族の行く末を案じ、自問自答するようにこう語っています。

「まだ生まれていない時のベールをあげ
未来をのぞき見る力は、われら人の身にはありません。
さような力をおもちなのは、神だけです。
しかも、その神でさえ、過去と現在とを念入りに調べてのち
はじめて未来を見分けることができるのです」

(サイモン・ポカゴン、ポタワトミー族)(2)

そしておそらく神さまだって、
選んだその道がほんとうに正しかったのか、正しくなかったのかを見分けることは、
そうとうに難しいのではないでしょうか。
見当違いの方向へ進んだとして、
そのために被害をこうむり、よしんば死に至ったとしても、
それが正解ではないと言い切れるのか、どうか。

むしろ回り道をしたり、無駄な道草をすることが、いいことである場合だって
きっとあると思います。
正解が一つとは限らない。
そう考えると、たとえよくない結果が待っているとわかっていたとしても、
馬鹿だ、無茶だ、やめろと言えるのか、どうか。

ミミズにとって自滅だと思われる暴挙も、
もしかしたら彼自身にとっては意味のあることなのかもしれない。

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神話ではない現実では、われわれ人間は誰でも、時間的には、虫瞰の眼しか持てません。
あるのは、目の前にある「今」だけです。

毎日、同じ時間に起きて、飯を食べて、出勤するというプログラミング通りの生活だとしても、
その先に想定外のことが起こるかもしれない。

一寸先は闇、一秒先は闇。
一秒後に、地震が起こるかもしれないし、
一秒後に、何かしらトラブルが生じたり、
一秒後に、たとえば相手の気持ちが急に変わったりするかもしれない。

わたしたちは誰でも、どんな瞬間も、
先の見えない闇へ手探りで舟を漕ぎ出そうとしている存在なのでしょう。
その未来の彼方には、何が待っているかわからない。

なので、AかBかの大きな岐路に立ったとき、悶々と悩む。
大きな仕事をしたり、大きな決断をしなければいけない人ほど、
大きな悩みや苦しみを抱えていたりするのかもしれません。

おれたち凡人は、ほんのちっぽけなことでも、悩む。

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ミミズは、たぶん自分の決断で、のそのそ地上へ這い出て来たのでしょう。

あるいは彼には神さまのお告げが聞こえたりしたのでしょうか。
このアスファルトの向こうには、金や銀や宝物があるとか、ないとか。

いえ、もしかしたら、神さまの命じる通り──
つまり自然が与えてくれた本能の命じる通りに、ただ、出て来ただけなのかもしれません。

ミイラか、エサか、センベイかという自分の未来を、彼は不安に思っているのか。
あるいは、まったく何も考えていないのか。

いずれにしろ、やっぱり、馬鹿です。
ただ、ただ、ひたすらに懸命にせっせと体をうねらせてアスファルトの荒野を行く。
結果が無駄死にだろうが、何だろうが、自分の行きたい方へ、ひたすらに歩く。
──ひたすらに這う。



おれはリスペクトをもって彼をシャベルにすくい、
花壇の土の上へと丁重に投げ入れたのでした。











《引用・参考文献》
(1)福永武彦訳「古事記」~「日本国民文学全集1」河出書房
(2)エドワード・S・カーティス写真、井上篤夫訳「ネイティヴ・アメリカンの教え」ランダムハウス講談社
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女たちの曽我物語


さて。
はたして虎御前は実在した人物だったのでしょうか?
それとも……?
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この稿では、主に福田晃さんの「曽我物語の成立」(1)を道しるべとしながら、
民俗学や歴史の先生たちが書いた著作という地図を広げつつ、
大磯、曽我を訪ね、
中世を歩いてきました。
これら研究の分析の見事さと労苦には、ほんと、頭が下がる思いがします。
しかしながら、後世の人々が推理と証明を積み重ねたとしても、
虎の正体は××だというような、
完璧な結論に至ることは難しいようにも思われます。

が、それでいいのかもしれません。
ミステリーは、ミステリーのままであっていい。

「吾妻鏡」は、兄弟が事件を起こした後、兄弟に関わったとされる女が鎌倉に呼ばれ、
詮議を受けたことを記しています(2)
彼女は、その記述の通り、遊女だったかもしれない。
あるいは、長者の娘だったかもしれない。
あるいは、身分の下層な者だったかもしれない。
ひょっとしたら、宿河原で巫覡(ふげき)を行い、歌舞に長じた比丘尼であったかもしれない。
いずれにしろそんな女性が、自分の人生をかけてひとりの男と恋に落ちた。
その恋を背負って、一生を生きた。
そんな想像も許されるのではないでしょうか。

