f0223055_11431570.gif演じるときに、どこに立つ?


紙芝居って、コミュニケーションだと思います。

もちろん本や絵本だって、コミュニケーション。
マンガや映画やアニメ、インターネット……。
どんなメディアだって、物語を人から人へ伝えることのできるコミュニケーションです。

が、直接的な声によって人から人へ、こころからこころへ物語を手渡す紙芝居は、
コミュニケーションの醍醐味を最大限に生かせるツールではないかと思うのです。

紙芝居が、
演じ手と観客、さらに観客と観客同士の間にコミュニケーションをひきおこすということは、
まついのりこさんが、「紙芝居~共感のよろこび」(1)の中で、繰り返し強調していることです。

この本では、そのコミュニケーションのひきおこされ方は、
紙芝居の二つのタイプによって違ってくると説明されています。

一つは、
「作品の構成が観客の参加を必要としている型」
いわゆる“参加型紙芝居”。

このタイプでは、演じ手が演じながら、観客に問いかけたり、言葉かけをします。
時には、紙芝居の中の登場人物が観客に声をかけたりする。
それに応じて観客の子どもたちが答え、物語が展開します。
言葉のやりとりだけでなく、アクションで返したり、ごっこ遊びを始めたり。
そのやりとりが、そのままストーリーとなるわけです。

出版されている紙芝居の中では、
「ぶたのいつつご」「ちびちゃん」(ともに高橋五山作・童心社)
「ごきげんのわるいコックさん」「おおきくおおきくおおきくなあれ」(ともにまついのりこ作・童心社)
「まあるいまあるい」(やべみつのり作・童心社)
「くじらクンがでたぞ!」(古川タク作・教育画劇社)
などなどがこれにあたります。

たとえば、「ごきげんのわるいコックさん」では、
すねているコックさんに「声をかけてあげて」と演じ手が観客に呼びかける。
そうして観客が「コックさーん!」と声をかけると、画面の中のコックさんが振り向いたりして、物語が進んでいきます。

観客を紙芝居の世界へ誘う。
そして演じ手と観客が、いっしょに紙芝居で遊ぶ。紙芝居を遊ぶ。
この参加型タイプでは、コミュニケーションという紙芝居の特質がはっきりわかりますね。


さて、そして、もう一つが、
「作品の構成が作品そのものの中で完結している型」
従来の一般的な、いわゆるふつうの“物語紙芝居”です。

まついさんは、このタイプの紙芝居のコミュニケーションは、
1、演じ手の表情
2、演じ手の文章を読む間
3、演じ手の画面をぬく間

によってひきおこされると書かれています。

筆者は、この3つは、このタイプだけでなく、
先述の「参加型紙芝居」のタイプにも共通する要素ではないかと考えています。

この稿では、まついのりこさんが言われるこの3要素を筆者なりに掘り下げて、
紙芝居のコミュニケーションのかたちを考えてみようと思います。


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1、「演じ手の表情」について

紙芝居の演じ方って、いろいろなスタイルがあるようですね。
演じ方は自由。
一般的には、舞台という枠を使うことがおススメとされています。

が、たとえば、アメリカで活動されているマーガレット・アイゼンシュタットさんは、
下図のようなスタイルで演じたりされています。

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マーガレットさんのやり方は、みんなが輪になってストーリーテリングを楽しむような、
そんな場にぴったり。
けれど、舞台を使わない場合、いくつかの点に注意する必要があるようです。

手に持つだけでは、画面が後ろや前に傾いてななめになったり、
またフラフラと画面がぐらついて、観客が絵に集中できなくなりやすい。
そうしないためには、
画面を支える手と画面を自分の体になるべく引きつけて
グラグラさせないようにしなければなりません。

このとき、舞台を使わなくても、
画面を机やテーブル、台などの上に置いて固定させると安定します。
マーガレットさんは、ひざの上にしっかり固定していて、ぬくときにもグラグラさせません。

また、画面を持つ手の指が大きく絵にかかっていると、
気になって観客の集中力を削いでしまいます。
なるべく画面の端を持ち、指で絵をさえぎらないように。

マーガレットさんのスタイルでは、
マーガレットさんならではのこうしたテクニックも必要のようです。
やはり、基本的には、出版紙芝居でも、手作り紙芝居でも、
舞台はあった方がやりやすいかなと思います。

