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ずいぶん前。
東京・立川市近くのある施設で夜間警備の仕事をしていました。
そこは甲州街道に面していて、昼も夜もなく車通りが激しい。
が、渋滞することはなく、どの乗用車もどのトラックもその付近に来ると、
ひときわ加速するようにブイブイ走っておりました。

その街道に猫の死骸を見つけたのは、夕方、出勤途中のこと。
そういう場所だから、交通ルールなんか無視の猫がひかれてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
道路中央の猫はのびたまま。
車がひっきりなしに通るので、死骸を道路の端へ移動させるのは簡単ではなさそうでした。
ドライバーは前方の異物に気づいたとしても避けられないのか、その上を次々に通り過ぎて行く。
かわいそうな気がしましたが、おれは出勤を急いでいて、横目で見ながら通り過ぎました。

そして、そんなことはすっかり忘れて一晩。
仕事を終えた朝の帰り道。
その場所を通りかかると、何かぬいぐるみの切れ端のようなものを道路に見つけました。
しかし、死骸自体は、探してみてもありません。
ただその切れ端のようなものと、毛のような、ほこりのようなものがあちらこちらに散らかり、
それがブイブイ通り過ぎる車の風にあおられて低く舞っているのでした。

どうやら猫は一晩中、この場所に置かれたままだったらしいのです。
次々ひかれるまま、タイヤに砕かれ、千切られるまま。
もしかしたら、国道を管轄する事務所とかが対応して回収し、
それとわかるような塊(かたまり)を忘れていったのかもしれません。
いえ、もしかしたら、中身のおおかたはカラスなどが持って行ったのかもしれない。
あるいはもしかしたら、誰か近所の方が土に埋めるなど葬られたのかもしれない。

けれどおれの目には、車にひっきりなしにひかれるうちに、ミンチにされ、
ほこりとなってしまったように見えたのでした。
たぶんその日の昼頃までは、すました顔で毛づくろいなどしていたかもしれない猫が、
一晩でほこりに変わり果てる。
そのことに愕然とした記憶があります。

まさしく、人も獣もみんな、塵(ちり)から生まれ出て、塵に帰る。
人間は、神さまが土の塵からつくったものだから、最期には土の塵になるのだと、
聖書では語られていましたっけ(1)
今の日本のように火葬の習慣があるところでは、灰になる。
いったん灰になってから、塵となり、そして土に帰る。

生きものというのは、大地に還るものなんですね。
他のものに食われたものは、エネルギーとなり糞となり、細菌に分解されて塵となる。
倒れて地に伏したものもまた、その体を虫や微生物や他のものに食われ、分解され、塵となる。
そうして有機物となることで土を肥やし、植物の栄養となっていく。
その植物を生きものが食べ、それをまた他の生きものが食べ……。

そうした輪っか(サークル)の中に、生きものであるおれたち人間もいて、
塵やほこりもあるのかもしれません。

そう考えると、ふだん、道端で風に吹かれている塵だって、
誰かの変わり果てた姿である可能性だってないわけではない。
どこからかやって来ては吹きだまりの隅っこにたまるほこりだって、
もしかしたら何か生きものの痕跡であるのかもしれないわけです。

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映画「四つのいのち」の中で、古い教会の建物の中のほこりが描かれていました。
逆光の中でキラキラと舞う、しかし何の変哲もない、ただのほこり。
ただのゴミです。

けれど、やぎ飼いの老人にとってそれは、聖なるほこりなのでした。
老女に掃き集められ、雑誌のページを包み紙にして丁寧に折り畳まれたそれを、
老人はうやうやしく教会からもらい受けます。

一日中ずっと、いやな感じのせきをし続けたその晩、
老人は粉をコップの水に散じ入れてゴクリゴクリと飲み干していました。
てっきり薬だと思われていたその粉の正体こそ、何と、教会の床のほこり。
その地方では(あるいは老人個人の中では)、
教会のほこりは、病気を治す聖なる薬だと信じられているようなのです。
(実際には、映画の舞台となったイタリア・カラブリア州ではなく、
近くのシチリア島で信じられている信仰だそうです。)

だから、せきをし続けてもやぎの世話を休むことの出来ない老人はありがたく飲み干す。
いわゆる「イワシの頭も信心」式の、前近代的な迷信といえばそれまでです。
汚染されているかもしれない雑菌だらけのゴミを飲むだなんて、
現代医学からすれば言語道断でしょう。
けれど、映画の中では、そのプラシーボ効果たるや、あなどれないことになっています。
プラシーボ効果──薬理作用のまったくない薬でも、
「これは効く」と言われて服用すると、実際に治療の効果を発揮する。