そして、物語に耳を傾け、虎御前の面影を想い描いた人々の心の中にこそ
真実はあるのでしょう。

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曽我兄弟は、英雄とされました。
御霊信仰にも関連するでしょうか、神としても祀られています。
仮名本「曽我物語」(3)には、源頼朝が神として祀るよう指示し、
「よう行上人」(=藤沢の遊行寺の遊行上人といわれます)を開山として
社を建てたとあります(現・静岡県富士市の曽我八幡宮)。

しかし、「地蔵菩薩霊験記」には、こんな話も伝えられています(1)

地蔵信心の聖(ひじり)が、善光寺へと詣でる途中、富士の裾野の荒野に迷い込む。
やっとお寺を見つけて一夜の宿をたのむと、美しい女が出てきて渋る。
と、そこへ、修羅の亡霊が二人、つい今しがたまで戦(いくさ)をしていたのか、
松明(たいまつ)と、べっとりと血のついた刀を持って、
はあはあと息も荒く、駆け込んでくる。
この二人こそ、世を去った曽我兄弟。
六道のうちの修羅道におちて、夜昼なく殺し合い戦うこと、日に22回。
それが今は追善の功徳によって、12回に減り、
こうして寺に寄り、わずかなあいだでも休息ができるようになったというのです。
そしてすぐにまた二人は飛び出して行く。

出てきて応対した美しい女というのが、十郎を追って同じく修羅道におちた虎。
虎は、そんな兄弟をひたすら見守っているのでした。

思わず聖が心のうちで経を唱え、合掌して目を閉じると、
ふいに風を感じ、
気づくと、草原の塚のもとに、ひとりうずくまっていたといいます。

これは、追善供養の必要を説く勧進聖がつくった物語だろうといいます。
が、胸を打たれます。

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「吾妻鏡」によると、
将軍・源頼朝は、兄弟が母宛に送った手紙を証拠物件として読んだところ、
感動して涙を流し、長く文庫に保存したとあります。
仮名本に、「曽我への文かきし事」として、
兄弟が仇討ちの直前、仇討ちへと至る軌跡を幼少の頃からくわしく振り返り、
母への手紙にしたためる場面がある。
おそらくその手紙を読んだということなのでしょう。

弟・五郎は、兄・十郎が斬られた後、
頼朝の宿所を襲撃するようにも見える“侵入”をして捕まるのですが、
そんなことをされながら、頼朝は兄弟に対して好意的です。
兄弟の霊を弔いなさいと、
曽我の庄の「乃貢(のうぐ:この時代でいう年貢)」を免除したとあります(2)

為政者である頼朝のこうした態度は、史実だったのか?
むしろ幕府は、この事件のことを隠そうとした節があるという説もあるようです。
もしかしたら「吾妻鏡」の書かれた当時、
すでに「曽我語り」が広まっていたとしたら、
その人気を意識してのものだったかもしれません。

しかし、仇討ちというのは、当時、
公(おおやけ)には認められないとしても、
人々から「あっぱれ、よくやった」と礼賛されるものだったのでしょうか?

曽我兄弟には、十郎と五郎の他にも兄弟がいます。
二人を含めると、全部で5人。
そのひとりに、腹違いの原小次郎(京の小次郎)がいて、
十郎と五郎は“仇討ち計画”を打ち明け、いっしょにやらないかと持ちかけます。
すると彼は騒ぎ出し、
こんな時節だから、親の仇というのは頻繁にいるものだ、
だからといって、仇討ちなどもっての外(ほか)だといいます。

当時は、源平合戦という戦争がやっと終息したという時代。
戦争中には、同族であっても平家と源氏に分かれて戦ったこともあったわけです。
しかし今となっては、仇だからといって勝負を決しようとせず、
仇であろうが肩を並べ、鎌倉幕府というひとつの体制に従おうとしている。
貴族政治から武家政治へと移り変わり、
主(あるじ)に奉公することで領地を与えられるという、新たな時代。
こんな時代に仇討ちをするのは、
「剛の者」と言わず「痴(しれ)者」(=馬鹿者)というべきだ。
それでも不満があるというなら、朝廷や幕府に申し立て(訴訟)、
正当な手続きを踏んで主張するといい。
──と、小次郎は説きます(3)

十郎と五郎にすれば、
いや、訴訟が出来ないからこういう手段を選ぶのだというわけですが、
これは当時のふつうの人々が抱いていた、一般的な認識ともいえるのではないでしょうか。