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なぜ舞台の枠を使うのか?
その理由のひとつを、紙芝居実演の第一人者、右手和子さんはこう書かれています。

「お芝居が舞台の上で行われるのと同じように、紙芝居も舞台という枠の中で行われてはじめて、現実の世界ではない別の世界ができあがり、観客はドラマ化された別の世界にひきよせられていくからです。」(2)

物語空間がきちんと仕切られることで、観客の期待度、集中度も高まります。
やっぱり舞台があると、子どもたちのワクワク感がちがってきますね。
他にも演出上の利点があったりなどして、舞台は確かにおススメです。


舞台自体の位置については、堀尾青史さんが次のようにまとめています。

「 1. 最前列より1メートル以上はなれたところ、観客の目より高め。
 2. テーブルの上に安定させる。
 3. 絵に影のできないように、暗くならぬよう。
 4. 舞台のうしろに光るもののないよう。」
(3)

昔の街頭紙芝居では、テーブルの上ではなく、
自転車の荷台の箱に取り付けて安定させていました。
やはり子どもたちの目線よりちょっと高めで、
やや見下ろすななめの角度で設置されているのが基本的なスタイルだったようです。

また、「光るもの」といったら、太陽。
太陽が舞台のうしろの位置、つまり観客からみて逆光にならないよう
気をつけなければなりません。
室内では特に、舞台の影が絵を暗くしないよう、照明の位置にも気を使う必要があるようです。
舞台の下や上に蛍光灯などを取り付け、画面自体を照らして見やすくする工夫もあります。

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さて、そうした舞台に対して、演じ手がどこに立って演じるかは、
演目や人によっても微妙な違いがあるようで、その立ち位置にも個性が出るようです。

これは筆者の独断の私見の偏見なのですが、
関東の紙芝居と、関西の紙芝居は、演じ方のスタイルに違いがあり、
それが立ち位置にもあらわれるように思います。
もちろん十人十色、演じ手それぞれにスタイルがあり、
必ずしも関東・関西に分けられはしないのですが、なんとなく傾向がある気がするのです。

関東では、一般に、下図のような
オーソドックスな位置に立って演じられることが多いのではないでしょうか。

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舞台の下手(観客にからは向かって左)側のやや後ろ。
裏書きの脚本が読める位置です。

それに対し、関西では、そこからはみ出して、前に出てくる。
舞台と並んで立ったり、
あるいは舞台より前にからだを乗りだして立つ方が多いような気がするのです(下図)。

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筆者のみた、ある関西の方は、時折、半歩ほど前に飛び出てきては、
観客といっしょに画面をながめるようにしながら演じられていました。

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加太こうじ「紙芝居昭和史」(4)によると、
かつての街頭紙芝居では、場面裏に書かれた「裏書き(説明文=台本をメモ書きしたもの)」と、
実際に演じてしゃべる「説明」が別々だったそうですね。

演じ手は、裏書き──つまり台本の台詞そのままを読むのではなく、
そこに自分独自の説明を補ったり加えたりしていた。

いわば全編がアドリブ。
歌舞伎では、
俳優がその場でとっさに言う、台本にはない短い台詞を「捨て台詞」というそうですが、
全編がその「捨て台詞」だったわけです。

これには、紙芝居屋という当時の商売の忙しさも影響していたようです。
毎日のように画家が描き上げ、新作を作っては演じるという自転車操業の中で、
裏書きをいちいち書いている暇さえない。
右手和子さんの回想によると、
そうした裏書きのない紙芝居は、紙芝居屋同士で演じ手から演じ手へ、
口伝えで内容が伝えられたそうです(2)

(これは「口立て」とも「つける」ともいうそうです。
落語では、師匠が弟子に口伝えで噺を教えることを、「つける」といいますが、
そんなところからきた言葉でしょうか。
今でも、いわゆる「大衆演劇」のような舞台ではきちんとした脚本がなく、
「口立て」で台詞が伝えられることが多いようです。
現代演劇でも、「稽古の鬼」ともいわれた脚本・演出家のつかこうへいさんは、
脚本の6割を稽古の現場で「口立て」していたそうです。)