やぎを放牧の最中、老人は野グソをする際に、そのほこりの包みを落としてしまいます。
今までは聖なるほこりを飲みさえすればおさまっていた病気の症状が、
そのために夜になってもおさまらない。
そこで教会へもらいに行くのですが、すでに夜中でもらうことが出来ない。
それがために老人は、死んでしまうのです。

まあ、常識的に考えれば、そのゴミのほこりこそが病気の遠因かもしれず、
病院に行かなかったため、病気がそうとうに進行していたことが死因だったかもしれません。

けれど、聖なるほこりを飲みさえすれば病気は治るという絶対的な信念が
それまでの彼の頑健な体を支えていたわけで、
それがなくなってしまえば、気力も健康もいっきに崩壊してしまうというのも
うなづけなくもありません。

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「ほこり」と、「老人の死」という、一見何も関係のないような2つの事柄が、
仏教でいう「因果」のように結びつけられます。
原因が起こって、結果が生じる。
つまり、
「老人が病気を治すために、教会のほこりを飲んでいる」
→「ほこりを落としてなくす」
→「老人が死ぬ」

映画では、こうした「風が吹けば桶屋がもうかる」式の因果の連鎖のようなことが
全編にわたって語られます。

たとえば、
「老人がカタツムリを拾って、たぶん食用にするため、鍋に入れておく」
→「逃げ出さないよう、重し代わりの小石をふたの上にのせていたのに、
帰ってみるとカタツムリが外へ飛び出している」
→「そこでふたをヒモで縛りつけることにして、いらなくなった小石を2階の窓から捨てる」
→「イースター祭りの行列のために衣装や十字架を運んできた小型トラックが、
坂道の途中で駐車して、その小石を車止めに使う」
→「やがて行列が通り過ぎ、それを追いかけて子どもが来ると、犬が吠えかける」
→「怖がる子どもは、自分への関心をそらせるため、道端の小石を拾って投げる」
→「ボールを取ってくる遊びをするように、犬は小石をくわえて取ってくる」
→「が、その小石は車止めで、小石を外されたトラックは坂を下り、
やぎたちを囲っていた塀にぶつかって壊す」
→「やぎたちは村へくり出す。そのうちの一匹は老人の2階の部屋に乗り込み、
わがもの顔でテーブルに乗る」

そんな事件が起こっているというのに、老人はやぎの勝手を叱るでもなく、
その横のベッドでこんこんと眠り続けている。
そこで観客は、老人の息が途絶えてしまったかもしれないことに気づかされるのです。

かくて人間(老人)の視点で語られていた物語は、ここからやぎの世界へと移り変わります。

こんなふうに書き出してみるといかにも不自然ですが、
行列のシーンなどは、10分近い長回しで撮影された遠景の1カットで描かれます。
説明のためのカットバックやクローズアップも使われますが、頻繁ではない。

シチュエーションはもちろん意図的に、かなり人工的に作られたものです。
(もっとも、やぎのアクションなどは演出通りではなく、
たぶん意図から外れた撮影時の偶発性がうまく取り込まれています。
それが巧まざるユーモアをかもし出したりしているところもミソですね。)

しかし全般的には、台詞もナレーションもない風景が淡々と映し出されるだけであり、
いかにも自然に起こった作為のない出来事のように思わせられてしまいます。

だから、画面の中の何に注目するかは観客の自由。
上記の因果の連鎖にしても、どう解釈するかは観客の想像に任せられることになります。
それがフランマルティーノ監督のねらいでもあるのでしょう。

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公式サイトのフランマルティーノ監督のインタビューによると、
この映画を発想するきっかけとなったのは、
イタリアのカラブリア州の山奥で、牧夫や炭焼きの人たちと生活をともにしたことだったそうです。
そもそも監督自身の先祖の出身地がカラブリアで、そこは彼のルーツのような場所でもあった。

調べてみると、カラブリア州はイタリアの南の端っこ。
ブーツの形をしたあのイタリア半島のつま先あたりにあります。
イオニア海をはさんで、ギリシアと対している。

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この辺は、紀元前、ギリシアの植民地だったそうで、その植民国家はクロトンと呼ばれました。
そのクロトンが、現在のカラブリア州、クロトーネ。

クロトンは、当時、ピタゴラスが移り住んで教団を設立したところとしても知られています。
昔、このカラブリア州をギリシア人のピタゴラスたちが闊歩(かっぽ)していたというわけです。

映画には、どこか異教的な、そのピタゴラス的なものが大きく反映されているようです。
監督いわく、タイトルの「四つのいのち」という言葉は、ピタゴラスが語っていた。

ピタゴラスといえば「ピタゴラスの定理」で有名ですね。
数学や幾何の業績を残した数学のエライひと。大数学者。
ですが、本来は、この世界すべて──万物の原理は数であると考えた
神秘主義の思想家だったようです。

