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f0223055_1544921.gifバスチアン・バルタザール・ブックスは、
行って帰ってくる・その2




「はてしない物語」(1)は、
多くの昔話やよくできた作品と同じように、
“通りいっぺんの寓意を読み取ろうとするような解釈”を拒むところがあります。
“解釈のための解釈 ”ではとらえきれない豊饒さがある。

たとえば、物語には、その果てしなさを表すような二匹のへび
──相手の尾をそれぞれかみながら輪になってつながるへびが登場します。
それはこの「はてしない物語」という本の表紙にも描かれているものでした。
これは、昔から錬金術などに伝えられる“ウロボロス”で、
ユング派の精神分析では、未分化なカオス状態という象徴の意味が与えられているものです。

が、そうした解釈を無理矢理にあてはめようとしても、あまり意味はないのではないでしょうか。

しかし、“アイゥオーラおばさま”という登場人物に出会うとき、
わたしたちは、あの母なるもの──グレートマザーのひとつの姿を見ることになります。

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「アイゥオーラ」という名前は、イタリア語で「花壇」のことなのだそうです。
彼女の体からは葉や花が咲き乱れ果実が成長し、
それが帽子の飾りとなり、花柄の模様となって服を彩ります。
そして彼女が「特別に骨をおって用意した」そのみずみずしい果実が、
バスチアンの望むままに彼の飢えと渇きを癒してくれます。

いわば「いい母親」としてのお菓子の家。
とびきりの理想的なお菓子の家ですね。

母親の体の血液が実は母乳であり、赤ん坊の糧(かて)となるように、
バスチアンは、アイゥオーラおばさまの体──つまりお菓子の家を食べる。
そして、食べることで、癒される。

彼女は、バスチアンのこれまでの道のりを肯定し……、というより、
彼の存在自体を肯定し、受けとめてくれる。
すべての価値観を見失い、傷ついたバスチアンには、
その存在をあるがままに受けいれてくれる「絶対的信頼感」を得ること、
その母なるものの抱擁を確かめることが必要だったんですね。

バスチアンは、幼児の頃に退行するようにして、アイゥオーラおばさまのもとで過ごします。
それは、バスチアンの今は亡き母親の面影をたどり、その与えてくれた愛情を、
そして彼の中にある母性を今一度確かめることでもあったでしょう。

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その家は「変わる家」
家自体も形を変えるのですが、そこで過ごす人間も「変わる」
──変容させるというのがおもしろいと思います。

ヘンゼルとグレーテルが訪ねた魔女のお菓子の家は、
彼らをその甘さの中に閉じ込めようとするものです。
つまり、成長や変容を拒む。
いわば「変わらせない家」。
もっとも、そうして魔女が彼らに与えた攻撃と試練が、実は彼らを結果的に
「変えて」いくことになるのですが。

一方、アイゥオーラおばさまの「変わる家」(=変わらせる家)は、
倉橋惣三が説いた通りの甘み──子を思う母親のこころそのものをバスチアンに与えます。
そうして彼が愛に満たされたとき、バスチアンは自分の“ほんとうの望み”が何であるかに
思い至ります。

彼の“ほんとうの望み”とは、自分が誰かから愛されることではなく、
自分から誰かを愛するということ。
それはアイゥオーラおばさまから愛を受け取らなければ、気づけなかったことかもしれません。
そうして彼は、自ら進んでお菓子の家──母なるものの元から旅立っていく。

実際、子どもたちは愛情の欠けた不安定な状態ではなかなか自立に踏み切れません。
けれど、じゅうぶんな愛情に満たされたとき、
ごく自然に自立へのステップへと足を踏み出していくものなのでしょう。
安全安心な港が築かれてはじめて、荒れる外海をも目指して船が出航出来るように。
成長する果実が、時が熟した時、ごく自然に木の枝から離れ落ちていくように。

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バスチアンのその旅立ちの朝、アイゥオーラおばさまは、
実や花だけでなく葉っぱすらもすっかり落として、枯れ木のように見えたと語られます。
その時、彼女は目を閉じたまま、無言であったところを見ると、
もしかしたらほんとうに枯れていた──死んでいたのかもしれません。
献身的なその愛情は感動的です。
もしかしたら彼女は命を賭してバスチアンに愛を与えた。

しかし、“母なるもの”──死と再生のはたらきを持つグレートマザーである彼女は、
またいつか、かたちを変えてよみがえり、バスチアンの前に現れるのではないでしょうか。