当時、「バイニン(売人)」と呼ばれた演じ手たちの中には、
元職人や元サラリーマン、学生など、素人に近いような人も多く、
そんな人々がめいめい勝手に“説明”を講じていた。

アドリブや口立てはそうした演じ手たちに任せられ、
字を書く暇さえないわずかな時間の中で、ともすれば、いいかげんになったり、
デタラメな台詞となる可能性もおおいにありました。

そんなそれぞれの「説明」に任せるのではなく、
きちんと完成された裏書きの「台本」があれば、
素人でもそれをそのまま読めば、それが最良の「説明」となるのではないか──。
と、東京では、加太こうじさんらを中心に、そうした質の向上を目指す努力が続けられたそうです。
飽きさせないような台本の表現を工夫し、洗練させ、練り込んでいった。

これは、いうなれば「台本中心」主義。
質の高い台本(裏書き)をそのまま読ませることによって、口演の質を高め、
底上げをしていったわけです。

もっともこれには、警視庁の取り締まりも一因したという話もあります。
当時、エロ・グロの流行への批判があり、紙芝居も検閲を受けることになった。
その際には、書式も定められた「説明書」(=台本)を提出することを求められたそうです。

そうした、きちんとした台本を書く必要があったため、それが洗練化した脚本づくりにつながり、
ストーリーも複雑化していったという指摘もあります(5)

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そんな東京の紙芝居の一方、
当時の関西の紙芝居は、いうなれば「説明(アドリブ)中心」。

裏書きの「台本」は、ストーリーの覚え書きメモのようなもので、あくまでも参考にすぎない。
演じ手はそれに基づいて、そして何より絵に基づいて、
いかにうまい「説明」を語るかを追い求めたそうです。

時には、裏書きさえ読まない。
ただ描かれてある絵だけを見て、無声映画の活弁士よろしく、独自に説明をつける。
となると、アップ(大写し)だけの絵、背景のわかりにくい絵、
画面だけ見てもストーリーが読めない絵は、どう説明していいかわからなくなります。
そのため、関西では、
これらのテクニックを多用した東京の絵は嫌われる傾向にあったんだそうです。

加太こうじさんは、台本を無視して勝手に絵の解釈をするような当時の関西のやり方を、
前近代的で遅れていたとしていますが、いや、確かにそうなのかもしれません。
冗漫になったり、意味不明となりやすかった。

が、しかし、しゃべくりの本場である関西の文化のこれは特性でもあったのではないか
とも思われます。
勝手な説明はデタラメで筋の合わないストーリーを生んだかもしれませんが、
一方で、そのいきいきとした語りが観客の子どもたちをわかせ、
夢中にさせた例もないとはいえないと思うのです。

いわゆる大道芸と呼ばれる巷の芸は、いかに通行人の足を止めさせ、ひきつけ、
いかに飽きさせないようにするか、
お客の顔色を見ながら必死に工夫をこらします(でないと食べていかれません)。
街頭紙芝居でもそうした工夫が、日々、求められたに違いありません。

そのとき、お客である子どもたちとの掛け合いの中で、
自由に語ることのできる「説明」のしゃべくりが鍛えられて進化したりする。
それは、通りいっぺんの「台本」通りの演じ方では得られないものでしょう。

街頭紙芝居の時代が遠い昔となり、
主に保育や教育の現場などを中心に演じられている現在の紙芝居は、「台本中心主義」です。
台本(脚本)をそのまま読んでいけば、紙芝居が成立します。
よけいなアドリブや勝手なおしゃべりは、むしろ排除される傾向さえあるかもしれません。

しかし、関西流のやり方は、
たとえば、“絵芝居”を提唱され、大阪出身で主に関西で活躍された坂本一房さんなどに
受け継がれていきました。
「紙芝居をつくろう」という本の中で坂本一房さんはこう述べています。

「(絵を)見て、それを説明する。だから俳優(=演じ手)というのは、それから受ける印象、想像力、絵に対する発見を大事にしたい。」(6)(※カッコ内は筆者)

「絵芝居」。
──つまり、台本を読んでドラマを演じるというより、
絵が語っているそのドラマを演じる、というニュアンス。

こうした姿勢は、関西では伝統的なのでしょう。
だから、裏書きの脚本よりも、絵。その説明。
となると、舞台よりも前へ、前へと体を乗り出す。
時には、観客といっしょに絵をながめ、そのイマジネーションをふくらませるようにして演じる、
そんな位置へ体を置くようになるのではないかと思います。

