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女たちの曽我物語


さて。
はたして虎御前は実在した人物だったのでしょうか?
それとも……?
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この稿では、主に福田晃さんの「曽我物語の成立」(1)を道しるべとしながら、
民俗学や歴史の先生たちが書いた著作という地図を広げつつ、
大磯、曽我を訪ね、
中世を歩いてきました。
これら研究の分析の見事さと労苦には、ほんと、頭が下がる思いがします。
しかしながら、後世の人々が推理と証明を積み重ねたとしても、
虎の正体は××だというような、
完璧な結論に至ることは難しいようにも思われます。

が、それでいいのかもしれません。
ミステリーは、ミステリーのままであっていい。

「吾妻鏡」は、兄弟が事件を起こした後、兄弟に関わったとされる女が鎌倉に呼ばれ、
詮議を受けたことを記しています(2)
彼女は、その記述の通り、遊女だったかもしれない。
あるいは、長者の娘だったかもしれない。
あるいは、身分の下層な者だったかもしれない。
ひょっとしたら、宿河原で巫覡(ふげき)を行い、歌舞に長じた比丘尼であったかもしれない。
いずれにしろそんな女性が、自分の人生をかけてひとりの男と恋に落ちた。
その恋を背負って、一生を生きた。
そんな想像も許されるのではないでしょうか。

そして、物語に耳を傾け、虎御前の面影を想い描いた人々の心の中にこそ
真実はあるのでしょう。

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曽我兄弟は、英雄とされました。
御霊信仰にも関連するでしょうか、神としても祀られています。
仮名本「曽我物語」(3)には、源頼朝が神として祀るよう指示し、
「よう行上人」(=藤沢の遊行寺の遊行上人といわれます)を開山として
社を建てたとあります(現・静岡県富士市の曽我八幡宮)。

しかし、「地蔵菩薩霊験記」には、こんな話も伝えられています(1)

地蔵信心の聖(ひじり)が、善光寺へと詣でる途中、富士の裾野の荒野に迷い込む。
やっとお寺を見つけて一夜の宿をたのむと、美しい女が出てきて渋る。
と、そこへ、修羅の亡霊が二人、つい今しがたまで戦(いくさ)をしていたのか、
松明(たいまつ)と、べっとりと血のついた刀を持って、
はあはあと息も荒く、駆け込んでくる。
この二人こそ、世を去った曽我兄弟。
六道のうちの修羅道におちて、夜昼なく殺し合い戦うこと、日に22回。
それが今は追善の功徳によって、12回に減り、
こうして寺に寄り、わずかなあいだでも休息ができるようになったというのです。
そしてすぐにまた二人は飛び出して行く。

出てきて応対した美しい女というのが、十郎を追って同じく修羅道におちた虎。
虎は、そんな兄弟をひたすら見守っているのでした。

思わず聖が心のうちで経を唱え、合掌して目を閉じると、
ふいに風を感じ、
気づくと、草原の塚のもとに、ひとりうずくまっていたといいます。

これは、追善供養の必要を説く勧進聖がつくった物語だろうといいます。
が、胸を打たれます。

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「吾妻鏡」によると、
将軍・源頼朝は、兄弟が母宛に送った手紙を証拠物件として読んだところ、
感動して涙を流し、長く文庫に保存したとあります。
仮名本に、「曽我への文かきし事」として、
兄弟が仇討ちの直前、仇討ちへと至る軌跡を幼少の頃からくわしく振り返り、
母への手紙にしたためる場面がある。
おそらくその手紙を読んだということなのでしょう。

弟・五郎は、兄・十郎が斬られた後、
頼朝の宿所を襲撃するようにも見える“侵入”をして捕まるのですが、
そんなことをされながら、頼朝は兄弟に対して好意的です。
兄弟の霊を弔いなさいと、
曽我の庄の「乃貢(のうぐ:この時代でいう年貢)」を免除したとあります(2)

為政者である頼朝のこうした態度は、史実だったのか?
むしろ幕府は、この事件のことを隠そうとした節があるという説もあるようです。
もしかしたら「吾妻鏡」の書かれた当時、
すでに「曽我語り」が広まっていたとしたら、
その人気を意識してのものだったかもしれません。

しかし、仇討ちというのは、当時、
公(おおやけ)には認められないとしても、
人々から「あっぱれ、よくやった」と礼賛されるものだったのでしょうか?

曽我兄弟には、十郎と五郎の他にも兄弟がいます。
二人を含めると、全部で5人。
そのひとりに、腹違いの原小次郎(京の小次郎)がいて、
十郎と五郎は“仇討ち計画”を打ち明け、いっしょにやらないかと持ちかけます。
すると彼は騒ぎ出し、
こんな時節だから、親の仇というのは頻繁にいるものだ、
だからといって、仇討ちなどもっての外(ほか)だといいます。

当時は、源平合戦という戦争がやっと終息したという時代。
戦争中には、同族であっても平家と源氏に分かれて戦ったこともあったわけです。
しかし今となっては、仇だからといって勝負を決しようとせず、
仇であろうが肩を並べ、鎌倉幕府というひとつの体制に従おうとしている。
貴族政治から武家政治へと移り変わり、
主(あるじ)に奉公することで領地を与えられるという、新たな時代。
こんな時代に仇討ちをするのは、
「剛の者」と言わず「痴(しれ)者」(=馬鹿者)というべきだ。
それでも不満があるというなら、朝廷や幕府に申し立て(訴訟)、
正当な手続きを踏んで主張するといい。
──と、小次郎は説きます(3)

十郎と五郎にすれば、
いや、訴訟が出来ないからこういう手段を選ぶのだというわけですが、
これは当時のふつうの人々が抱いていた、一般的な認識ともいえるのではないでしょうか。

そしてこれは、筆者の感想なのですが、
仇となる工藤祐経は、どうもそう悪い人間には見えません。
もとはといえば、所領争いのいざこざ。
京に行かされ、自分の土地を離れているあいだに、
義理の叔父で後見人であり、妻の父親である伊東祐親(=兄弟の祖父)が裏切って
土地を横領してしまう。
さらには、妻を離縁させて他家へ嫁がせてしまい、土地も妻も奪われるということになる。
だからといって、暗殺を企て、伊東祐親の息子・河津祐泰を殺すのは悪行に違いありませんが、
非を問うならば、どっちもどっちという気がしてしまいます。

寝込みを襲うという兄弟の仇討ちも、やっていることは暗殺に近い。
私怨のための殺人傷害であることには変わりなく、
事件は、周囲の人々を巻き込みます。
義父の曽我太郎祐信は、自ら申し出て隠退。
5人いる曽我兄弟のひとり、末っ子である律師(幼名・御坊=伊東禅師)は、
遠く越後(新潟県)の国上寺にいて事件とはまったく無関係でしたが、
詮議の末に自殺に追い込まれています。

そうした周囲の犠牲も、兄弟は覚悟していたでしょうか?

兄弟が殺した工藤祐経にも幼い子どもがいました。
その子(犬房丸)は五郎を処刑するよう嘆願し、仇である五郎を死なせはするのですが、
幼くして父親を殺されるという、兄弟と同じ境遇となります。
今度は自分たちが仇となり、その子から恨みを買ったことに対して、
兄弟はどう思ったでしょう?

そして復讐を果たすことで、兄弟は自分の人生に満足できたのでしょうか?
──平成時代に住む筆者の目線で見ると、そんな疑問もわいてきます。

しかし、十郎と五郎は、修羅の道をひた走りに走り抜けました。

そんな兄弟の事件を、女性たちはどう見ていたのか。
仮名本「曽我物語」(3)に沿って、ちょっとたどってみます。

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兄弟の母親の満江御前は、夫を殺された直後、悲しみに打ちひしがれ、
当時5歳と3歳だった兄弟に、
大きくなったら仇を討って、その首を見せてくれるようにと言います。

が、時代は変わり、状況も変わります。
兄弟の祖父である伊東祐親の事情で、源頼朝の怒りを買い、
兄弟はいったんは処刑されそうになる。
結局、処刑は免れるのですが、そうした経緯もあって、
満江御前は、仇討ちうんぬんの以前に、二人には生き延びてほしかったのだと思います。

十郎は武士になってしまいましたが、
せめて弟の五郎は僧侶にしようと、満江御前は、息子を箱根権現に預ける。
が、五郎は意にそむいて、元服して武士になってしまう。
それを知った母は、五郎を勘当します。
そして兄弟の仇討ち計画を知ったとき、満江御前はこんこんと言い聞かせます。
今は、仇討ちは「謀反」「悪事」である。
死んだ父への孝行も大事だが、
それより、恩になった人や、今、生きている人たちをないがしろにしてはいけない。
仇討ちをすることは、周りの人たちを不幸にする。

しかし、兄弟は母に隠したまま計画を推しすすめ、最後まで打ち明けませんでした。
いよいよ仇討ちの場となる富士野へ向かうとき、十郎は、
富士野の巻狩りにお供するためといって、小袖を乞います。
小袖はもともと下着でしたが、当時は内に着るファッションとして流行していたようです。