そしてこれは、筆者の感想なのですが、
仇となる工藤祐経は、どうもそう悪い人間には見えません。
もとはといえば、所領争いのいざこざ。
京に行かされ、自分の土地を離れているあいだに、
義理の叔父で後見人であり、妻の父親である伊東祐親(=兄弟の祖父)が裏切って
土地を横領してしまう。
さらには、妻を離縁させて他家へ嫁がせてしまい、土地も妻も奪われるということになる。
だからといって、暗殺を企て、伊東祐親の息子・河津祐泰を殺すのは悪行に違いありませんが、
非を問うならば、どっちもどっちという気がしてしまいます。

寝込みを襲うという兄弟の仇討ちも、やっていることは暗殺に近い。
私怨のための殺人傷害であることには変わりなく、
事件は、周囲の人々を巻き込みます。
義父の曽我太郎祐信は、自ら申し出て隠退。
5人いる曽我兄弟のひとり、末っ子である律師(幼名・御坊=伊東禅師)は、
遠く越後(新潟県)の国上寺にいて事件とはまったく無関係でしたが、
詮議の末に自殺に追い込まれています。

そうした周囲の犠牲も、兄弟は覚悟していたでしょうか?

兄弟が殺した工藤祐経にも幼い子どもがいました。
その子(犬房丸)は五郎を処刑するよう嘆願し、仇である五郎を死なせはするのですが、
幼くして父親を殺されるという、兄弟と同じ境遇となります。
今度は自分たちが仇となり、その子から恨みを買ったことに対して、
兄弟はどう思ったでしょう?

そして復讐を果たすことで、兄弟は自分の人生に満足できたのでしょうか?
──平成時代に住む筆者の目線で見ると、そんな疑問もわいてきます。

しかし、十郎と五郎は、修羅の道をひた走りに走り抜けました。

そんな兄弟の事件を、女性たちはどう見ていたのか。
仮名本「曽我物語」(3)に沿って、ちょっとたどってみます。

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兄弟の母親の満江御前は、夫を殺された直後、悲しみに打ちひしがれ、
当時5歳と3歳だった兄弟に、
大きくなったら仇を討って、その首を見せてくれるようにと言います。

が、時代は変わり、状況も変わります。
兄弟の祖父である伊東祐親の事情で、源頼朝の怒りを買い、
兄弟はいったんは処刑されそうになる。
結局、処刑は免れるのですが、そうした経緯もあって、
満江御前は、仇討ちうんぬんの以前に、二人には生き延びてほしかったのだと思います。

十郎は武士になってしまいましたが、
せめて弟の五郎は僧侶にしようと、満江御前は、息子を箱根権現に預ける。
が、五郎は意にそむいて、元服して武士になってしまう。
それを知った母は、五郎を勘当します。
そして兄弟の仇討ち計画を知ったとき、満江御前はこんこんと言い聞かせます。
今は、仇討ちは「謀反」「悪事」である。
死んだ父への孝行も大事だが、
それより、恩になった人や、今、生きている人たちをないがしろにしてはいけない。
仇討ちをすることは、周りの人たちを不幸にする。

しかし、兄弟は母に隠したまま計画を推しすすめ、最後まで打ち明けませんでした。
いよいよ仇討ちの場となる富士野へ向かうとき、十郎は、
富士野の巻狩りにお供するためといって、小袖を乞います。
小袖はもともと下着でしたが、当時は内に着るファッションとして流行していたようです。

けれど、五郎の勘当を、母は解こうとしません。
なかなかに気丈です。
が、兄・十郎の必死の説得に、とうとう折れて許すことになります。
そこで母は舞いを所望し、十郎が横笛を吹き、五郎が舞いを舞う。
そして舞いが終わったとき、満江御前は兄弟に小袖を与えます。

富士野へ向かうと聞いて、最初、満江御前は、
狩り場というのは父親・河津祐泰の討たれたところで縁起がよくない、
できれば行ってほしくないと言っていました。
何か予感していたのでしょう。
そしてたぶん、兄弟の態度と表情から、
死を決して仇討ちへ向かうのだということに気づいたのだと思います。
兄弟の舞いを舞う姿が、今生で見る最後であることを、たぶんわかっていた。
小袖を与えるということは、
それを黙認する、認めるという意味を持っていたのではないでしょうか。
けれども兄弟には、この小袖をなくすことなく、必ず返しに来なさい、と言いおく。
それが母親としての気持ちであったでしょう。