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観客の視線は、まず画面に集めるのが第一。
演じ手は画面よりも後ろへ引いた位置にいて、絵よりも目立ってはいけない。

という考え方からすれば、画面より前へ出るのは禁じ手です。
また、より完璧な芸を披露するというような観点からすれば、
読んで演じることに集中するため、舞台より後ろの基本位置に立つべきということになるでしょう。

けれど、そうしたセオリー的な理由に反して前にのりだし演じる方々を見ていると、
どうもいきいきとしていて魅力的なのです。
もっとも、その位置では裏書きの脚本が読めないので、
ある程度、暗記していることが求められます。
それだけ、物語を自分のものにしているから、いきいきと感じられるのかもしれません。

しかし、どうもそれだけではない。
そこには、コミュニケーションをかたちづくる「演じ手の表情」ということが関係してくると思うのです。

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観客の視線を画面に集める。
演じ手は脚本を読むことに集中する。
──こうした点を極端に推し進めると、
演じ手は、舞台の蔭にまったく姿を隠してしまえばいいことになります。

事実、姿も顔も見せないよう、奨励された時期もありました。
戦前から戦中にかけての頃。
1940年代に日本教育紙芝居協会から発行された冊子には次のように書かれていたといいます
( 孫引きながら、上地ちづ子「紙芝居の歴史」(7)に紹介されている箇所を引用します)。

「紙芝居の小さい窓に全注意を集注させて、印象的な絵又は情緒的な絵に接し快適のリズミカルな言葉をもって次々に展開する世界に没入させるのが紙芝居とすれば、見る人を他に注意を散らすことなく専ら画面に見入って居ればよいのですから、実演者は舞台の裏にすっかりかくすのがよいのであります」
(砥上峰次「紙芝居の実演 第一歩の理解」日本教育紙芝居協会)

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この冊子は、当時、
学校や幼稚園・保育園、また、隣組や青年団、工場や農村などに配付されたものだそうで、
この論の通り、舞台裏に隠れて姿を見せずに演じた人が多かったということです。

もっとも当時演じた人は、町の世話役やエライ人が大半で、
軍国思想を教育するための上意下達式の物語が多かったそうですから、
親しく姿を見せて語らずともよかったのかもしれません。

ただ、舞台の裏で声を出しても、生の声では、舞台にさえぎられて声が通りにくくなりますよね。
そんなこともあって、結局今は、あまり普及していないのでしょうか。

まったく姿を隠すこうしたスタイルの紙芝居を、筆者はみたことがあります。
それは、ドラマにより没頭しやすいようにという演出だったのですが、
違和感を覚えてしまいました。(もしかしたら、そう思ったのは筆者だけかもしれません。)
マイクを使っての公演だったので、声が聴き取りにくいということはありませんでした。
また、演技も素敵で、感動的でさえあったのです。
が、たった一点、演じ手の顔が見えないということがずっと気になってしまいました。
物理的にはなんら問題はないはずなのにこの違和感は何なのだろう? 
と、そこで筆者は考えこんでしまったのでした。

(右手和子さんも、テーマが大人向けだったり、芸術性の高いような紙芝居の場合、
姿を見せずに演じられますね。
そこで演じられる実演はすばらしく、心動かされることも多いのですが、
筆者はやはり若干の違和感をぬぐえないでいます。)

紙芝居は、画面の絵を見せて物語を伝えるメディアです。
であれば、絵さえ見せれば、演じ手の表情は見せなくてもいいはず。

しかし、ホントに、まったく見せなくてもいいのでしょうか?

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《引用・参考文献》
(1)まついのりこ「紙芝居~共感のよろこび」童心社
(2)右手和子「紙芝居の上手な演じ方」童心社
(3)堀尾青史「実演、この魅力ある説得」~子どもの文化研究所編『紙芝居ー創造と教育性』童心社・所収
(4)加太こうじ「紙芝居昭和史」立風書房/岩波現代文庫
(5)山本武利「紙芝居街角のメディア」吉川弘文館
(6)坂本一房「紙芝居をつくろう」青弓社
(7)上地ちづ子「紙芝居の歴史」久山社
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