けれど、五郎の勘当を、母は解こうとしません。
なかなかに気丈です。
が、兄・十郎の必死の説得に、とうとう折れて許すことになります。
そこで母は舞いを所望し、十郎が横笛を吹き、五郎が舞いを舞う。
そして舞いが終わったとき、満江御前は兄弟に小袖を与えます。

富士野へ向かうと聞いて、最初、満江御前は、
狩り場というのは父親・河津祐泰の討たれたところで縁起がよくない、
できれば行ってほしくないと言っていました。
何か予感していたのでしょう。
そしてたぶん、兄弟の態度と表情から、
死を決して仇討ちへ向かうのだということに気づいたのだと思います。
兄弟の舞いを舞う姿が、今生で見る最後であることを、たぶんわかっていた。
小袖を与えるということは、
それを黙認する、認めるという意味を持っていたのではないでしょうか。
けれども兄弟には、この小袖をなくすことなく、必ず返しに来なさい、と言いおく。
それが母親としての気持ちであったでしょう。

しかし、兄弟が生きて返しにくることはありませんでした。
小袖は、兄弟の死を伝える侍従の手によって、母の元へ返ることになります。

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母親・満江御前が、兄弟の仇討ちをずっと反対し続け、
葛藤の末に、半ば黙認という態度をとったのに対し、
虎御前は、兄弟の行動を最初から認めているように見えます。
仇討ち計画を打ち明けられても、計画の是非には何も触れず、
彼女はただ、何があろうと十郎につき従おうとしただけでした。

それは、もともとはこの物語の語り手の立場であったとすれば当然で、
また、女性が男性に意見するということは、この時代、あり得ないでしょう。
ましてや虎は、遊女の身で十郎に従う者であり、
そして恋をする女性でした。

ヒロインが遊女であるということは、
この物語にいきいきしさを与えているように思われます。
この時代──というより日本の歴史の中で、
特に武家の女性たちは、家やいろいろなしがらみに縛られ、
自分の意志で行動することは基本的にありませんでした。
恋愛はもとより、結婚や離縁も、父や祖父、家によって決められる。
満江御前をはじめ、この物語の多くの女性たちも例外ではありません。
しかしこの時代の遊女(あそびめ)は、その点については自由といえます。

もっとも遊女は「流れの身」「流れを立つる身」であり、
世の流れに浮き沈みする定めのない稼業。
さまざまな現実には縛られています。

十郎が大磯の遊郭で虎と逢っていると、
ちょうど和田義盛一門が居合わせ、別の間で酒宴をはじめます。
和田義盛は美人の評判高い虎を指名しますが、なかなか現われない。
客であればどんな相手にも応じねばなりませんが、恋人の手前、虎は行き渋る。

和田義盛はこれまで、身をやつしている兄弟の正体がバレそうになるのを救ったり、
兄弟の計画をお上に知らせようとする者をとどめたりと、
陰ながら、兄弟を援助しています。
しかし、遅れている原因が十郎の相手をしているせいだと聞いて、緊張感が走ります。
一門のひとりが部屋を訪ね、十郎と虎を丁重に酒宴に招くのですが、
そこで和田義盛は虎に、十郎と自分のどちらの盃(さかづき)に酒をつぐか、
誠に思う方を選ぶようにと迫ります。
まさに一触即発、一歩間違えれば血を見る乱闘となるところ。

ここで虎は、十郎に盃をさすのです。
遊女であれば、そして場の空気を読むとすれば、和田義盛に盃をさしてとりなすべきです。
が、あえて十郎を選ぶ。
これで殺されたとしても本望と覚悟したのかもしれません。
女の意地なのかもしれません。
和田義盛の大人な態度と、この後、心配して来た五郎が加わったこともあり、
結局事なきを得ることになります。
が、つまらないことで刃傷沙汰となれば、多くの命が失われ、
兄弟の宿望も断たれるところでした。

虎のとった選択は、プロフェッショナルな遊女のすることとは思えません。
しかし、愚かといわれたとしても、恋する女性の率直な強い意志、
そしていきいきとした自由な心意気を感じさせてくれる場面です。

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兄弟の没後、物語のエピローグの主人公となるのは、虎をはじめとする女性たちです。
そして登場する女性たちのほとんどが、出家することとなります。

十郎の恋人である虎御前。
兄弟の母である満江御前。
(※満江御前と、兄弟の姉である“二ノ宮の姉”は、
仮名本では、仏の教えに救われ、念仏する場面しか描かれていませんが、
満江御前は、事件から2年後の1195年、夫の曽我祐信とともに出家したといわれます。)
仇の工藤祐経の愛人であった遊女、手越の少将。
五郎の恋人であった遊女、化粧坂の遊君(少将)。

──彼女たちがみんな仏教に帰依して出家してしまうのは、
この物語の語りが、女性層に向けた勧進のためのものでもあったからだといわれます。

虎は、諸国をめぐったときに法然に出会って教えを受けたといいます。
法然は、流罪にあって讃岐(香川県)へ行く途中、
舟の上の遊女から問いかけられて、人生相談に答えた人です。
罪深い女性でも救われるという彼の「女人往生」の教えを、
虎は法然から聞いたとして、物語の中で滔々(とうとう)と語ります。
物語に耳を傾けた聞き手の女性たちは、きっと感銘を受けたんだろうなあと思います。

しかし、彼女たちの祈りは、女人の往生を願うばかりでなく、
修羅道におちた男たちを救うものでもあったでしょう。

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ユングは、人間は男女ともに、その心の中に男性性と女性性の両方の要素を
もっていると説きました。
そして男性が心の中に抱く内なる女性像を「アニマ」と呼びます。

「曽我物語」は、ときに「戦記もの」のジャンルとして扱われるくらい、
戦闘シーンも豊富で男性的です。
また、仮名本では、やたらに学識のありげな中国の故事がさしはさまれていて、
そんなところも、男性的な筆致を感じさせます。
しかし、ストーリーとしては、
文字として書かれる以前、もともとが「女語り」であったんだろうなという部分も
ところどころに感じられます。
女性の語りからはじまって、男性も語るようになっていった。

物語が成立していくこうした過程の中で、
虎というヒロインは、修羅におちゆく兄弟の「アニマ」となっていったのでは
ないでしょうか。
男性性に傾く中で、女性性が求められた。

ダンテが、「アニマ」であるベアトリーチェに導かれて
地獄から天上へと旅したように(「神曲」)、
「アニマ」はしばしば「魂の導き手」という役割を担います。

兄弟は、苦労の末に目的を成就することができて、もしかしたら満足したかもしれません。
もしかしたら戦いの中で充実感を得たのかもしれません。
が、恨みの果てに仇を殺すことで、心は癒えたのでしょうか?

人々は、彼らの人生を悲劇と感じ、彼らが怨霊となることをおそれました。
もしかしたら、本当の意味で心は満たされていなかったのではないでしょうか。
だから「地蔵菩薩霊験記」で語られていた後日譚のように、
今も修羅の世界で、24時間、戦い続けなければならないのかもしれない。
安らぐことなく。
深呼吸をする暇もなく。
戦いに追われるまま、心に空っぽを抱えたまま。

もしも救われる道があるとしたなら、彼らを救うのは、
修羅の世界にまでつき従いやって来て、ただひたすらに祈り見守る虎ではないか。
魂の導き手である、そんな「アニマ」としての姿が、
出家の身となって祈る女性たちの中に見出せるような気がします。

それはまた、荒ぶる魂を鎮めるために語った
「とらん」「とら」と呼ばれた女性たちの姿に重なります。

そして、私怨による刃傷沙汰だったこの事件は、
虎という「アニマ」を得て、語られることによって、
物語としての普遍性を獲得したようにも思われるのでした。











《引用・参考文献》
(1)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(2)永原慶二監修、貴志正造訳注「全訳吾妻鏡・第2巻」新人物往来社
(3)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 上・下」いてふ本刊行会



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「宿河原」という場所


大磯宿の東、高麗山の周辺を「東海道分間延絵図」(1)で見渡してみると、
下のようになります。

▼「東海道分間延絵図」をもとに作成した略図
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→参照:現在の地図(Googleマップ)

この略図の左(西)に、大磯宿があり、虎御石が伝わる延台寺があります。
高麗山の北側──この略図の方向から見れば裏側に、山下があり、
荘厳寺や山下長者屋敷跡、虎御前の住居跡があります。

そして高麗山の南側──この略図では手前となる海岸に続く一帯を「もろこしが原」といい、
現在、その一部が「唐ヶ原」という住所になっています。

仮名本の「曽我物語」に、
曽我の里に帰っていた十郎が、虎に暇乞いをするため、大磯へ向かい
「宿河原、松井田と申す所より、大磯にこそ行きにけれ。」(2)
というシーンがあります。
「松井田」という地名も現在はわからないのですが、
問題となるのが、この「宿河原」と申すところ。