しかし、兄弟が生きて返しにくることはありませんでした。
小袖は、兄弟の死を伝える侍従の手によって、母の元へ返ることになります。

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母親・満江御前が、兄弟の仇討ちをずっと反対し続け、
葛藤の末に、半ば黙認という態度をとったのに対し、
虎御前は、兄弟の行動を最初から認めているように見えます。
仇討ち計画を打ち明けられても、計画の是非には何も触れず、
彼女はただ、何があろうと十郎につき従おうとしただけでした。

それは、もともとはこの物語の語り手の立場であったとすれば当然で、
また、女性が男性に意見するということは、この時代、あり得ないでしょう。
ましてや虎は、遊女の身で十郎に従う者であり、
そして恋をする女性でした。

ヒロインが遊女であるということは、
この物語にいきいきしさを与えているように思われます。
この時代──というより日本の歴史の中で、
特に武家の女性たちは、家やいろいろなしがらみに縛られ、
自分の意志で行動することは基本的にありませんでした。
恋愛はもとより、結婚や離縁も、父や祖父、家によって決められる。
満江御前をはじめ、この物語の多くの女性たちも例外ではありません。
しかしこの時代の遊女(あそびめ)は、その点については自由といえます。

もっとも遊女は「流れの身」「流れを立つる身」であり、
世の流れに浮き沈みする定めのない稼業。
さまざまな現実には縛られています。

十郎が大磯の遊郭で虎と逢っていると、
ちょうど和田義盛一門が居合わせ、別の間で酒宴をはじめます。
和田義盛は美人の評判高い虎を指名しますが、なかなか現われない。
客であればどんな相手にも応じねばなりませんが、恋人の手前、虎は行き渋る。

和田義盛はこれまで、身をやつしている兄弟の正体がバレそうになるのを救ったり、
兄弟の計画をお上に知らせようとする者をとどめたりと、
陰ながら、兄弟を援助しています。
しかし、遅れている原因が十郎の相手をしているせいだと聞いて、緊張感が走ります。
一門のひとりが部屋を訪ね、十郎と虎を丁重に酒宴に招くのですが、
そこで和田義盛は虎に、十郎と自分のどちらの盃(さかづき)に酒をつぐか、
誠に思う方を選ぶようにと迫ります。
まさに一触即発、一歩間違えれば血を見る乱闘となるところ。

ここで虎は、十郎に盃をさすのです。
遊女であれば、そして場の空気を読むとすれば、和田義盛に盃をさしてとりなすべきです。
が、あえて十郎を選ぶ。
これで殺されたとしても本望と覚悟したのかもしれません。
女の意地なのかもしれません。
和田義盛の大人な態度と、この後、心配して来た五郎が加わったこともあり、
結局事なきを得ることになります。
が、つまらないことで刃傷沙汰となれば、多くの命が失われ、
兄弟の宿望も断たれるところでした。

虎のとった選択は、プロフェッショナルな遊女のすることとは思えません。
しかし、愚かといわれたとしても、恋する女性の率直な強い意志、
そしていきいきとした自由な心意気を感じさせてくれる場面です。

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兄弟の没後、物語のエピローグの主人公となるのは、虎をはじめとする女性たちです。
そして登場する女性たちのほとんどが、出家することとなります。

十郎の恋人である虎御前。
兄弟の母である満江御前。
(※満江御前と、兄弟の姉である“二ノ宮の姉”は、
仮名本では、仏の教えに救われ、念仏する場面しか描かれていませんが、
満江御前は、事件から2年後の1195年、夫の曽我祐信とともに出家したといわれます。)
仇の工藤祐経の愛人であった遊女、手越の少将。
五郎の恋人であった遊女、化粧坂の遊君(少将)。

──彼女たちがみんな仏教に帰依して出家してしまうのは、
この物語の語りが、女性層に向けた勧進のためのものでもあったからだといわれます。

虎は、諸国をめぐったときに法然に出会って教えを受けたといいます。
法然は、流罪にあって讃岐(香川県)へ行く途中、
舟の上の遊女から問いかけられて、人生相談に答えた人です。
罪深い女性でも救われるという彼の「女人往生」の教えを、
虎は法然から聞いたとして、物語の中で滔々(とうとう)と語ります。
物語に耳を傾けた聞き手の女性たちは、きっと感銘を受けたんだろうなあと思います。

しかし、彼女たちの祈りは、女人の往生を願うばかりでなく、
修羅道におちた男たちを救うものでもあったでしょう。

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ユングは、人間は男女ともに、その心の中に男性性と女性性の両方の要素を
もっていると説きました。
そして男性が心の中に抱く内なる女性像を「アニマ」と呼びます。