ピタゴラスにとって「1、2、3、4」は基本となる数字で、
全部たし算すると、神聖な数である「10」となる。
それを形として表すと、美しい正三角形となる。
音楽でも、弦の長さと和音には比例関係があり、
やはり「1、2、3、4」を基礎として成り立っている。
そこに美しい調和の秩序があるといいます。

そうした数の原理は宇宙にもあるとされ、ピタゴラスによれば、
宇宙の中心には生命の源である「かまど(火)」があって、
その周りを太陽や月や地球など10個の惑星が円を描いて回転している。
そこにも、美しい調和の秩序を見いだしていたのでしょう。
星と星との距離には、音階の比例にも似た関係性があって、
惑星たちは回転しながら壮大な音楽を奏でていると考えていたようです。

東京を離れた空気のきれいなところで、夜、空をながめると、
星々のあまりのきらきらしさに、
なるほど壮大な交響曲のような感覚に圧倒される時があるものです。

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円環(サークル)を描くこの物語を象徴するように、
映画の冒頭とラストに炭焼きの風景が登場します。
物語は炭焼きの煙から始まり、
最後にまた炭焼きの煙(さらには炭を使って煮炊きする村の家庭の煙)へ帰ってくる。

この炭焼きは、古来からのやり方だそうで、炭焼き窯は使われません。
炭にする木材を小山のように積んで干し草をかぶせ、さらに土でおおって大きな山にする。
そうしてじっくり時間をかけて炭にする。
山肌のあちこちから煙が立ち昇るのですが、その穴をふさぐために土をパンパンとたたく。
このやり方は、ギリシアでもよく見られるのだとか。
ギリシアでは、足で踏みつけて煙の出る穴をふさぐそうです。

その小山のように積まれる木材の組み上げ方が美しい。
監督は最初、これを見たとき、現代芸術を見ているような感銘を受けたそうです。

火が真ん中に置かれる。
このとき、もしも木材が無秩序に置かれたとしたら、
火からの距離はばらばらで、ところどころ生焼けのものが出来てしまう。
そこで、すべて中心の火から同じ距離になるように配置するため、
組み上げた造詣は円形となります。
土山は球体となり、実際には球体を半分にした形で盛られることになる。
その美しさには、こうした実際的な自然の法則にもとづいた機能としての美があるというわけです。

それはちょうど、火(かまど)を中心として惑星が円を描くと考えた
ピタゴラスの宇宙に通じるものがあるのだと思います。

自然の中に内在する美しさ。
数学的な原理によって機能されるその仕組みのハーモニー(調和する美しさ)。

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ところでピタゴラスは、魂の輪廻転生を考えていた人でした。

数字の「1」が始まりであるように、最上であり、唯一無二の「1」が根源となる。
その最上のものから、「神」「悪鬼」「英雄」が派生して、4番目に「人間」の魂が派生する。
その人間の魂は、死んだときに肉体から離れ、
誰か他の人間や動物に宿って生まれ変わるというのです。
そうして何回も生まれ変わって浄化され、清められた末に、
始まりの根源である「1」へと帰っていく。

ピタゴラス自身、自分の前世は、パントスの息子エウポルボスだったといいます。
それがトロイア戦争のとき、メネラオスという者の槍で殺された。
生まれ変わってピタゴラスとなってから、アルゴスの町のヘラの神殿を訪ねたら、
そこの記念品の中に、エウポルボスだった当時に愛用していた楯があるのを見つけたそうです。

だから人間にしろ、獣にしろ、その生命を奪ってはいけない。
なぜならそれは、わたしたち自身の血族であるかもしれないのだから。
──そのようにピタゴラスは弟子たちに語ったということです(2)

仏教に馴染みのある日本人にはあまり違和感がない考え方だと思います。
輪廻がほんとうにあるのかという議論はともかく、
動物や、そして木や草にも魂のようなものがあるのではないかというアニミズムは、
たぶん日本人が誰でも無意識的に持っているのではないでしょうか。

動植物はもちろん、火や水もカムイ(神)であり、魂があると考えていたアイヌの人々にも
近しいかもしれません。
ショーペンハウアーは、水や石などの無機物にも生命への意志を感じていたそうですが、
宮沢賢治あたりはおそらく、石ころにも生命を感じていたはずです。

映画の「四つのいのち」とは、
人間(やぎ飼いの老人)、
動物(やぎの子ども)、
植物(モミの木)、
鉱物(炭)
の4つだと思われます。

が、これがピタゴラスの言うような輪廻転生の物語かというと、違うでしょう。
老人が死んだ後に、やぎの子が生まれますが、そこに因果関係はありません。
老人の魂がやぎに生まれ変わったと、むりやり想像できなくもありませんが、
それが強調されているわけでもありません。