「宿河原」は、日本各地に見られる地名で、
神奈川県では、川崎市の多摩川沿いの「宿河原」が有名です。
そのため、川崎市の「宿河原」へ寄ったのだと解されることもあるようです。
が、明日には仇討ちの場となる富士野へ向かうというときに、
それでも恋人にひと目あっておきたいというときに、
わざわざ悠長に多摩川まで足を伸ばすのは、どう考えても不自然です。

福田晃さんは、花水川の西側の岸、花水橋を渡って「もろこしが原」に入るあたりが、
「宿河原」であるといいます(3)
曽我から山道を通り、高麗山の北側から迂回してくると、
ここへ出るというわけです。
ちょうど善福寺を含むあたりということになります。

▼現在の善福寺
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福田晃さんが史料として引用している江戸時代の「新編相模風土記稿」。
そこに、善福寺のあたりは昔、「宿河原」と称されていたと書かれています。
そして善福寺を開いた了源上人は、この「花水の辺宿河原」に、
「幽居」「幽栖」した(=俗世間から離れて静かにひっそりと住んだ)といいます。
昔は、世間から一歩離れた場所だったわけです。

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「宿河原」という地名は、「宿川」などと同じく、境を意味すると
柳田國男は述べています(4)
そして「宿」は、「夙(しゅく)」に通じるともいいます。

白土三平さんのマンガ「カムイ伝」の主人公カムイは、
「夙(しゅく)のカムイ」と呼ばれていました。
彼が、夙谷というところの非人村の出身だからです。
歴史的な考証からいえば、ツッコミどころもあるそうなのですが、
本百姓や下人よりもさらに下層の身分である、穢多も含めた広義の意味での非人。
そのカムイたちが住んでいたのが、「夙」谷でした。

「坂」「河原」「夙」などの境界の領域には、最下層の人々が暮らしたといいます。
彼らは「坂の者」「河原者」「夙の者」、
あるいは「犬神人(いぬじにん)」「放免」「清目」など、
その地域、その時代、その職分によっても、さまざまに分かたれて称されたようです(5)
そうした中に、芸能を職能とする人々もいました。

今でも、俳優や芸能人が「河原乞食」と揶揄されるのは、
近世、京都・鴨川の四条河原(現在の四条大橋付近)で、出雲の阿国が、
歌舞伎の元祖といわれる「かぶき踊り」を始めたことに由来するといわれます。
が、それ以前の中世の頃から、河原者という人々がいて、
牛馬の解体や皮革加工業、造園業などに従事し、そして芸能に従事する人々もいました。
彼らは身分が低いとみなされて蔑視され、
それが「河原乞食」という言葉につながったのだともいいます。

「坂」や「河原」、「宿(夙)」など、どこにも属さない境界の領域に
下層の人々がいて、芸能を行う人々がいた。
現在の歌舞や演劇や語りなどの芸能も、その源流を彼らにたどることができるでしょう。
そうした彼らが信仰していたのが、「宿神」という神だったといいます。
「宿(夙)の者」は、「宿神」を信仰する者でもあるというのです。

京都の山科川の四宮河原(現・山科区四ノ宮周辺)。
「四宮」は、平安の頃、仁明天皇の第四皇子の「四の宮」である
人康親王にちなむという説があります。
彼は、出家してこの地に隠棲したといいますが、
なぜ都から追放され、隠棲せざるを得なかったか、そのいきさつはわからないのだそうです。
が、後に、両目を患った病気のせいだとか、
また、琵琶の名人だったと伝えられるようになっていく。
そうして、琵琶法師たちが彼を祖と仰ぎ、毎年のようにここへ集まっては、
道祖神を祀るように石を積み、神事を行い、彼の霊を慰めたのだそうです。

ところが柳田國男は、この「四ノ宮」は後からのこじつけであるといいます(4)
「四宮」は「しく」の当て字であり、
もともとは「しく河原」──つまり「宿河原」という境の地であったというのです。
そしてその「宿河原」で、琵琶法師たちが石を積んだりした「石塔会(積塔会)」などの神事が、
実は「宿神」を祀る祭儀であったと、福田晃さんはいいます(3)

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服部幸雄さんによれば、宿神とは、
表舞台に現れることのない「隠れ神」「隠され神」であり、秘されて祀られる神。
シャグジ、サクジン、シュクシ、スクウジンなど、さまざまな呼び方をされ、
表記のし方も、守宮神、左宮司、斎宮神、石神、四宮神など、さまざまな書き方をされる。
なかなかに複雑です。
祟りなす荒ぶる神としての面と、柔和な、しかし強さをもった守護神としての面の
両方をもつともいわれ、
また、憑依をしやすい神でもあるということです。
技芸的な芸能の神というよりも、芸能に携わる人々が拠り所とした神であったようです。
能につながる猿楽の芸能民や、
また、琵琶法師や盲僧、盲御前、説経師など、各地を放浪した芸能民たちの、
それぞれの信仰の核にこの「宿神」信仰があったといいます(5)

たとえば「蝉丸」は、琵琶法師にも信仰されましたが、
説経師たちにも、祖神として祀られました。
その背後には、宿神の存在があったといいます。
蝉丸が祀られている逢坂の関の「関明神」は、もともとは、
坂の神・境の神である「坂神」としての道祖神でした。
そこへ、蝉丸が神話化されて組み入れられ、合祀されることとなった。

同じ境を守護する神である「宿神」と「道祖神」には通じるところがあり、
宿神の多くは、道祖神に習合するかたちで残されているといいます。
四宮河原で琵琶法師が行った祭儀が、道祖神を祀るようであったと伝えられるのも、
そうした理由からでしょう。

また、近世の瞽女は、嵯峨天皇の第四の宮である「サガミの姫宮」を祖神としていました。
が、これは、蝉丸の姉であり、
蝉丸とともに祀られている「サカガミ(逆髪)の宮」であるといいます。
そして実は、弁財(才)天を守護神としていた。
この弁財天もまた、宿神と関わりがあるようなのです。

この「宿神」を奉るグループが、大磯の宿河原にもいたのではないかというのが
福田晃さんの説です(3)

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宿河原の西には、遊郭があったとされる化粧坂。
近世の地図(「東海道分間延絵図」)には、非人小屋が描かれていました。
同じ境の地として、何か交流があったでしょうか。

そのやや西には、虎が池弁財天。
もともとはここに虎御石があったといわれ、
また、「益軒吾妻路之記」などの書では、虎御石は宿河原にあったというそうです。
陰陽石という「道祖神」的な特徴をもつ石が、
「弁財天」に祀られていた。
「道祖神」、「弁財天」。──宿神とのつながりを思わせます。

宿河原の南には、もろこしが原、そして海。

世阿弥の「風姿花伝」に、猿楽能の祖として秦河勝の伝説が書かれています(6)
彼は、日本に来日した帰化人であるといい、
世阿弥によれば、芸を子孫に伝えた後、うつぼ舟に乗って海へ出る。
流れ着いた坂越(現・兵庫県赤穂市坂越)で、
「諸人に憑きたりて奇瑞(きずい)をなす」
そして国を豊かにして、
大きく荒れると書いて「大荒(おおさけ)大明神」という神になったといいます。

坂越(さこし)には、「しゃくし」とふりがなが振られていて、
「シャグジ」──つまり、「宿神」であることがわかります。
人に取り憑く荒ぶる神、秦河勝は、宿神でした。
宿神は、河原など内陸の水辺だけでなく、海浜にも示顕するというわけです。

大磯は、帰化人・高麗若光を受け入れた地で、
帰化人が住んだといわれる場所が「もろこしが原」といわれました。
そうしたところに、海から流れ来る荒ぶる霊を受け入れ、
鎮魂するようなはたらきが期待されたかもしれません。
福田晃さんは、そのようなはたらきを担う、
宿神を祀る巫女のような巫覡(ふげき)の徒、それに連なる芸能を行うグループが、
ここ「宿河原」にいたのではないかといいます(3)

そして宿河原の北には、高麗寺、高麗権現。
宿河原は、境の地でありましたが、高麗権現のお膝元であり、
その統制と影響を受けていたとも思われます。

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今、善福寺を訪ねると境内の脇に、築山のような、ごつごつの岩山にくりぬかれた横穴を
見ることができます。
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これは、大磯に点在する横穴墓古墳群のひとつで、
古墳時代後期のものとされるそうです。
そんな穴の中にお地蔵さん。
大昔の人々の墓穴は、お地蔵を祀るのにぴったりだったかもしれません。
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道祖神が地蔵信仰に習合し、仏教化していったのは早く、鎌倉時代の頃だったといいます(7)
村のはずれ(境)や峠に建っている地蔵尊は、「境の神」である道祖神であることが多い。

また、死者の霊を鎮魂する祭儀は地蔵をたよりになされることが多く、
霊が集まり、鎮魂の場であった箱根には、地蔵信仰の地として、
多くの石仏や石塔が残されています。
大磯でも、あるいはこうしたところで、鎮魂の祭儀が行われたのでしょうか。

「宿河原」という地に、宿神を祀っていた巫覡・芸能のグループ。
その中心に、高麗の修験者にしたがう巫女でもあるような比丘尼がいて、
悲劇的な死を迎えた曽我兄弟の霊を招じ入れ、
口寄せを行って鎮魂し、「死霊語り」を語っていたのではないか。
と、福田晃さんは推されています。
その比丘尼は、「とらん」あるいは「とら」と呼ばれていたかもしれない。