「曽我物語」は、ときに「戦記もの」のジャンルとして扱われるくらい、
戦闘シーンも豊富で男性的です。
また、仮名本では、やたらに学識のありげな中国の故事がさしはさまれていて、
そんなところも、男性的な筆致を感じさせます。
しかし、ストーリーとしては、
文字として書かれる以前、もともとが「女語り」であったんだろうなという部分も
ところどころに感じられます。
女性の語りからはじまって、男性も語るようになっていった。

物語が成立していくこうした過程の中で、
虎というヒロインは、修羅におちゆく兄弟の「アニマ」となっていったのでは
ないでしょうか。
男性性に傾く中で、女性性が求められた。

ダンテが、「アニマ」であるベアトリーチェに導かれて
地獄から天上へと旅したように(「神曲」)、
「アニマ」はしばしば「魂の導き手」という役割を担います。

兄弟は、苦労の末に目的を成就することができて、もしかしたら満足したかもしれません。
もしかしたら戦いの中で充実感を得たのかもしれません。
が、恨みの果てに仇を殺すことで、心は癒えたのでしょうか?

人々は、彼らの人生を悲劇と感じ、彼らが怨霊となることをおそれました。
もしかしたら、本当の意味で心は満たされていなかったのではないでしょうか。
だから「地蔵菩薩霊験記」で語られていた後日譚のように、
今も修羅の世界で、24時間、戦い続けなければならないのかもしれない。
安らぐことなく。
深呼吸をする暇もなく。
戦いに追われるまま、心に空っぽを抱えたまま。

もしも救われる道があるとしたなら、彼らを救うのは、
修羅の世界にまでつき従いやって来て、ただひたすらに祈り見守る虎ではないか。
魂の導き手である、そんな「アニマ」としての姿が、
出家の身となって祈る女性たちの中に見出せるような気がします。

それはまた、荒ぶる魂を鎮めるために語った
「とらん」「とら」と呼ばれた女性たちの姿に重なります。

そして、私怨による刃傷沙汰だったこの事件は、
虎という「アニマ」を得て、語られることによって、
物語としての普遍性を獲得したようにも思われるのでした。











《引用・参考文献》
(1)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(2)永原慶二監修、貴志正造訳注「全訳吾妻鏡・第2巻」新人物往来社
(3)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 上・下」いてふ本刊行会



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「宿河原」という場所


大磯宿の東、高麗山の周辺を「東海道分間延絵図」(1)で見渡してみると、
下のようになります。

▼「東海道分間延絵図」をもとに作成した略図
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→参照:現在の地図(Googleマップ)

この略図の左(西)に、大磯宿があり、虎御石が伝わる延台寺があります。
高麗山の北側──この略図の方向から見れば裏側に、山下があり、
荘厳寺や山下長者屋敷跡、虎御前の住居跡があります。

そして高麗山の南側──この略図では手前となる海岸に続く一帯を「もろこしが原」といい、
現在、その一部が「唐ヶ原」という住所になっています。

仮名本の「曽我物語」に、
曽我の里に帰っていた十郎が、虎に暇乞いをするため、大磯へ向かい
「宿河原、松井田と申す所より、大磯にこそ行きにけれ。」(2)
というシーンがあります。
「松井田」という地名も現在はわからないのですが、
問題となるのが、この「宿河原」と申すところ。

「宿河原」は、日本各地に見られる地名で、
神奈川県では、川崎市の多摩川沿いの「宿河原」が有名です。
そのため、川崎市の「宿河原」へ寄ったのだと解されることもあるようです。
が、明日には仇討ちの場となる富士野へ向かうというときに、
それでも恋人にひと目あっておきたいというときに、
わざわざ悠長に多摩川まで足を伸ばすのは、どう考えても不自然です。

福田晃さんは、花水川の西側の岸、花水橋を渡って「もろこしが原」に入るあたりが、
「宿河原」であるといいます(3)
曽我から山道を通り、高麗山の北側から迂回してくると、
ここへ出るというわけです。
ちょうど善福寺を含むあたりということになります。

▼現在の善福寺
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福田晃さんが史料として引用している江戸時代の「新編相模風土記稿」。
そこに、善福寺のあたりは昔、「宿河原」と称されていたと書かれています。
そして善福寺を開いた了源上人は、この「花水の辺宿河原」に、
「幽居」「幽栖」した(=俗世間から離れて静かにひっそりと住んだ)といいます。
昔は、世間から一歩離れた場所だったわけです。

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「宿河原」という地名は、「宿川」などと同じく、境を意味すると
柳田國男は述べています(4)
そして「宿」は、「夙(しゅく)」に通じるともいいます。