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ファンタージエン国へと「行った」バスチアンが人間世界に「帰る」ためには、
最後の、そしてほんとうの望みをみつけなければなりませんでした。
それは、誰かを愛すること。
言うことは簡単ですが、
しかしそれは、一般的に愛するというような抽象的、空想的なことではなく、
現実として具体的に実践する愛でなくてはならない。

しかし現実を生きることを忘れ、現実の記憶をなくし、
とうとう両親の記憶さえ失った彼には、誰を愛するかさえ答えることができなくなります。

ファンタージエンという国土は、人間が眠っている最中に見て、
けれど忘れてしまった夢が積み重なったその基盤の上にあるのだといいます。
なるほど、ファンタジーというのは、そういうものなのかもしれません。

無意識の中に堆積した夢のかけらの上に築かれる物語。
バスチアンは、その堆積層の地中深く、穴を穿った採掘場で、
自分の失った記憶の手がかりとなる絵を探し、掘り起こすことになります。

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「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」
と、絵本作家センダックは語っていました(2)

バスチアンが降りた坑道は、10フィートよりもはるかに深かったかもしれませんね。
けれど、確かにそこは現実の地下10フィートの根っことつながっている。
光の届かない坑道の真っ暗闇の中での手探りの作業は、
自分のこころの深層の奥底を探る作業であったのでしょう。

わずかな物音でも、繊細な夢の絵の雲母は壊れてしまう。
そのため、バスチアンの採掘の師となる坑夫ヨルは、大きな声を出しません。
むしろ沈黙によって、バスチアンを教え導く。

永遠の冬であるその場所はしんと静かで、その作業は、内的な瞑想に似ているようにも思われます。
来る日も来る日も、地道で、辛抱強さを必要とする、孤独な作業。
そこで飲むスープは身体をあたためてくれましたが、
その塩からさは、涙と汗に似ていたと語られます。


そうしてとうとうバスチアンは、1枚の絵を発掘する。
それは、「自分を最も愛してくれる」父親の絵でした。
ちょうどマックスが、「自分を最も愛してくれるだれかさん」──母親の作った夕食の匂いに導かれ、現実へと帰ってきたように(「かいじゅうたちがいるところ」(3))、
バスチアンにとっては、その絵が、現実の世界へ「帰ってくる」ための道しるべとなったわけです。

これでやっと帰ることが出来る。
そう思われたとき、バスチアンが作り出した不幸な生きものが、絵をこなごなにしてしまいます。
すべてが無に帰す。
自分の名の記憶さえ、失ってしまう。
絶対的な絶望。
そのとき、現われ、彼を救ったのは、かつての友。
──バスチアンが不信と嫉妬のために剣で胸を貫いた、アトレーユでした。

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そこでバスチアンが、「アウリン」というメダルを手放したとき、
帰るための道が開かれることになります。

「アウリン」は、バスチアンが幼ごころの君から託された、
この国を統べるための名代のしるしとも言うべき宝物で、その裏には
「汝の 欲する ことを なせ」
と刻まれていたものでした。

灰色の現実の中で絶望にこころを縮ませ、こわばらせていたバスチアンにとって、
自分には「欲することを為す」自由があること、
その可能性を信じることは大きなよろこびであり、大きな救いとなりました。

ファンタージエン国では、すべてが可能でした。
灰色の現実の中で自分の可能性を信じられず、可能性の枯渇の中で絶望に陥っていた彼に、
アウリンは可能性をもたらし、気づかせ、生気を与えてくれる。
可能性を得た彼は、しかし今度は、その大きな可能性の中で自己を見失ってしまったのです。

拡大された可能性の中でさまよっていたバスチアンは、自己自身を振り返り、
自己自身へと戻らなければなりませんでした。
そして自己の深層を掘り起こすことで、“ほんとうの”具体的な望みにたどりつく。

(※このあたりのバスチアンの心理的な状況は、
哲学者キルケゴールが、その著書「死にいたる病」(4)の中で
「可能性」と「必然性」について説いた箇所によく言い表されていると思います。)