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善福寺を開いた了源上人という方は、平塚の入道と称された方。
その出自と来歴には、大きく2説あるようです。

ひとつは、曽我兄弟のいとこにあたる、伊東四郎祐光だったというもの。
伊豆河津の庄を治めていましたが、仇討ち事件より32年後の1225年に、出家。
大磯の高麗寺の別当を務めていたところ、
近くの国府津(こうづ)を訪れていた親鸞と邂逅。
その弟子となって了源となのり、
1239年、現・南足柄市壗下(まました)に阿弥陀堂を建立。
それが現在の南足柄市の善福寺の前身となり、
一方、草庵を結んでいた大磯に、善福寺本院を建立したといいます。

いまひとつは、曽我十郎と虎とのあいだに生まれた子どもだったという説です。
成人して河津三郎信幸(之)といいましたが、
やはり親鸞と出会って弟子となり、了源となる。
大磯の善福寺の地に草庵を結ぶ一方、
1227年、現・平塚市に阿弥陀堂を建立。
それが現在の阿弥陀寺です。
戦国時代になって比叡山との対立があり、そのため本尊を横須賀市浦賀にうつし、
現在の乗誓寺となったといいます。

虎は出家の身とはいえ、当時の比丘尼はふつうに夫を持っていましたから、
子育てをしてもおかしくはないのかもしれません。
真相はわかりませんが、もしも後者だとすれば、
虎の人生にも、母親としての幸福をかみしめた時代があったということでしょう。
了源上人は、母親である虎(あるいは虎と呼ばれた女性)をしのぶ宿河原という場所に
庵を結び善福寺を建立したということになります。

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そうして曽我兄弟を物語る「曽我語り」は、口寄せの「死霊語り」から、
「芸能の語り」へと発展し、成長していきます。
いろいろな人の口から口へ、やがて世代から世代へと伝えられていく。
「女語り」だったのが、男性が語るようにもなっていく。
時宗僧や、善光寺聖(ひじり)などの勧進聖たちにも語られていく。
念仏比丘尼や女盲、やがては瞽女たちにも語られていく。

そして「絵解き」もまた、「曽我物語」を語りました。

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とんち小坊主「一休さん」で知られる一休宗純は、若い頃、
華叟(かそう)という厳しくも理解ある老師の弟子でした。
一休26歳のとき。
兄弟子の養叟(ようそう)が、師の華叟の肖像画(=御影)を描きました。
その絵に付す詩(=賛)を、華叟自身に頼んで書いてもらいます。
その中に、
「頤(やしない)来たって的々(てきてき)児孫(じそん)に付す」
という句がありました。
これは、心をやしなって来たことで、
大事なことを明らか(=的々)にして、子や孫に伝えたいという意味。

ところが、兄弟子の養叟は、「頤(やしない)」は「養(やしない)」、
「養」叟という自分の名前に掛けた言葉で、養叟を子孫に伝えたい、
──つまり、師が弟子の悟ったことを認める=印可を下さったのだろうと解釈します。
それを周りの人々にひけらかして、絵を見せながら言いふらす。
華叟がそれを伝え聞き、「カン違いするな」と怒って絵を燃やそうとするところを、
一休がとりなすということがあったといいます(「東海一休和尚年譜」)。

それから歳月は流れ、一番弟子の養叟が大徳寺を継ぎます。
よほど相性が悪いのか、一休はこの養叟のことを悪口雑言、めちゃくちゃに攻撃します。
そうして書かれたのが、「自戒集」。
刊行したときには一休は61歳になっていましたが、このことを覚えていて、
今でも人が来れば、養叟のやつ、あの絵と賛を見せびらかしているのだろうというのです。

その様子を、
「影を指して画説(えと)きす鳥箒(とりぼうき)の手」
と漢詩に詠み、
「画説(えと)きが琵琶をひきさして鳥箒(とりぼうき)にてあれば、
畠山の六郎これは曽我の十郎五郎なんど云うに似たり。」

と、「絵解き」にたとえているというわけなのでした(8)

「鳥箒」は、絵解きが絵を指すのに使っていた、いわゆる「おはねざし」ですね。
そうして「影(=肖像画)」を指しながら、人々に説明しているところは、
まるで「絵解き」が「鳥箒」で絵を指しながら語っているようではないか。
絵の人物を指しながら、
「これは畠山六郎(畠山重忠の息子・重保)で、
これは曽我十郎、五郎で……」
などと、得意げに語っているのにそっくりだ──というわけです。

思わず説明が長くなってしまいましたが、この一節をもって、
つまり、この時代、「絵解き」が「曽我物語」を語っていたことがわかる。
と、岡見正雄さんが指摘しているのだそうです(3)(9)

どんな絵を見せて語っていたのか、残念ながらその絵はどうやら残ってはいません。
が、絵解きが「曽我物語」を語ることは、たとえに使われるくらい、
当時は一般的な光景だったのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(2)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(3)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(4)柳田國男「毛坊主考」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(5)服部幸雄「宿神論 ー日本芸能民信仰の研究ー」岩波書店
(6)世阿弥「風姿花伝」〜田中裕校注「世阿弥芸術論集」新潮社・所収
(7)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(8)石井恭二訓読・現代文訳・解読「一休和尚大全 上・下」河出書房新社
(9)岡見正雄「絵解と絵巻・絵冊子」〜「国語国文・23巻8号」(昭和29年・8)中央図書出版社・所収
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梅の里紀行


今回、大磯、それから小田原の曽我を廻ったのですが、
その曽我を訪ねたときの写真をちらほらと載せてみます。

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小田原市曽我谷津の「宗我神社」。
作家の尾崎一雄は、ここの神主さんの家に生まれたそうです。
曽我の里は、おだやかそうな自然に恵まれたところで、
尾崎一雄はいい環境で育ったんだなあと思いました。
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城前寺にある曽我兄弟のお墓。
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その隣りにある、
兄弟の義父である曽我祐信と、母親満江御前のお墓。
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「曽我物語」の周辺には、“石”がよく登場します。
ヒロイン・虎御前が化したという「虎御石」。
兄・十郎が、恋人である虎御前を忍んだ、
あるいは、十郎亡き後、母である満江御前と虎御前が彼を忍んだという「忍石」。
兄弟が力比べをしたという二宮町・川匂(かわわ)神社の「力石」。
箱根・芦ノ湖の「舟つなぎ石」。
弟・五郎が刀でまっぷたつにしたという岩のある箱根の「割石坂」──などなど。

これもそんな石のひとつ、沓(くつ)石です。
五郎が足を患ってやっと治ったとき、体がなまっていないか力試しをするために
石の上で踏ん張ったところ、石がくぼんで足形がついたといわれています。
城前寺のすぐ近く。
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曽我の里を流れる剣沢川をたどっていくと、弓張りの滝があります。
そこで、近くの山道脇の竹林をボランティアで整備されているという方に会いました。
話をしているうちに、お宅へ車で連れて行ってもらうことに。
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ご自宅の庭のみごとなしだれ梅。
絶景です。
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その方は、趣味で凧を作っていらっしゃるとのこと。
竹を割るところからはじめて、骨を組み立て、自分で絵も描く。
写真に載せられないのが残念ですが、すてきな大凧でした。
お孫さんのために作った凧もよろこばれている様子。
また、横笛や尺八なども器用に自作されていて、
悠々自適を楽しんでいらっしゃる風でした。

その方のお名前が、曽我さん。
およそ800年前、曽我兄弟の義父となった曽我太郎祐信は、温厚で、誠実で、
領民から慕われた人だったと伝えられているそうです。
名前が名前なだけに、
そんなDNAを持っておられるのではないかと思わせられる方でした。

その曽我太郎祐信の供養塔。宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
曽我山の山道脇にあります。
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その祐信の奥さんとなった、兄弟の母、満江御前が住んでいたという住居跡。
今は公民館になっています。
兄弟が仇討ちへと出立する別れのとき、満江御前は小袖を贈ります。
その場面の謡曲「小袖曽我」の舞台となったのが、ここだといわれているそうです。
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近くに、満江御前のお墓。
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満江御前のお墓へ寄る途中、梅の木の下に生きもののような物を見つけました。
よく見ると、やつれた犬のようだけど、犬ではない。
じっと動かないまま、こちらをうかがっています。
しばらく互いに顔をぼーっと見合わせたまま、数十秒間、
やっとタヌキだと気がつきました。
「あ。カメラ」
と思ったときには時遅く、しかし彼の方は、あわてるでもなくのそのそと、
近くの物置き場の廃屋のようなところへ消えていきました。

昼間から、梅林の下にタヌキとは…。
タヌキは満江御前の御使いだったのだろうか……。
と、いぶかっていたところ、近くのお店屋さんの話では、
「よく見かけますよ」とのこと。
人間を見ても驚かず、平然と歩いているのだそうです。