放牧の途中、生まれて間もない子やぎが溝にはまって、群れから取り残され迷子になります。
親や仲間を探し回りますが、探し疲れ、やがて鳴き疲れ、
モミの大木に抱かれるようにその根元で一夜を過ごす。
子やぎを追っていた物語が、その場面からモミの物語へと移り変わります。

たぶん翌日には、老人から仕事を引き継いだやぎ飼いの男性が、子やぎを探しに来たと思われます。
しかし、もしかしたら、
たとえば一晩の寒さのために子やぎが絶命したと考えられなくもありません。
その魂がモミの木へ移り宿ったと、むりやり想像できなくもないかもしれない。
が、むりやりです。

そのモミの木は、ちょうど長野の諏訪大社の御柱祭のように切り出され、
村人たちの手で山から運ばれます。
監督のインタビューによれば、イタリアのその地方では「ピタ」の祭りというそうで、
その期間中、柱として村に飾られる。
祭りが終わると木材となり、炭焼き職人たちの手で炭にされる。
つまり「モミの木=炭」なわけで、ほんとうは「三つのいのち」であるのかも。

いえ、しかし、モミの木が焼かれることで、ひとつの生命が終わります。
そして炭になることで、新たなもうひとつの生命として生まれ変わる。
「モミの木」と「炭」は、別の生命となる。
だから「三つのいのち」ではなく、「四つのいのち」となるんですね。
もしもピタゴラスの輪廻が語られているとしたら、
この場面にこそ語られているのかもしれません。

つまりこれは輪廻の物語ではなく、
人間、動物、植物、鉱物という4つの世界が語られる4つの物語。
老人、やぎの子、モミの木(炭)は、因果の連鎖で結ばれているわけではありません。
必ずしも何か直接的な関係を持っているというわけではない。

それぞれの魂は、それぞれの円環(サークル)を巡っている。
その円環同士が、カラブリアの山奥の村というこの土地で共存共生し、
時には直接的に、時には間接的に、関わり合っています。

人間はやぎを飼いミルクを得て、モミの木を祭り、炭となして暖を得る。
子やぎはモミの木の元に安らぎを見つけます。
──四つのいのちだけでなく、村の人々、炭焼き職人、犬、草、ほこり……、
みんな、何かしらつながり合っている。
秋→冬→春とうつろう季節の円環の中で、
あるものはこの世に誕生し、あるものは死を迎える。
それぞれの円環が響き合っている。
そこに一種のハーモニー(調和)を感じられる気がするのです。

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その自然のハーモニーの輪のひとつとして、人間の輪が含まれている。
これは幸せなことだと思います。
やぎや犬と共に暮らした老人は、自然のハーモニーの中で生を営み、生を終える。

日本の花を代表するサクラ。
サクラはいっきに花開き、咲き乱れ、そして散り、地面へと落ちて土となり養分となります。
古来、その円環(サークル)を繰り返してきました。
けれど、現在の街路樹であるサクラの花は、土に還ることができません。
周りがすべてアスファルトでおおわれているからです。
美しく散った花びらは、やがて変色し、車の風にあおられるまま。
清掃処理されなければならない厄介者のゴミとなり、その多くがゴミ袋に詰められ、
焼却所へ送られます。

道路で死んだ猫もまた、たとえほこりと化しても、土に還ることは出来ないのです。
円環(サークル)をまっとうすることが出来ない。
おそらくは、都会で暮らす人間もまた。


「インディアンの行うことのすべてが円環(サークル)をなしていることに、おまえは気がついただろう。
それは宇宙の力が、つねに円をなして働いているからであり、あらゆるものは円環になろうと努めているのだ。」

(ブラック・エルク〈オガララ・ラコタ族〉)(3)

なるほど、自然と共存するインディアンの人々もまた、
自然の営みの中に円環(サークル)を見い出していました。
しかし、都会にあっては、いのちの円環(サークル)を見ることも感じることも
難しいのではないでしょうか。

宇宙を回転する天体たちは、動くときに音響を生じさせ、美しい音階をなすと、
ピタゴラスは考えていました。
けれどそれは、あまりに幽玄なために、人間の耳で聴くことが出来ないのだといいます。
しかし、ひょっとしたらピタゴラスは心の耳で、
大自然が奏でる音楽の旋律を何か感じとっていたのではないかとも思うのです。

そしてもしかしたら、おれたちもまた耳をすましさえすれば、
この映画に描かれた、おおよそエキサイティングとは言えない片田舎の風景の中に、
──BGMのない沈黙の画面の中に──
いのちの円環(サークル)がおりなす音楽の美しい旋律のかけらを、
何か感じとることが出来るかもしれません。





《引用・参考文献》
(1)旧約聖書「創世記」第3章19節、「伝道の書」第3章20節
(2)ブルフィンチ、野上弥生子訳「ギリシア・ローマ神話」岩波文庫
(3)ジョゼフ・ブルチャック編、中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる)









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