帰る道への扉が、実は最初からバスチアンの胸にぶら下がっていたというのも、
おもしろいところですね。
最初から、自分自身が持っていた。

「内面に向かって(道を)求めるべきで、外面に向かって散漫になってはいけない」
と説いたブッダの言葉に通じるところがあるかもしれません(5)
あるいは、
「照顧脚下(しょうこきゃっか)」(足元をよく見よ)
という禅の言葉。
道は、遠く外に求めてもあるものではなく、自分のすぐ足元にあるよ、
ということなのだそうです(6)

しかし、その気づきに至るためには、失敗を重ねて試行錯誤する、
遠く外をさまよう「アスケシス」の旅が必要だったのでしょう。

この世界の根源的なパワーをもつ、“命の綱”ともいえるお宝、アウリン。
けっして失うまいと大事に持っていたその宝を手放すことこそ、
実は道を開く鍵だったというあたりも、どこか禅問答を思わせるところがある気がします。

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そしてさらに、アトレーユの友情に救われ、
バスチアンは「生命(いのち)の水」を飲むことができます。
旅は孤独でもありましたが、一人ではなかった。
人々に教えられ、導かれ、そして助けられて「生命の水」にたどり着いたわけです。

「生命の水」たちは、大きな泉として高く低く噴き出しながら、声を上げてこう言います。

「われら、生命の水!
己(おの)が内より ほとばしり出る泉…」
(1)

アト・ド・フリース著「イメージ・シンボル事典」(7)によると、
「泉(fountain)」は、異界から湧き出るものとされ、
そのイメージは、「死」「誕生」「再生」などと関連をもつとされます。

そんな生命の水を、バスチアンは全身に浴び、浸かる。
その描写は、「流」という漢字そのままに、橋のたもとから流された川の水の中で、
あるいは羊水の中で、「あの世」に行った魂が、死と再生を経験するさまに似ています。

頭部に水を降り注いで行われる「洗礼」というキリスト教の儀式は、
全身で水に浸かるのがもともとのやり方で、
これは「再生」を意味するともいわれます。

生命の水に洗われて魂は「この世」によみがえる。
生まれ変わる。
そうしてバスチアンは「帰って」きます。

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さて、すると、現実の世界が一変します。
具体的には何も変わってないのですが、生まれ変わったバスチアンの目からは、
すべてがいきいきとしているように見えてくる。

それは「ムーリーフォック(mooreeffoc)」効果でもあるでしょう。
何がいちばん大切なのかを知り、現実に立ち向かう勇気を知った彼にとって、
この世界は奥深く豊かに見えてくる。
「アスケシス」をやりとげた彼は、無彩色に、灰色に見えていた現実が、
実は豊かな彩りを持っていたことを知るわけです。

バスチアンは「生命の水」を浴びたとき、父親にも飲ませてあげようと両手にすくいました。
が、途中でこぼしてしまいます。

そういえばグリム童話に「命の水」(8)という一編があります。
瀕死の病気に苦しむ王様である父親に飲ませるために、末っ子の王子が苦労を重ねて
「命の水」を持ち帰るという物語です。

バスチアンは父親と再会を果たします。
バスチアンは、自分がいなくなって父親はよろこんでいるかもしれないくらいだと
言っていましたが、とんでもない。

バスチアンが行方不明となったあいだ(現実では一晩)じゅう、
彼は血眼になって捜し歩いていたのでした。
彼は、バスチアンの母親である妻と死別したことで、その悲嘆から抜け出せずに、
息子への関心をじゅうぶんに注げなかったのでした。
息子を失ったらと思う彼の気持ちは、いかばかりだったでしょう。

そしてバスチアンは、たぶん生まれて初めて、父親の目に涙が宿っているのを目にします。
そのときです。
途中でこぼしてしまったと思っていた「生命の水」を実は持ち帰っていたこと、
実は飲ませることが出来たんだということを確信するのです。

確かに彼は、「生命の水」を持って帰っていた。
グリム童話の父親王は、結局、息子が持ち帰った「命の水」を飲んで元気になりました。
バスチアンの父親もまた、生きる元気を取り戻すんですね。

そう。
異界へ「行って帰ってくる」こと。
「死」と「再生」を体験することは、おとなに成長するための試練であり、
それは時に、自分の中にある「生命の水」に気づくこと。
その日常の現実では見えにくい生命の“いきいきしさ”を、
こちら側の世界へ持ち帰ることであるのかもしれません。