そんなタヌキものんびりと暮らす曽我の里。梅の里。
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尾崎一雄にしろ、曽我兄弟にしろ、
いい環境で育ったよなあと、つくづく思ったのでした。

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虎御前をめぐる女性たち──都藍尼


江戸の頃につづられた「東海道名所記」に、
絵解きをした熊野比丘尼を描写するくだりがあります。
そこで「比丘尼」を説明するのに、史上初の比丘尼であり、ブッダの養母であったインドの
喬答弥(きょうどんみ)〈=摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)=マハー・プラジャーパティー〉
から説き起こして、日本の比丘尼の起源をざっと述べています。
その中で、光明皇后が比丘尼となり、「都藍」と呼ばれたとあるのです。

どうやら、この箇所は熊野の「比丘尼縁記」に拠ったらしく、
「比丘尼縁記」にも、光明皇后が尼となり、「とらんニ」となったと書かれています(1)

光明皇后といえば、悲田院の福祉活動など、さまざまな伝説に彩られている方ですが、
「都藍尼」という比丘尼になったという話は、
この記述以外にはあまり見当たらないようです。
仏教に帰依し、法華寺という尼寺を開いたとされる光明皇后が、
比丘尼に関連する有名人として、伝説を加味されて取り上げられたのかもしれません。

ここで注意をひかれるのは、「都藍」という名前です。

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「都藍尼」は、大江匡房「本朝神仙伝」では、
奈良県の吉野山のふもとに住む尼として登場します(2)
同じ話を、柳田國男は「元亨釈書」から紹介しています(3)

彼女は仏法を修行して、仙女のように不老不死を得、数百歳であったといわれます。
その神通力をもって、奈良県の女人禁制である金峯山(きんぷせん)へ登ろうと
足を踏み入れる。
と突然、天変地異に見舞われ、持っていた杖はたちまち大樹となり、
岩は割れ、泉が噴き出します。
そうして、とうとう登ることはかなわなかったというのです。
(別の書では、殺されたともいいます。)

金峰山の一画である山上ヶ岳(大峰山)の山道入口には、
オイトシボ石(なで石)のある龍泉寺がありましたね。

また、「とらん」という比丘尼は、
滋賀県の比叡山延暦寺の「叡山略記」にも顔を出しているそうです。
こちらでは「都蘭之尼」と書かれ、
最澄に恋慕してフラれた仕返しに嘘をつく困り者として登場します。
この話は女人禁制の由来を説明するものでもあるようです。

さらに、役小角(えんのおづぬ)のお母さん。
金峰山で活躍し、龍泉寺を開いたともいわれ、
修験道の開祖といわれる、あの役行者(えんのぎょうじゃ)のお母さんの話です。

彼女は息子に会いに、山上ヶ岳(大峰山)へやって来たのですが、
山へ登ろうとすると大蛇が現われて邪魔をします。
そこで、山道入口の天川村洞川で庵を結んで祈っていると
阿弥陀如来があらわれ、息子の修行の邪魔をしてはいけないとさとされます。
彼女は、その場所より上には踏み込もうとしませんでした。
やがて役小角が山を降りてきて、その場所で会うことがかなう。
その庵を結んだ場所が、現在の「母公堂」で、
女人禁制の結界の境界点となっていました。
(現在は、結界の範囲が変わっているとのこと。)

空海のお母さんにも、高野山(和歌山県)に同じようなエピソードがあります。
その話では、空海に会いにきたお母さんは、女人結界の境界点にあった寺務所に留まり、
そこが後に「慈尊院」となったと語られます。
また、泰澄のお母さんにも、同様のエピソードがあって、
越前・平泉寺(福井県)近くに「七難の岩」があるそうです(4)

その役小角のお母さんの名前が、「白専女」。
「専女(とうめ)」は老女の意で、一般に「しらとうめ」「しらたらめ」などといわれます。
が、「とらめ(刀自女)」という名前も伝えられているというのです(2)

つまり、巫女や比丘尼たち、山に関わる宗教に関連する女性が
「とらん」とか「とらめ」などと呼ばれたらしい。
そして、結界の境界の地点でエピソードを多く残しているらしいのです。

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そうしたエピソードが、石というモチーフを伴って語られることが多いことを
柳田國男が述べています(3)(4)
例のごとく、博覧強記の情報収集力でもって伝承を並べているのですが、
その中から、いくつかかいつまんでメモしてみます。
いずれも、女人禁制の山に女性が登ろうとする話です。

◎「斗宇呂(とうろ)の尼」という者が2人の尼を伴って、
立山(富山県)へ登ろうとしたところ、石になってしまった。
これを「姥石」という。

◎「融(とおる)の尼」は、美女を同席させ、酒を売る商売上手。
(なんだか遊郭を思わせます。)
白山(富山県・岐阜県)の山の上の神社で参詣者を相手に酒を売ろうと登ったところ、
美女が美女坂で「美女石」となり、融の尼は姥坂で「姥石」となる。

◎巫女が登ったところ、「巫女岩」となる。
(新潟県、佐渡島の金北山(きんぽくさん))

◎巫女が犬を連れて登ったところ、巫女が「イタク杉」となり、犬が「犬子石」となる。
(秋田県男鹿市の赤神山(真山・本山・毛無山))
◎守子(モリコ)が登ったところ、「守子石」となる。
(秋田県横手市の保呂羽山)
◎巫女が登って、「一位墓(イチイバカ)」という自然石になる。
(埼玉県秩父郡の両神山)
※「イタク(コ)」「モリコ」「イチ」は、巫女の通称です。

◎比丘尼が登って、「比丘尼石」となる。
(長野県長野市の戸隠山)

これらの話では、巫女や比丘尼という女性の宗教家が、
女人禁制の山に足を踏み入れて石(または樹木など)になったと語られます。
これはつまり、女人禁制の結界の境界点に、
目印となるような特長的な石が置かれているということです。
役小角や空海のお母さんの例では、
「母公堂」や「慈尊院」という建物が、境界のしるしとなっていました。

それが、母親の愛情を語る話であるにしろ、
驕慢を戒められて罰せられる話であるにしろ、
女人禁制であることを説明し、その範囲を知らしめる伝承であるようにも思われます。

巫女や比丘尼は、その結界の境の地点までやってきて、
石の向こうの山頂の方にある社殿や本尊を礼拝したかもしれません。
あるいは、石そのものを祀って礼拝したかもしれません。
そうしてそこから引き返すことになる。
このような行法があったことが、これらの伝承につながったのではないかと
柳田國男はいいます。

また、巫女や比丘尼が、石を運んだということもあるようです。
熊野比丘尼は、熊野の地の小石をご神体として遊行の際に携帯し、
各地へ持ち運んだそうです。
岐阜県郡上市美並町杉原の熊野神社には、
俊応という熊野比丘尼がたもとに入れて運んだ“袂(たもと)石”を
「弥勒石」として祀っています。
が、弥勒石は、人間の背丈ほどもある巨大な自然石。
これはたもとの中の小石が、成長して大きくなったものというのです。
(彼女の杖が杉の木になったともいわれ、現在、天然記念物の巨木になっています。)

虎御石やさざれ石が成長して大きくなったという話も思い出されます。
比丘尼が石をご神体として重んじたということと、
何より石への信仰がこうした伝承を生んだのかもしれません。
比丘尼が運んだ石によってはじまったという神社も少なくないそうです(5)

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そして、このような行法を行う巫女や比丘尼たちは
「とらん」「とらめ」「とうろ」「とおる」などと呼ばれていたわけです。
もしくは、名乗っていた。

柳田國男は、これらの言葉が、古代の「タル」に由来するのではないかという推論を
ちらっと記しています(6)
太陽や吉日のことを「生日足日(いくひのたるひ)」と言ったり、
長野県上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社が
「生島大神」と「足島大神」を祀っている、その「足(タル)」と関係があるのではないか
というのです。

また、「タル」は「タラシ」となり、「帯」と書くそうです。
この「足」や「帯」は、大昔の貴人の名前に使われることが多く、
八幡様の元になった御名が「大多羅志女(おおたらしめ)」といい、
この名は、国の神々に多いといいます。
そういえば、神託を伝えるシャーマンでもあった神功皇后が、
「おおたらしひめ」といい、「大帯比売」とも「大足姫」とも表記されていました。

この「タル」「タラシ」が、時代が下るとともに
「トラン」や「トウロ」につながったのではないかと、柳田國男はいうのですが、
素人の筆者にはわかりません。
ただ、「虎(とら)」という名前が、その「とらん」に由来し、
虎が石に化したという伝説の要因になったと考えると、
いろいろなことが符合してくるように思われます。

虎は、熊野系統の箱根権現につながる高麗権現の修験比丘尼という
福田晃さんの説も、なるほどと思われてきます。

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白土三平さんのマンガ「忍者武芸帳」で、主人公・影丸は、
殺されても殺されても、いつのまにかまた生き返っているという不死身の男でした。
というのは、“影丸”とは一族の名前であり、
ひとりが殺されても、また影武者のような別のひとりが“影丸”になるというのです。
同じ作者のマンガ「サスケ」でも、
“猿飛”というのは個人の名ではなく、術の名であり、
その術を継承する一族が“猿飛”と呼ばれているという設定でした。
だから、“猿飛”は、全国に何人もいるというわけです。