白土三平さんのマンガ「カムイ伝」の主人公カムイは、
「夙(しゅく)のカムイ」と呼ばれていました。
彼が、夙谷というところの非人村の出身だからです。
歴史的な考証からいえば、ツッコミどころもあるそうなのですが、
本百姓や下人よりもさらに下層の身分である、穢多も含めた広義の意味での非人。
そのカムイたちが住んでいたのが、「夙」谷でした。

「坂」「河原」「夙」などの境界の領域には、最下層の人々が暮らしたといいます。
彼らは「坂の者」「河原者」「夙の者」、
あるいは「犬神人(いぬじにん)」「放免」「清目」など、
その地域、その時代、その職分によっても、さまざまに分かたれて称されたようです(5)
そうした中に、芸能を職能とする人々もいました。

今でも、俳優や芸能人が「河原乞食」と揶揄されるのは、
近世、京都・鴨川の四条河原(現在の四条大橋付近)で、出雲の阿国が、
歌舞伎の元祖といわれる「かぶき踊り」を始めたことに由来するといわれます。
が、それ以前の中世の頃から、河原者という人々がいて、
牛馬の解体や皮革加工業、造園業などに従事し、そして芸能に従事する人々もいました。
彼らは身分が低いとみなされて蔑視され、
それが「河原乞食」という言葉につながったのだともいいます。

「坂」や「河原」、「宿(夙)」など、どこにも属さない境界の領域に
下層の人々がいて、芸能を行う人々がいた。
現在の歌舞や演劇や語りなどの芸能も、その源流を彼らにたどることができるでしょう。
そうした彼らが信仰していたのが、「宿神」という神だったといいます。
「宿(夙)の者」は、「宿神」を信仰する者でもあるというのです。

京都の山科川の四宮河原(現・山科区四ノ宮周辺)。
「四宮」は、平安の頃、仁明天皇の第四皇子の「四の宮」である
人康親王にちなむという説があります。
彼は、出家してこの地に隠棲したといいますが、
なぜ都から追放され、隠棲せざるを得なかったか、そのいきさつはわからないのだそうです。
が、後に、両目を患った病気のせいだとか、
また、琵琶の名人だったと伝えられるようになっていく。
そうして、琵琶法師たちが彼を祖と仰ぎ、毎年のようにここへ集まっては、
道祖神を祀るように石を積み、神事を行い、彼の霊を慰めたのだそうです。

ところが柳田國男は、この「四ノ宮」は後からのこじつけであるといいます(4)
「四宮」は「しく」の当て字であり、
もともとは「しく河原」──つまり「宿河原」という境の地であったというのです。
そしてその「宿河原」で、琵琶法師たちが石を積んだりした「石塔会(積塔会)」などの神事が、
実は「宿神」を祀る祭儀であったと、福田晃さんはいいます(3)

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服部幸雄さんによれば、宿神とは、
表舞台に現れることのない「隠れ神」「隠され神」であり、秘されて祀られる神。
シャグジ、サクジン、シュクシ、スクウジンなど、さまざまな呼び方をされ、
表記のし方も、守宮神、左宮司、斎宮神、石神、四宮神など、さまざまな書き方をされる。
なかなかに複雑です。
祟りなす荒ぶる神としての面と、柔和な、しかし強さをもった守護神としての面の
両方をもつともいわれ、
また、憑依をしやすい神でもあるということです。
技芸的な芸能の神というよりも、芸能に携わる人々が拠り所とした神であったようです。
能につながる猿楽の芸能民や、
また、琵琶法師や盲僧、盲御前、説経師など、各地を放浪した芸能民たちの、
それぞれの信仰の核にこの「宿神」信仰があったといいます(5)

たとえば「蝉丸」は、琵琶法師にも信仰されましたが、
説経師たちにも、祖神として祀られました。
その背後には、宿神の存在があったといいます。
蝉丸が祀られている逢坂の関の「関明神」は、もともとは、
坂の神・境の神である「坂神」としての道祖神でした。
そこへ、蝉丸が神話化されて組み入れられ、合祀されることとなった。

同じ境を守護する神である「宿神」と「道祖神」には通じるところがあり、
宿神の多くは、道祖神に習合するかたちで残されているといいます。
四宮河原で琵琶法師が行った祭儀が、道祖神を祀るようであったと伝えられるのも、
そうした理由からでしょう。

また、近世の瞽女は、嵯峨天皇の第四の宮である「サガミの姫宮」を祖神としていました。
が、これは、蝉丸の姉であり、
蝉丸とともに祀られている「サカガミ(逆髪)の宮」であるといいます。
そして実は、弁財(才)天を守護神としていた。
この弁財天もまた、宿神と関わりがあるようなのです。