それが、この世界をいきいきとさせる。
それは、現実に硬直したこの世界や、あるいは父親、あるいは自分自身を解きほぐし、
救うことでもあるのだと思います。

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《引用・参考文献》
(1)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(2)ナット・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(3)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(4)キルケゴール、桝田啓三郎訳「死にいたる病」〜桝田啓三郎編「キルケゴール」(「世界の名著40」)中央公論社・所収
(5)長尾雅人・荒牧典俊訳「宝積経」〜長尾雅人編「大乗仏典」(「世界の名著2」)中央公論社・所収
(6)久須本文雄「禅語入門」大法輪閣
(7)アト・ド・フリース、山下主一郎主幹、荒このみ・上坪正徳・川口紘明・喜多尾道冬・栗山啓一・竹中昌宏・深沢俊・福士久夫・山下主一郎・湯原剛共訳「イメージ・シンボル事典」大修館書店
(8)グリム「命の水」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・3」小学館・所収



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f0223055_1334694.gifバスチアン・バルタザール・ブックスは、
行って帰ってくる・その1



「はてしない物語」(1)は、
主人公バスチアンが、古本屋で「はてしない物語」という本を盗むところから始まります。
彼は、その不思議な本を読みはじめます。
そして主人公アトレーユという少年の活躍に胸を躍らせ、
読者として、彼とともに冒険の旅をすることになります。

アトレーユは、本の中にある異界──「ファンタージエン国」というファンタジーの世界の住人です。
その世界は、国の王女様的存在である「幼ごころの君」にこんなふうに説明されています。

──人間の子どもたちは、人間界とファンタージエン国の境を越えてやってくる。
彼らは、この国でしかできないような体験をする。
そうして、まるで生まれ変わるようにして、人間界へと帰っていく。

つまり、人間の子どもは、ファンタージエン国という異界へ「行って帰ってくる」わけです。
すると彼らは、それまでとは違ったような目で世界や周りの人々をながめることになる。
平凡でつまらないと思っていた人間界の現実に驚きをみたり、
神秘を感じるようになる──というのです。

「指輪物語」の作者J・R・R・トールキンが、
ファンタジーの世界(彼の言葉でいえば「第二世界」)を説明した文章に、
「ムーリーフォック」ということばが出てきます(2)

「ムーリー・フォック(mooreeffoc)」
だなんて、何の呪文かと思えば、何のことはない、それはつまり
「coffee room(コーヒー・ルーム)」
のこと。
そう書かれた喫茶店のガラス扉を、反対から、店の内側から見たときに、そう読むことが出来ます。
(ただし鏡文字ですが。)
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作家のディケンズが 、 ロンドンの喫茶店にぶらり立ち寄ったときにたまたまそれに気付いて、
「はっ」としたんだそうです。
ごく当たり前の見慣れた日常的な看板も、新しい視点、いつもとは違う視点でながめるときに、
新鮮な驚きがある。

そうしたはたらきが、文学というものにもあるのではないか。
そのはたらきを言い表すのに、「チャールズ・ディケンズ伝」でチェスタトンが
このエピソードを取り上げているのだそうです。

そしてトールキンは、そのはたらきはファンタジーにもあるもので、
ディケンズがロンドンの街角で発見したそんな新鮮な驚きを、ファンタジーの読者も感じるのだと
いうのです。
それはまさしく、「幼ごころの君」が語っていたことに通じるものでしょう。


そういえば、この「はてしない物語」の冒頭にも、不思議な看板が掲げられていました。

古本屋のドアのガラスに書かれていた
「古本屋 カール・コンラート・コレアンダー」という主人の名を掲げた看板を店の中から見ると、
こう見えるのでした。
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物語は、古本屋のこの看板から始まります。
それは、つまり、「ムーリーフォック(mooreeffoc)」の世界の始まりを暗示しているのかもしれません。

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さて、バスチアンは“本を読む”という行為によって、
そんな本の中の異界、ファンタージエン国へと踏み入ります。
本の中の主人公アトレーユに付き添い、冒険の旅を続けて行くうちに、
やがて呼びかけられ、バスチアン自身が物語に参加するようにと招じ入れられる。
そうして「幼ごころの君」の名をバスチアンが名付けることによって、物語が彼のものとなる。
彼が、物語の“読者”から物語の“主人公”へと変わるその瞬間は、
思わずワクワクしてしまう前半のクライマックスです。
そうして彼が、彼自身の物語を生きていくことになる。