もしも「都藍」とか「とら」という名が、個人のものではなく、
ある行法に関連した巫女や比丘尼たちの名だとすると、
“虎”が全国に何人いてもおかしくないわけです。

山梨県南アルプス市の芦安安通には、
この地に虎御前が生まれ、没したという伝承があるそうです。
芦安芦倉の伊豆神社には、曽我十郎と虎を祀り、「虎女の鏡石」が伝わっていたのだとか。
伊豆神社は大正時代に倒壊したため、
現在、十郎と虎の木像は、近くの諏訪神社に移されているそうです。

滋賀県の虎御前山(虎姫山)には、
「曽我物語」の虎とは無関係の、虎御前(虎姫)がいます。
彼女はふもとの里の「世々聞(せせらぎ)長者」と結婚するのですが、
顔はへびで、体が人間という子を産んだため、嘆いて淵に身を投げた、
もしくは、へびとなって淵に沈んだといいます。
「さよ姫伝説」の要素と「虎御前」の名前が混ざり合っているような気もします。
これなども、「とら」と呼ばれた女性たちと関係がありそうです。

鹿児島県志布志市の大慈寺の境内には「虎が石」があり、
虎がここへ立ち寄った際に建立したと伝えられているそうです。
イボの治癒に効果があるのだとか。

虎の足跡は、九州にまで及んでいる。
兄弟の没後、虎が箱根で比丘尼となり、
その後、全国を旅して廻るのは、まったく不可能というわけではないのですが、
「とら」という女性たちが全国を巡っていたと考えると、
これらの数々の伝承も自然に思えてきます。

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先日、小林玲子さんの「十界図」の絵解き口演を拝見したとき、
郷土史家であるご主人の小林一郎さんともご一緒に、少しお話しすることが出来ました。
そのとき、ご夫妻が善光寺の近くにお住まいであることを思い出して、
虎御前のことを聞いてみると、虎御前石が近所にあるというのです。

それで帰って調べてみると、以前のブログに書かれていました。
「小林玲子の善光寺表参道日記」
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/962018.html
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/981004.html

小林一郎さんによると、「とら」や「とらん」と呼ばれ、
遊行していた女性宗教家が拠点としていたひとつが善光寺だそうで、
そのため、善光寺周辺や、各地の善光寺ゆかりの寺にも、虎の痕跡があるということです。
たとえば、長野県佐久市鳴瀬の時宗寺には、虎御前石、
長野県上水内郡飯綱町芋川の健翁寺には、虎御前の墓があるそうです(7)

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「曽我物語」が物語として成立する以前、
初期の語りは、口寄せによる「死霊語り」だったのではないかといいます。
「小栗判官」の場合もそうでしたが、
無念のまま命を落とした死者の魂の声を、口寄せ巫女が語る。
そうして声を聞いてあげることによって、祟りをなさぬよう、慰める。

現在でもときどき、成仏できない不幸な霊が祟ったために、眠れなくなったり、
体調を崩したりするという“霊障”が、テレビ番組で取り上げられたりしています。
霊能者という人に依頼して、除霊を行ったりする。
昔も、そういうことがあったのでしょう。
不幸な魂が「怨霊」となって、この世に災いをなすと考えた。
そこで「怨霊」が「御霊」と変わるように供養する。
いわゆる「御霊信仰」です。

曽我ブラザーズの弟・「五郎」のネーミングは、
「ごりょう(御霊)」からきたのではないかとする説もあります。
仇討ちを果たした後、20歳そこそこの若さで果てた十郎と五郎は、
悲劇の兄弟として、くりかえし語られたことでしょう。

口寄せ巫女であるイタコに男性の霊がとりつくと、男性言葉と男性の口調になります。
が、若干の不自然さは否めません。
やはり、女性の声で語られるのは、女性の霊である方がしっくり来て、
また、聞く者の心にも響きやすいと思われます。
そこで、兄弟の行動を見守り、兄弟と半ば生活をともにした愛人という存在が、
物語を語るにふさわしい女性としてクローズアップされることになります。

たとえば、こんな想像をしてみます。
霊がとりつくと、口寄せ巫女は、こう語り出したかもしれません。
「ううう……わらわは……、十郎祐成殿と、ひとつ蓮(はちす)の縁を誓い合うたものなり」
そして、
「そう、あの晩は今宵の雨と違(ちご)うて、降る雨は車軸のようであった……」
などと物語ったかもしれません。
つまり、一人称。

物語の骨格が定まってきてからも、一人称で語るスタイルがあったとみられ、
その語りに聴き入った人々は、
十郎の愛人と語り手の女性が同一人物であるように錯覚したと思われます。
物語を管理し、各地へ持ち運んだ語り手が、「とらん」と呼ばれていたとしたら、
十郎の愛人は「とらん」→「とら」ということになっていく。

当時、人が死ぬと、その霊は霊山へ向かうものと考えられていたといいます。
曽我兄弟の霊も、霊山である箱根に向かったと考えられた。
その箱根で「死霊語り」が行われたのではないかと福田晃さんはいうわけです(8)

柳田國男によれば、箱根その他の修験道場では、近代まで巫女は比丘尼であり、
山伏の妻であることも多かった(9)
比丘尼はもちろん仏教の宗教家ではありますが、
箱根の比丘尼は実質的には、歌舞を行ったり、口寄せを行う巫女であったというのです。

その箱根の修験比丘尼、そして箱根に深いつながりのある高麗の修験比丘尼によって、
「死霊語り」が行われ、物語がかもし出されていったのではないか。
というのが、福田晃さんの説です。

やがて物語が成り立って三人称で語られ、虎というキャラクターが定着した後も、
出家して兄弟の菩提を弔うために各地を歩いたという虎は、
各地を歩いて物語を語る巫女や比丘尼と重ね合わされ、
同一視されることがあったかもしれません。

そうして各地に種がまかれ、各地の「虎」伝説が育っていったものと思われます。

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では、「虎御前」は、まったくのフィクションだったのでしょうか?

基本的には史実とされる「吾妻鏡」で語られているように、
19歳で箱根で兄弟の供養をし、出家して、善光寺に参詣したという虎御前は、
語り手であった巫女や比丘尼の投影なのでしょうか?

もっとも、曽我兄弟の仇討ち事件が起こったとされるのが、1193年。
虎が出家したのも、同じ1193年とされます。
が、「吾妻鏡」が編纂された時期は、1290年から1304年のあいだとされ、
事実から記事となるまでに約100年以上のタイムラグがあったということになります。
100年のあいだに、「伝聞」が「伝説」となってもおかしくはありません。
その頃には、物語がある程度、拡散していたとも考えられます。

神奈川県大磯市周辺の伝承によれば、晩年の虎は、
虎が池弁財天のところに「法虎庵」という庵を結んで住んだ。
その法虎庵が、今の延台寺に移されたといわれます。

また一方、仮名本「曽我物語」で語られているように、庵を結んだのは「高麗寺の奥」。
それは高麗山の北のふもとにある高麗寺の末寺の荘厳寺近くであるともいわれます。
荘厳寺には、虎の持念仏であった地蔵が伝えられているそうです。

▼現在の荘厳寺
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荘厳寺は、虎が生まれたともいわれる山下長者の屋敷跡の近所で、
その近くに、晩年を過ごしたといわれる住居の跡があります。
(現在の住所は、平塚市山下。)
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これらの伝承や史跡も、
高麗寺の修験比丘尼で、「とらん」と呼ばれたうちの誰かの投影であると
言えなくもないかもしれません。

しかし、その後の虎を語っていたのは、こうした伝承ばかりではありませんでした。
曽我十郎とのあいだに子どもをもうけたという伝承もあったのです。
そして、福田晃さんが論及しているその伝承の場所は、
道祖神信仰や弁財天とのつながりを示唆するキーワードでもあるようなのでした。
そのキーワードとは……。

「宿河原」です。

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《引用・参考文献》
(1)根井浄・山本殖生編著「熊野比丘尼を絵解く」法蔵館
(2)阿部泰郎「女人禁制と推参」〜大隅和雄・西口順子編「シリーズ女性と仏教・4ー巫女と女神ー」平凡社・所収
(3)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(4)柳田國男「史料としての伝説」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収
(5)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(6)柳田國男「おとら狐の話」〜「柳田國男全集・6」ちくま文庫・所収
(7)小林一郎「熊野観心十界図の絵解き ー善光寺と熊野を結ぶものー」〜長野郷土史研究会「長野・第268号(2009年の6号)・所収
(8)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(9)柳田國男「『イタカ』及び『サンカ』」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収

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化粧坂から高麗山へ


柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉ずる人々が、「さよ」姫伝説と関連するのではないかと
いいました(1)
そして全国各地に伝わるそうした伝説の周辺に
「化粧坂(けわいざか・けしょうざか)」という地名が多いことを指摘しています。
祭祀をとり行い、歌舞を演じるときに女性が化粧をしたその印象が、
地名に残っているのではないかというのです。

大磯にも「化粧坂」があります。
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この写真は、「化粧坂」の交差点。
後ろには、高麗(こま)山と、それに連なる八俵山、二子山があり、
山へ登ろうとすると確かに坂になります。
が、現在、周辺には、特筆できるような坂は見当たりません。
当時の地形では坂があったのでしょうか?