この「宿神」を奉るグループが、大磯の宿河原にもいたのではないかというのが
福田晃さんの説です(3)

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宿河原の西には、遊郭があったとされる化粧坂。
近世の地図(「東海道分間延絵図」)には、非人小屋が描かれていました。
同じ境の地として、何か交流があったでしょうか。

そのやや西には、虎が池弁財天。
もともとはここに虎御石があったといわれ、
また、「益軒吾妻路之記」などの書では、虎御石は宿河原にあったというそうです。
陰陽石という「道祖神」的な特徴をもつ石が、
「弁財天」に祀られていた。
「道祖神」、「弁財天」。──宿神とのつながりを思わせます。

宿河原の南には、もろこしが原、そして海。

世阿弥の「風姿花伝」に、猿楽能の祖として秦河勝の伝説が書かれています(6)
彼は、日本に来日した帰化人であるといい、
世阿弥によれば、芸を子孫に伝えた後、うつぼ舟に乗って海へ出る。
流れ着いた坂越(現・兵庫県赤穂市坂越)で、
「諸人に憑きたりて奇瑞(きずい)をなす」
そして国を豊かにして、
大きく荒れると書いて「大荒(おおさけ)大明神」という神になったといいます。

坂越(さこし)には、「しゃくし」とふりがなが振られていて、
「シャグジ」──つまり、「宿神」であることがわかります。
人に取り憑く荒ぶる神、秦河勝は、宿神でした。
宿神は、河原など内陸の水辺だけでなく、海浜にも示顕するというわけです。

大磯は、帰化人・高麗若光を受け入れた地で、
帰化人が住んだといわれる場所が「もろこしが原」といわれました。
そうしたところに、海から流れ来る荒ぶる霊を受け入れ、
鎮魂するようなはたらきが期待されたかもしれません。
福田晃さんは、そのようなはたらきを担う、
宿神を祀る巫女のような巫覡(ふげき)の徒、それに連なる芸能を行うグループが、
ここ「宿河原」にいたのではないかといいます(3)

そして宿河原の北には、高麗寺、高麗権現。
宿河原は、境の地でありましたが、高麗権現のお膝元であり、
その統制と影響を受けていたとも思われます。

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今、善福寺を訪ねると境内の脇に、築山のような、ごつごつの岩山にくりぬかれた横穴を
見ることができます。
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これは、大磯に点在する横穴墓古墳群のひとつで、
古墳時代後期のものとされるそうです。
そんな穴の中にお地蔵さん。
大昔の人々の墓穴は、お地蔵を祀るのにぴったりだったかもしれません。
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道祖神が地蔵信仰に習合し、仏教化していったのは早く、鎌倉時代の頃だったといいます(7)
村のはずれ(境)や峠に建っている地蔵尊は、「境の神」である道祖神であることが多い。

また、死者の霊を鎮魂する祭儀は地蔵をたよりになされることが多く、
霊が集まり、鎮魂の場であった箱根には、地蔵信仰の地として、
多くの石仏や石塔が残されています。
大磯でも、あるいはこうしたところで、鎮魂の祭儀が行われたのでしょうか。

「宿河原」という地に、宿神を祀っていた巫覡・芸能のグループ。
その中心に、高麗の修験者にしたがう巫女でもあるような比丘尼がいて、
悲劇的な死を迎えた曽我兄弟の霊を招じ入れ、
口寄せを行って鎮魂し、「死霊語り」を語っていたのではないか。
と、福田晃さんは推されています。
その比丘尼は、「とらん」あるいは「とら」と呼ばれていたかもしれない。

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善福寺を開いた了源上人という方は、平塚の入道と称された方。
その出自と来歴には、大きく2説あるようです。

ひとつは、曽我兄弟のいとこにあたる、伊東四郎祐光だったというもの。
伊豆河津の庄を治めていましたが、仇討ち事件より32年後の1225年に、出家。
大磯の高麗寺の別当を務めていたところ、
近くの国府津(こうづ)を訪れていた親鸞と邂逅。
その弟子となって了源となのり、
1239年、現・南足柄市壗下(まました)に阿弥陀堂を建立。
それが現在の南足柄市の善福寺の前身となり、
一方、草庵を結んでいた大磯に、善福寺本院を建立したといいます。