虚無に侵食され、消失の危機に瀕していた国を救い、救世主となった彼が最初にしたことは、
ジャングルを暴れ回って獰猛なライオンと遊ぶことでした。
ちょうど、「かいじゅうたちのいるところ」へ行ったマックスが、
彼らと森を暴れ回って踊り遊んだように、
ジャングルでwildness(ワイルドネス=野性性)を発散させるんですね。

そうしてマックスがかいじゅうたちを征服して王様になったように、
バスチアンもまた力を持ち、王様=帝王への道を歩みます。
何しろバスチアンの思いのまま。
この世界では、彼の望み通りのことが実現するのです。
が、それゆえに彼のほんとうの望みがなんであるか、試されることにもなります。

彼は自由。
それゆえに不安です。
かくて物語は「不安の連続」の始まりとなる。

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彼の望みは、たとえば勇気ある名誉。
また、物語詩人になること。
善を施すこと。
知恵ある賢者となること、などなどでした。

しかし、思いとは裏腹に、彼のつくる世界はきしみ、ちぐはぐになっていきます。
そして権力を手に入れたと思ったとき、
甘言を弄する者しか信じられなくなり、彼を諌める友だちアトレーユをさえ疑い、嫉妬し、
いよいよ彼の孤独があらわになっていきます。

ちょうど歴史の中で、多くの権力者がたどってきた道すじの戯画(カリカチュア)のように。
そうして最期には、破滅し、いっさいを失うのです。

その間、この国に、「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、
マックスの鼻をくすぐったような夕食の匂いが漂ってくることはありません。
どころか、その「自分を最も愛してくれる」父親は、
「ぼくがいなくなってよろこんでいるかもしれないくらいだ」
と、バスチアンは言います。

そう。
この国も、やはり「現実に十フィートも根をおろして」いるのです。

バスチアンの現実は、父親とのディスコミュニケーションであり、
クラス仲間のいじめであり、
容姿や臆病な性格へのコンプレックスです。

色とりどりに彩られたファンタジーの世界に比べれば、なんと味気なく無彩色な世界でしょう。
しかし、わたしたちや子どもたちが住んでいる世界にあるのは、
大なり小なり、こうした現実ですよね。
生きるということは、「灰色でおもしろみがなく、神秘なことも驚くこともない」

そうした現実を招いたのは、実は、ファンタージエン国が虚無におかされ、
崩壊しているせいなのだと物語では語られます。
ファンタジーという精神世界のいきいきとしたエネルギーの枯渇が、現実世界を貧しいものにする。
ファンタージエン国へと「行って」、その虚無から世界を救ったのが、
他でもないバスチアンでした。

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トールキンは、「第二世界」(ファンタジーの世界)のはたらきのひとつとして、
「逃避」ということをあげています(2)

ここでトールキンが言うところの「逃避」は、現実や時代を批判したり、
理想や望みに満足を与え、育てるといったはたらきを含んだ積極的な意味でも使われています。

バスチアンは、灰色の過酷な現実の中で希望もいきいきしさも失ったとき、
ファンタジーの世界へいったん避難することで、生きるエネルギー、元気を取り戻す。

しかし「逃避」は文字通り、過酷な現実から逃げるという意味でもあります。

バスチアンは、ファンタージエン国の救世主であると同時に、現実からの逃亡者でもあるわけです。
だから、「行っ」たきりで、現実の世界へ「帰ってくる」ことができない。
帰る道すら見失ってしまうんですね。

そんなバスチアンのようにファンタージエン国へ行ったきりで、
人間界へと帰らない、あるいは帰ることのできない者たちが暮らす「元帝王たちの都」は、象徴的です。

マックスがかいじゅうたちの王様になったように、誰もがその空想(ファンタジー)の中で、
思うがまま、わがまま放題の王様、帝王になることができる。

しかし、幻想の中で望みをかなえたとしても、現実の記憶にはならない。
まったく現実から離れてしまえば、生きること自体がストップして、
自分自身が変わることができなくなるというんですね。
だから、都に住む元帝王たちは、年も取らず、成長もできずに、そこに留まっている。

無気力で、「狂気そのもの」
つまり、病気です。

その病気の危険性は、本にもあるものだし、また絵本や紙芝居にもあるものだと思います。
そしてTVやゲームや、いろいろなメディアによるヴァーチャルが氾濫し、増殖している現代では、
病人である“現役の”帝王や、“元”帝王たちが続々と増えているといえるかもしれません。