「化粧坂」に限らず、坂は、「境(さかい)」の「さか」でもあるともいわれます。
坂や河原は、村や町の境界にあることが多く、それがシンボル化される。
もしかしたら、坂がなくても坂といわれたかもしれません。

「化粧坂」は、境界に位置することが多いと石井進さんはいいます(2)(3)
有名な鎌倉の「化粧坂」を中心に論じて、
はずれの境界であるがゆえに、そこが刑場となり、葬送の場となりやすい。
また、内と外が接する場所でもあるがゆえに、そこに交換が生まれ、商業が栄えやすい。
そして、遊女なども集まりやすいというわけです。

鎌倉の化粧坂の名前の起こりには、
平家の武将の首に化粧を施して首実検をしたといういかにも刑場らしい言い伝えと、
化粧をした遊女たちがたむろしていたからという言い伝えの両方があります。

仮名本「曽我物語」では、曽我ブラザーズの弟である五郎時致(ときむね)の恋人で、
後には出家する「化粧坂の遊君(女)」が登場します。
鎌倉の化粧坂の麓(ふもと)にあったという遊郭の女性でした。

そして一方、大磯の化粧坂にも遊郭があったといい、
ブラザーズの兄・十郎祐成の恋人である虎は、そこの遊女であったともいわれます。
彼女が朝な夕なにお化粧の水に使ったといわれるのが、この井戸。
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今でもこの井戸の水を使ってお化粧をすれば美人になれるかもしれませんが、
残念なことに埋められています。

ところで、この井戸を説明した立て札に、
このあたりは大磯の中心であったと思われると記されていました。
はて。
境界ではなかったのでしょうか?

江戸時代の東海道のようすを詳細に記録した「東海道分間延絵図(繪圖)」という
絵地図があります(4)
この絵図には、「傍示杭(ぼうじぐい)」という高さ3mほどの木の杭の位置も記されています。
「傍示杭」は、主に町の境界を示すための目印となっていたものです。

▼「東海道分間延絵図」のスケッチ
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この周辺を見てみると、画面の左側、
大磯宿の境界を示したと思われる「御料傍示杭」があります。
このスケッチでは省きましたが、見切れた左側にはいかにも宿場町らしく、
密集した家々がずらりと並んで描かれています。

そして画面の右側、
高麗寺町の境界を示したと思われる「寺領傍示杭」が、虚空蔵の隣りにあります。
下の写真は、国道1号線の横に今も残っている虚空蔵。
ここには下馬標というしるしも建っていて、
東海道を往来する大名行列は、ここで馬を降りて高麗権現を礼拝したそうです。
昔はここに「傍示杭」が立っていて、高麗寺の領地の境を示していたわけです。

(※絵図では、虚空蔵の見切れた右側にも、町らしい家々が描かれています。)
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この2つの「傍示杭」のはざまのほぼ中間地点に化粧坂があるのです。
つまり、大磯宿の境界と高麗寺町の境界との間、どちらにも属さない境界領域に
化粧坂があったと考えられます。

さらに「絵図」では、化粧坂と記された道のかたわら、
周りに家のない閑散とした場所にぽつりと、「非人小屋」が描かれています。
非人や遊女は、どこにも属さない、境界の住人でした。
江戸の頃には、ここは境界領域だったのでしょう。

では、大磯宿もなかった中世の頃はどうだったのでしょうか?
当時、遊女のいた遊郭は、身分的にも文化的にも格式の高いところで、
地方の豪族なども運営していたといいます。
このあたりに遊郭があったとすると、繁華街のように開けた場所だったかもしれません。
が、栄えた場所ではあったとしても、
町の中心ではなかったように筆者には思われます。

非人や遊女、そしておそらくは、柳田國男が言っていた、
道祖(さえ)の神を奉ずる人々も、この近くに出没したのではないでしょうか。
道祖神は、まさしく「境の神」でした。
境界にいて、外から来る悪霊や邪なものをさえぎることから、
「障(さえ)の神」とも、「塞(さい)の神」とも呼ばれます。
「塞」とは、外敵の侵入を防ぐとりでを意味する言葉です。
だから道祖神の石碑は、村や町の道の境に置かれることが多いのだといいます。

ここを訪ねたときも、道路脇に道祖神を見かけました。

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さてところで、折口信夫は、「曽我物語」は熊野系統の語りに関わりが深いと述べています。
関東においての熊野の中本山とされるのは、箱根と伊豆山。
中でも、箱根に深く関わっているといいます(5)(6)
確かに、弟の五郎は、子どもの頃に僧侶となるべく箱根で修行し、
幼名を箱王(筥王丸)ともいいました。
ワイルドで力持ちであり、それが自慢でもあった五郎の伝説が箱根に残されています。
また、兄弟の没後、虎は箱根で出家します。
兄弟の墓は、小田原の曽我にあったり、各地にあるのですが、箱根にもあります。

福田晃さんは、さらに進んで、
箱根権現とつながりのあった高麗(こま)権現の影響を指摘しています(7)
箱根権現と高麗権現を往来する修験者がいて、
そして巫女、または修験比丘尼がいたというのです。

化粧坂から歩いて4〜5分のところに高来(たかく)神社があります。
ここが昔は、高麗寺の一部でした。
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高麗寺は、朝鮮半島の高句麗から来日して帰化した高麗若光(こまのじゃっこう)に由来するとも
いわれています。
高麗山の南側のふもとから海岸にかけて、現在の唐が原を含む広い地域が
「もろこしが原」と呼ばれていたのも、帰化人が住んでいたからというそうです。

下の写真は、花水川にかかる花水橋からながめた高麗山。
安藤広重「東海道五十三次」の「平塚宿」に描かれた高麗山も、
こちらの方向から描かれたものでしょう。
おわんを伏せたような、まるっこい姿は、ゆったりと穏やかそうな山に見えます。
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▼安藤広重「東海道五十三次〜『平塚宿』」
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ところが、ふもとの高来神社の裏手から登ってみると、これがなかなかにハード。
男道と女道の2つのコースがあって、
女道から行くと、階段もしっかりと設営されていて勾配も比較的ゆるやかなのですが、
男道のコースは、足場も心もとなく、筆者はヒイヒイいってしまいました。
さすがに修験者が登り下りしたという山だけのことはあります。
写真は、頂上近くの石段です。
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とはいうものの、標高168mという、東京スカイツリーより低い山ではあり、
2〜30分ほどで頂上へ。

上宮があったとされる頂上には、今は小さな祠(ほこら)がひっそりとあるだけです。
明治のとき、廃仏毀釈の波にのみこまれ、
特に徳川幕府にゆかりのある権現を祀っているということで、壊されてしまったのです。

【補足】
……と、てっきり思っていたのですが、
コメントで、みちさんにご指摘をいただきました。
明治のときに、山のお堂や塔が壊されたことは事実のようですが、この上宮は残り、
昭和40年代頃まで保存されていたようですね。

現在に伝えられていないのは残念です。
祠の近くで、ヤマガラがしきりに鳴いていました。
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そして高麗寺は廃寺となり、その一部の「高麗(こま・こうらい)神社」が
山のふもとに「高来(たかく)神社」として残り、隣りの慶覚院とともに
いにしえの面影を今に伝えています。
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さて。
福田晃さんがその著書(7)で展開されているのが、
「虎は、箱根とつながる高麗の修験比丘尼だった」説です。

虎は、この今はなき高麗寺にいたかもしれないというのです。

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《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)石井進「石井進著作集・第9巻〜中世都市を語る」岩波書店
(3)石井進「石井進の世界・5〜中世のひろがり」山川出版社
(4)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(5)折口信夫「東北文学と民俗学との交渉」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社
(6)折口信夫「室町時代の文学」〜「折口信夫全集・第12巻」中央公論社
(7)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
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虎御前をめぐる女性たち──松浦佐用姫

さて、「曽我物語」のクライマックスとなる仇討ちの
“その前夜”ともいうべき場面です。

兄・十郎祐成は、虎を連れて、故郷である小田原の曽我の郷へと戻り、
短い間ですが、二人のときを過ごします。
そして別れの時がやってくる。
すでに死を覚悟している十郎ですから、
その別れは、もう生きては会えないことを意味していました。
人目を忍びながら二人馬を並べて、
山彦山(現・小田原市曽我山=不動山)の峠まで十郎が見送ります。

「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に、道もさやかに見え分(わか)ず、
かの松浦佐用姫が領布(ひれ)振る姿は石になる、それは昔の事ぞかし。
今の別れの悲しさに、駒(こま)近々とうち寄せ、
手に手を取り組み、涙に咽(むせ)ぶばかりなり。」
(1)