いまひとつは、曽我十郎と虎とのあいだに生まれた子どもだったという説です。
成人して河津三郎信幸(之)といいましたが、
やはり親鸞と出会って弟子となり、了源となる。
大磯の善福寺の地に草庵を結ぶ一方、
1227年、現・平塚市に阿弥陀堂を建立。
それが現在の阿弥陀寺です。
戦国時代になって比叡山との対立があり、そのため本尊を横須賀市浦賀にうつし、
現在の乗誓寺となったといいます。

虎は出家の身とはいえ、当時の比丘尼はふつうに夫を持っていましたから、
子育てをしてもおかしくはないのかもしれません。
真相はわかりませんが、もしも後者だとすれば、
虎の人生にも、母親としての幸福をかみしめた時代があったということでしょう。
了源上人は、母親である虎(あるいは虎と呼ばれた女性)をしのぶ宿河原という場所に
庵を結び善福寺を建立したということになります。

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そうして曽我兄弟を物語る「曽我語り」は、口寄せの「死霊語り」から、
「芸能の語り」へと発展し、成長していきます。
いろいろな人の口から口へ、やがて世代から世代へと伝えられていく。
「女語り」だったのが、男性が語るようにもなっていく。
時宗僧や、善光寺聖(ひじり)などの勧進聖たちにも語られていく。
念仏比丘尼や女盲、やがては瞽女たちにも語られていく。

そして「絵解き」もまた、「曽我物語」を語りました。

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とんち小坊主「一休さん」で知られる一休宗純は、若い頃、
華叟(かそう)という厳しくも理解ある老師の弟子でした。
一休26歳のとき。
兄弟子の養叟(ようそう)が、師の華叟の肖像画(=御影)を描きました。
その絵に付す詩(=賛)を、華叟自身に頼んで書いてもらいます。
その中に、
「頤(やしない)来たって的々(てきてき)児孫(じそん)に付す」
という句がありました。
これは、心をやしなって来たことで、
大事なことを明らか(=的々)にして、子や孫に伝えたいという意味。

ところが、兄弟子の養叟は、「頤(やしない)」は「養(やしない)」、
「養」叟という自分の名前に掛けた言葉で、養叟を子孫に伝えたい、
──つまり、師が弟子の悟ったことを認める=印可を下さったのだろうと解釈します。
それを周りの人々にひけらかして、絵を見せながら言いふらす。
華叟がそれを伝え聞き、「カン違いするな」と怒って絵を燃やそうとするところを、
一休がとりなすということがあったといいます(「東海一休和尚年譜」)。

それから歳月は流れ、一番弟子の養叟が大徳寺を継ぎます。
よほど相性が悪いのか、一休はこの養叟のことを悪口雑言、めちゃくちゃに攻撃します。
そうして書かれたのが、「自戒集」。
刊行したときには一休は61歳になっていましたが、このことを覚えていて、
今でも人が来れば、養叟のやつ、あの絵と賛を見せびらかしているのだろうというのです。

その様子を、
「影を指して画説(えと)きす鳥箒(とりぼうき)の手」
と漢詩に詠み、
「画説(えと)きが琵琶をひきさして鳥箒(とりぼうき)にてあれば、
畠山の六郎これは曽我の十郎五郎なんど云うに似たり。」

と、「絵解き」にたとえているというわけなのでした(8)

「鳥箒」は、絵解きが絵を指すのに使っていた、いわゆる「おはねざし」ですね。
そうして「影(=肖像画)」を指しながら、人々に説明しているところは、
まるで「絵解き」が「鳥箒」で絵を指しながら語っているようではないか。
絵の人物を指しながら、
「これは畠山六郎(畠山重忠の息子・重保)で、
これは曽我十郎、五郎で……」
などと、得意げに語っているのにそっくりだ──というわけです。

思わず説明が長くなってしまいましたが、この一節をもって、
つまり、この時代、「絵解き」が「曽我物語」を語っていたことがわかる。
と、岡見正雄さんが指摘しているのだそうです(3)(9)

どんな絵を見せて語っていたのか、残念ながらその絵はどうやら残ってはいません。
が、絵解きが「曽我物語」を語ることは、たとえに使われるくらい、
当時は一般的な光景だったのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(2)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(3)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(4)柳田國男「毛坊主考」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(5)服部幸雄「宿神論 ー日本芸能民信仰の研究ー」岩波書店
(6)世阿弥「風姿花伝」〜田中裕校注「世阿弥芸術論集」新潮社・所収
(7)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(8)石井恭二訓読・現代文訳・解読「一休和尚大全 上・下」河出書房新社
(9)岡見正雄「絵解と絵巻・絵冊子」〜「国語国文・23巻8号」(昭和29年・8)中央図書出版社・所収
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