空想の世界に「逃避」ではなく、「逃亡」することで、
現実に立ち向かうこと、現実に生きることをストップしてしまう。

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「ナルニア国ものがたり」の作者、C・S・ルイスは、
ファンタジーの望みには二種類あると言います(3)

ひとつは、「病気」
病的な現実逃避。
今ある自分の現実から逃げて、
ファンタジーの中で自分の望み、欲望を代償的にとげようとするもの。

これはまさしく、ファンタジーの中で望み通りの王となった「元帝王たち」の症状です。
彼らは、この病気と診断出来るでしょう。

この種のフィクションの物語は、装いがリアルになる傾向があるといいます。
それは、
「現実に起こりうる話、起こってしかるべき話、運さえよければ自分にも起こったであろう話」
であるわけです。
しかし、
「こうした願望が想像の次元で達せられる場合、それはじつは、まったく代償的なものであって、私たちは、この世での失望や屈辱から逃れるため、そこに走るのです。
そしてそのあと、私たちは、またまた、いかんともしがたい不満足な状態のまま現実の世界にもどります。
それというのも、こうしたことはすべて、エゴへのへつらいにすぎなかったのですから。
なぜ楽しかったか、ほかの人たちの称賛の的になっている自分を心に描くことができたからです」
(3)
ということになります。

この種のファンタジーでは、お菓子の家をまるごと食べ尽くし、味わったとしても、
いざ現実に戻れば、何の腹の足しにもなっていない。
どころか、空腹感と飢餓感はますます増すばかりということになるでしょう。
ファンタジーの中で欲望を満足させるけれど、魔女との対決は避けられ、葛藤も避けられる。
すると、家に戻っても意地悪な母親は意地悪な顔をしたまま、ご健在ということになります。

一方、C・S・ルイスがあげるもうひとつが、「アスケシス」
これは、“精神訓練”と訳されたりする言葉だそうで、「一種の精神活動」であるといいます。

C・S・ルイスの「ナルニア国ものがたり」(4)に親しんだ読者には、
このアスケシス(精神訓練)という言葉の意味するところがよくわかるのではないでしょうか。

いつ陸地にたどり着くともわからない航海。
果てしのない砂漠の道行き。
地下の迷路。
そんな苦難の連続である冒険を、飢えや渇きに悩まされながら、物語の子どもたちは体験します。

そうして、へそまがりの皮肉屋の子も、偏った進歩主義の意気地なしの子も、
他人に責任を負わせるだけのいじめられっ子も、その冒険を通じて人格を成長させていきます。
冒険自体が、アスケシスであるわけです。

ここに、キリスト教の信仰篤い宗教学者でもあった
C・S・ルイスの教訓めいた隠喩を読み取ることは簡単でしょう。
しかし、そんな理屈が気にならないほどに、苦難も含めて冒険はおもしろい。
読者である子どもたち(おとなも含めた)は、そのおもしろさを楽しみます。

主人公たちが挑戦し立ち向かうそのファンタジーを楽しむことは、
つまり、いっしょに体験を共有すること、読者自身もアスケシスを体験するということなんですね。

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さて、バスチアンの望みは、「病気」だったのでしょうか? 
「アスケシス」だったのでしょうか?

彼の望んだ物語は、彼をいじめるクラスの仲間に仕返しをするといったような
リアルなものではありませんでした。
勇士たちと競技をしたり、涙の湖の由来を語ったりと、
それは昔話の伝統的なかたちにのっとったものです。

しかし、彼の望んだものは、勇気ある名誉。
──であっても、それを得て人々から称賛を得ること。
物語詩人になること。
──ではなく、その才能を評価され、名声を勝ち得ること。
善を施すこと。
──よりも、「いい人」として尊敬されること。
知恵を身につけること。
──よりも、知恵ある賢者として敬われることだったんですね。
すべて自分の「エゴへのへつらい」だった。

しかしながら、「エゴへのへつらい」から逃れ得る人というのは少ないかもしれません。
昔話でも、宝物を持ち帰ったり、大金持ちや長者や王様になったり、
絶世の美女のお姫様と結婚したりという成功が語られます。
それは人々の望みの反映であり、
「エゴイズムへのへつらい」の大いなる成就であるといえるでしょう。

