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化粧坂から高麗山へ


柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉ずる人々が、「さよ」姫伝説と関連するのではないかと
いいました(1)
そして全国各地に伝わるそうした伝説の周辺に
「化粧坂(けわいざか・けしょうざか)」という地名が多いことを指摘しています。
祭祀をとり行い、歌舞を演じるときに女性が化粧をしたその印象が、
地名に残っているのではないかというのです。

大磯にも「化粧坂」があります。
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この写真は、「化粧坂」の交差点。
後ろには、高麗(こま)山と、それに連なる八俵山、二子山があり、
山へ登ろうとすると確かに坂になります。
が、現在、周辺には、特筆できるような坂は見当たりません。
当時の地形では坂があったのでしょうか?

「化粧坂」に限らず、坂は、「境(さかい)」の「さか」でもあるともいわれます。
坂や河原は、村や町の境界にあることが多く、それがシンボル化される。
もしかしたら、坂がなくても坂といわれたかもしれません。

「化粧坂」は、境界に位置することが多いと石井進さんはいいます(2)(3)
有名な鎌倉の「化粧坂」を中心に論じて、
はずれの境界であるがゆえに、そこが刑場となり、葬送の場となりやすい。
また、内と外が接する場所でもあるがゆえに、そこに交換が生まれ、商業が栄えやすい。
そして、遊女なども集まりやすいというわけです。

鎌倉の化粧坂の名前の起こりには、
平家の武将の首に化粧を施して首実検をしたといういかにも刑場らしい言い伝えと、
化粧をした遊女たちがたむろしていたからという言い伝えの両方があります。

仮名本「曽我物語」では、曽我ブラザーズの弟である五郎時致(ときむね)の恋人で、
後には出家する「化粧坂の遊君(女)」が登場します。
鎌倉の化粧坂の麓(ふもと)にあったという遊郭の女性でした。

そして一方、大磯の化粧坂にも遊郭があったといい、
ブラザーズの兄・十郎祐成の恋人である虎は、そこの遊女であったともいわれます。
彼女が朝な夕なにお化粧の水に使ったといわれるのが、この井戸。
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今でもこの井戸の水を使ってお化粧をすれば美人になれるかもしれませんが、
残念なことに埋められています。

ところで、この井戸を説明した立て札に、
このあたりは大磯の中心であったと思われると記されていました。
はて。
境界ではなかったのでしょうか?

江戸時代の東海道のようすを詳細に記録した「東海道分間延絵図(繪圖)」という
絵地図があります(4)
この絵図には、「傍示杭(ぼうじぐい)」という高さ3mほどの木の杭の位置も記されています。
「傍示杭」は、主に町の境界を示すための目印となっていたものです。

▼「東海道分間延絵図」のスケッチ
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この周辺を見てみると、画面の左側、
大磯宿の境界を示したと思われる「御料傍示杭」があります。
このスケッチでは省きましたが、見切れた左側にはいかにも宿場町らしく、
密集した家々がずらりと並んで描かれています。

そして画面の右側、
高麗寺町の境界を示したと思われる「寺領傍示杭」が、虚空蔵の隣りにあります。
下の写真は、国道1号線の横に今も残っている虚空蔵。
ここには下馬標というしるしも建っていて、
東海道を往来する大名行列は、ここで馬を降りて高麗権現を礼拝したそうです。
昔はここに「傍示杭」が立っていて、高麗寺の領地の境を示していたわけです。

(※絵図では、虚空蔵の見切れた右側にも、町らしい家々が描かれています。)
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この2つの「傍示杭」のはざまのほぼ中間地点に化粧坂があるのです。
つまり、大磯宿の境界と高麗寺町の境界との間、どちらにも属さない境界領域に
化粧坂があったと考えられます。

さらに「絵図」では、化粧坂と記された道のかたわら、
周りに家のない閑散とした場所にぽつりと、「非人小屋」が描かれています。
非人や遊女は、どこにも属さない、境界の住人でした。
江戸の頃には、ここは境界領域だったのでしょう。

では、大磯宿もなかった中世の頃はどうだったのでしょうか?
当時、遊女のいた遊郭は、身分的にも文化的にも格式の高いところで、
地方の豪族なども運営していたといいます。
このあたりに遊郭があったとすると、繁華街のように開けた場所だったかもしれません。
が、栄えた場所ではあったとしても、
町の中心ではなかったように筆者には思われます。

非人や遊女、そしておそらくは、柳田國男が言っていた、
道祖(さえ)の神を奉ずる人々も、この近くに出没したのではないでしょうか。
道祖神は、まさしく「境の神」でした。
境界にいて、外から来る悪霊や邪なものをさえぎることから、
「障(さえ)の神」とも、「塞(さい)の神」とも呼ばれます。
「塞」とは、外敵の侵入を防ぐとりでを意味する言葉です。
だから道祖神の石碑は、村や町の道の境に置かれることが多いのだといいます。

ここを訪ねたときも、道路脇に道祖神を見かけました。

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さてところで、折口信夫は、「曽我物語」は熊野系統の語りに関わりが深いと述べています。
関東においての熊野の中本山とされるのは、箱根と伊豆山。
中でも、箱根に深く関わっているといいます(5)(6)
確かに、弟の五郎は、子どもの頃に僧侶となるべく箱根で修行し、
幼名を箱王(筥王丸)ともいいました。
ワイルドで力持ちであり、それが自慢でもあった五郎の伝説が箱根に残されています。
また、兄弟の没後、虎は箱根で出家します。
兄弟の墓は、小田原の曽我にあったり、各地にあるのですが、箱根にもあります。

福田晃さんは、さらに進んで、
箱根権現とつながりのあった高麗(こま)権現の影響を指摘しています(7)
箱根権現と高麗権現を往来する修験者がいて、
そして巫女、または修験比丘尼がいたというのです。

化粧坂から歩いて4〜5分のところに高来(たかく)神社があります。
ここが昔は、高麗寺の一部でした。
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高麗寺は、朝鮮半島の高句麗から来日して帰化した高麗若光(こまのじゃっこう)に由来するとも
いわれています。
高麗山の南側のふもとから海岸にかけて、現在の唐が原を含む広い地域が
「もろこしが原」と呼ばれていたのも、帰化人が住んでいたからというそうです。

下の写真は、花水川にかかる花水橋からながめた高麗山。
安藤広重「東海道五十三次」の「平塚宿」に描かれた高麗山も、
こちらの方向から描かれたものでしょう。
おわんを伏せたような、まるっこい姿は、ゆったりと穏やかそうな山に見えます。
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▼安藤広重「東海道五十三次〜『平塚宿』」
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ところが、ふもとの高来神社の裏手から登ってみると、これがなかなかにハード。
男道と女道の2つのコースがあって、
女道から行くと、階段もしっかりと設営されていて勾配も比較的ゆるやかなのですが、
男道のコースは、足場も心もとなく、筆者はヒイヒイいってしまいました。
さすがに修験者が登り下りしたという山だけのことはあります。
写真は、頂上近くの石段です。
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とはいうものの、標高168mという、東京スカイツリーより低い山ではあり、
2〜30分ほどで頂上へ。

上宮があったとされる頂上には、今は小さな祠(ほこら)がひっそりとあるだけです。
明治のとき、廃仏毀釈の波にのみこまれ、
特に徳川幕府にゆかりのある権現を祀っているということで、壊されてしまったのです。

【補足】
……と、てっきり思っていたのですが、
コメントで、みちさんにご指摘をいただきました。
明治のときに、山のお堂や塔が壊されたことは事実のようですが、この上宮は残り、
昭和40年代頃まで保存されていたようですね。

現在に伝えられていないのは残念です。
祠の近くで、ヤマガラがしきりに鳴いていました。
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そして高麗寺は廃寺となり、その一部の「高麗(こま・こうらい)神社」が
山のふもとに「高来(たかく)神社」として残り、隣りの慶覚院とともに
いにしえの面影を今に伝えています。
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さて。
福田晃さんがその著書(7)で展開されているのが、
「虎は、箱根とつながる高麗の修験比丘尼だった」説です。

虎は、この今はなき高麗寺にいたかもしれないというのです。

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《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)石井進「石井進著作集・第9巻〜中世都市を語る」岩波書店
(3)石井進「石井進の世界・5〜中世のひろがり」山川出版社
(4)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(5)折口信夫「東北文学と民俗学との交渉」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社
(6)折口信夫「室町時代の文学」〜「折口信夫全集・第12巻」中央公論社
(7)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
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