昔話は、エゴイズムや欲望を否定するわけではありません。
筆者などは、おとなになった今でも、
もしかしたらホントに宝物や美女を手に入れられるのではないだろうかなどと、
秘かに欲望している人間です。
まあ、聞き手は筆者ほどに単純なアホではないとしても、
昔話は聞き手にそうした夢を見せてくれるものだと思います。

が、しかし、宝物を得るまでの過程や試練を見落とすとしたら、片手落ちでしょう。
たまたま偶然に宝物を得たとしても、得た者の人間性やその過程が語られているはずです。
愚か者が何もせずに宝物を得る「棚からボタもち」物語も数多くありますが、
そこには宝物をもたらす援助者の存在や、
彼をいかに信じるか、また、主人公の世界観や、
あるいは愚かさのほんとうの価値などが語られているはずです。

ヘンゼルとグレーテルが持ち帰った宝物だけしか目に入らず、
彼らの冒険に心動かされない読者(聞き手や観客)はいませんよね。
おもしろさは、むしろそこにある。

その試練や過程に焦点を合わせると(それが物語というものなのですが)、
金銀やエメラルドといった物質的な宝物の輝きが、何かちがうものに見えてくる。
エゴや欲望を満足させるだけではないものが見えてくる。

そこに「アスケシス」といわれる精神活動があるのだと思います。
試練や冒険に立ち向かうことで、発見したり気づいたり、味わったり、感じたり、考えたり、する。
つまり遊ぶ。
つまり体験する。

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藤田省三さんは、先に見たように、
昔話が飽きることなく語るテーマ
──「孤独な森の旅」「迷い子」「追放された彷徨」といった試練や冒険について触れていました(5)
これは、かくれんぼ遊びの中の原初的な死と再生の体験に通じるものであり、
藤田省三さんは、ここに、古来からの成年式──社会の中で一人前の成人となるための
通過儀礼としての「骨格」を見ていました。

社会から切り離され、母なるものから旅立ち、さすらうという冒険
──その“死”を体験する試練は、再生し、生まれ変わっておとなに成長するために必要な訓練。
まさしく「アスケシス」です。

川に捨てられ流されて、桃から生まれた男の子。
森に捨てられた兄妹。
彼らが鬼や魔女を倒して宝物を得るのも、これは「アスケシス」の結果であると言えます。

バスチアンは、ファンタージエン国に来てから、望みをかなえる度ごとに、
現実世界の記憶をなくしていきました。
現実世界で生きることを放棄していった。
その度に、現実世界にはっていた根っこをひとつひとつ失っていくかのようでした。

しかし、地面の表層1フィートくらいの深さの根っこは失われても、
その10フィート先の根は、なおバスチアンの現実──心の奥の現実と通いあっていたんですね。

彼がいっさいを失い、元帝王たちが陥る「病気」に気づいたとき、
そこから、正真正銘ホントの、自分の“ほんとうの望み”は何か、を探す旅が始まります。
それは、「アスケシス」という試練の旅。

またそれは、彼が自分の心の奥底を掘り起こし、
なお深く掘り起こして自分の根っこを探す旅でした。

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作者ミヒャエル・エンデによると、執筆中、
バスチアンがなぜファンタージエン国から帰って来なければいけないか、どこに出口があるのか、
作者自身にもわからなかったそうです。

そうして苦悶のうちに1年が過ぎ、出版社から催促の電話がかかってきます。
しかし彼は、こう答える他はなかった。

「バスチアンが、ファンタージエンから戻るのが嫌だと言ってきかないんだ。ぼくも帰らせることはできない」(6)

作者も主人公とともに「アスケシス」の旅を旅して苦しんでいたんですね。
バスチアンは「行って」、そしていかに「帰ってくる」か。
その「帰ってくる」道筋には、作者エンデの苦労の軌跡もたどれるような気がします。

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《引用・参考文献》
(1)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(2)J・R・R・トールキン「妖精物語について」~J・R・R・トールキン、杉山洋子訳「妖精物語の国へ」ちくま文庫・所収
(3)C・S・ルイス「子どもの本書き方三つ」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(4)C・S・ルイス、瀬田貞二訳「ナルニア国ものがたり」「ライオンと魔女」以下全7冊)岩波書店
(5)藤田省三「或る喪失の経験」「精神史的考察」平凡社/平凡社ライブラリー・所収
(6)ミヒャエル・エンデ、田村都志夫[聞き手・編訳]「ものがたりの余白」岩波現代文庫

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