というところです。
この場面、「遠近の…」の箇所は、「古今和歌集」(巻第一・春哥上)の

「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも喚子鳥(よぶこどり)かな」(2)

をふまえています。
遠くと近くの見当さえつかない山の中で、心細そうに鳴く喚子鳥よ、といった意味でしょう。

喚(呼)子鳥(よぶこどり)は、山彦を返す鳥であるという伝承もあります。
「山彦山」というこの山の名にひっかけてもいるでしょうか。
実際には、何の鳥なのか、はっきりとはしないものの、
カッコウやヒヨドリではないかともいわれます。

「子を呼ぶ鳥」といって思い出されるのは、カッコウを題材とする昔話。
父親が、死んだ子どもを「かっちょかっちょ」と言って探すうちに鳥になった、
などの話があります。
また、「子が親を呼ぶ」話もあって、
母親を亡くした子どもが、鳥になって「かこう」と鳴いている、
という話もあります(3)

カッコウは唐突に威勢よく鳴く鳥ですが、しずかな山の奥で聞くと、
そんな親子の物語も想像できるような寂寥感があるのでしょう。
なるほど、閑古鳥ともいわれるわけです。

そうした悲話のニュアンスさえ感じられるような、呼子鳥の哀切な鳴き声が、
あるいはこの場面のBGMとなっていたかもしれません。

遠くと近くの見当さえつかない、道さえはっきりとわからない山の中、
(これからどうなるか、明日の道をも知れぬという意味合いもあるでしょうか)
別れのときにあの松浦佐用姫は、領布(ひれ)を振って石になった、それは昔のこと。
今は、馬を近づけて手を取り合い、泣きむせぶばかり。
──というような意味かと思います。

近くには、芭蕉が句を詠んだという六本松の跡があり、
西から鎌倉へ向かう旅人がここを通ったという鎌倉街道の峠です。
人目を忍んだ二人は街道を避けて、
はっきりと道とはわからない道を行ったのかもしれません。

このくだりの佐用姫のイメージからでしょうか、
おそらく十郎と虎が別れたとされる峠の地点に、現在、
「忍(しのぶ)石」といわれる石があります。
後代になって、二人をしのんだ里人が設置したと考えられるそうで、
この石に二人が腰掛けて別れを惜しんだと伝えられています。
現在は、食用のための梅林が近くにあり、農道が走るそのかたわら。
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撮影したときには、呼子鳥のカッコウは鳴いていませんでした。
カラスの声とヒヨドリの声が聞こえましたが、なかなかにぎやかで、
淋しい「おぼつかない」感じではありませんでした。

この忍石は、十郎が力試しの力石として持ち上げたそうで、
その手形(のようなくぼみ)の跡があるとのこと。
よく見ると、確かについているような気がします。
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また、この石は縁結びのご利益があり、意中の人をこよりに書いて結んでおくと
願いがかなう。
──という言い伝えもあるそうなのですが、こよりをどこへ結べばいいのでしょう?
こよりは、石の周りにも見当たりませんでした。
今は、恋心をこよりに託す純情は流行らないのかもしれませんね。
ただ、お賽銭が置かれていたのには、やはり何かしら効験あらたかなのでしょうか。
かわいらしい花も供えられていました。

この「忍石」は、曽我にいた十郎が大磯の虎のもとへ通うことが出来ない夜、
ひとり来て、ここから見渡せる海の漁り火を見ながら、虎を「しのんだ」ともいうそうです。
たしかに、このあたりからは相模湾が遠く望めます。
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あるいは一説には、仇討ちをとげて十郎が死んだ後、
虎と、十郎の母である満江御前がここに腰掛けて、亡き十郎を「しのんだ」ともいいます。
それで、「しのぶ石」というのだと(4)

実は、この「忍石」、もともとは「姥石」と「姫石」の二対あったのだそうで、
それを考えると、後者の説に軍配をあげたくなります。
今この峠にあるのは、大きな姥石の方です。
現在、ふもとの方の城前寺に移されている、小さな方の姫石がこちら。
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お寺には保育園があって、子どもたちが遊んでいたずらしたりするので、
現在は立て札などは立てていないということでした。
立て札がないと、ふつうの石と見分けがつきませんね(笑)。

こちらもやはり「忍石」という名前なのですが、
こちらの方は、十郎と虎が笛を吹いて腰掛けた石だと伝えられています。
ただ、2人が腰掛けるには、少々、サイズが小さめな気がします。

さまざまな言い伝えが付随しているわけですが、
力石、また、峠にあって結びの神でもあるという道祖神的な要素など、
虎御石の伝説と似ているところもあります。
あるいは、伝説化していく過程に、共通するものが反映しているということでしょうか。

そしてここで注目されるのが、松浦佐用姫です。
この場面で、別離に涙する虎は、
別離の悲しみのために石と化する佐用姫と重ねられているのです。

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彼女の伝説をたどると、文字としては「肥前風土記」までさかのぼれるそうです(5)
「肥前風土記」での名前は、「佐用姫」ではなく、「弟日姫子(おとひめこ)」。

時代が「古墳時代」からやがて「飛鳥時代」へ移り変わろうとする537年、
朝廷の命を受けて、大伴磐(いわ)、大伴狭手彦(さでひこ)らが朝鮮半島へ出兵します。
いわば青年将校である狭手彦は、軍を率いて朝鮮へと渡ろうと、
現在の佐賀県唐津市の篠原の村に駐留します。
そこで狭手彦は、弟日姫子と出会い、結ばれる。

※弟日姫子(=松浦佐用姫)は、篠原長者(または笹原長者)の娘で、
内陸の山間部にある現・厳木(きゅうらぎ)町の長者原(ちょうじゃばる)の館で
生まれたという伝承も伝わっています。

狭手彦は、当時は銅でできた鏡をプレゼントします。
が、いよいよ軍が出発する日がきて、別れの時が訪れる。
別れねばならないと頭でわかっていても、後を追おうとしたのでしょうか、
弟日姫子は泣きながら川を渡る。
そのとき、鏡の緒が切れて川に落としてしまいます。

やがてすでに港を離れた船を、せめて見送ろうと小高い山を駆け上り、
船の上の彼に向かって褶(ひれ)を振ります。
そうして遠くなる船の姿が水平線の彼方に消えるまで、
いつまでも、いつまでも、振り続けたということです。
それゆえ、この山は「褶振りの峯」と名付けられたのだと「肥前風土記」は記しています。
現在の鏡山です。

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この褶(ひれ=「領巾」「巾」とも書きます)というのは、
薄い布を使った細長い肩掛け──いわば「ロング・スカーフ」。
一般に女性がまとっていたそうですが、
特に「釆女(うねめ)」と呼ばれる女性たちには欠かせぬもので、
釆女の代名詞のようなアイテムだったそうです(6)
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釆女は、皇族に仕え、食事や雑事の世話をする
メイドさん的な仕事をする官職です。
が、実は、巫女的な職種であったといいます。
彼女たちがふだんから褶(領巾)を身につけて離さなかったのは呪術のためで、
神に供物を捧げたり、皇族に食事を供する上で障りとなるものを予測し、
除去するためだったといいます。
褶(領巾)は、呪術的なパワーをもつアイテムでもあったのです。

「古事記」で、オオクニヌシがピンチに陥ったとき、スセリ姫(須勢理毘売)が助けて手渡したのが、
この褶(ひれ)でした。
褶を3回振ると、獰猛なヘビも、ムカデも、ハチも、みんなおとなしくなる。
折口信夫によれば、褶(領巾)は、霊を呼び迎えるとともに、
邪悪な霊を追いはらうものでした(6)

やがて、一般の成人女性も身につけるようになり、それが盛装となり、
ファッション化していきます。
が、弟日姫子(松浦佐用姫)が褶(領巾)を身につけていたのは、
狭手彦が朝廷の使いであり、彼に仕える釆女の役割を彼女が果たしていたからだと
折口信夫はいいます。

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一途にひたすらに領巾(褶:ひれ)を振り続けた少女のイメージは、
名前を松浦佐用姫と変え、万葉集にも詠まれるようになります。
そして時代が移り変わるにつれて、伝説に次々と尾ヒレがついていくのです。

室町時代になると、佐用姫は、悲しみのあまり石に化すことになります。
連歌の本の「梵灯庵袖下集」に、「船かくれて後やがて石となりぬ」と書かれる。
もともと中国に、夫を慕うあまりに石となった「望夫石」伝説があり、
その影響による発想ではないかといわれます。

それが伝承になると、こうなります。

◎佐用姫は、領巾(ひれ)を振り続けた後、
なおも船を追いかけて、領巾振り山(現・鏡山)からドスンと飛び降りる。
(その飛び降りた足跡のついた岩が、「佐用姫岩」として今も唐津市和多田に残っています。)

◎川をジャブジャブ渡ったので、途中で濡れた衣を乾かす。
(その干した山が、今の衣干山(唐津市西唐津)です。)

◎なおも追いかけ、海岸へと出て、狭手彦の名前を呼び続ける。
(名前を呼び続けたので、この場所が「呼子」という地名になったといわれます。
そこが、現在の唐津市呼子町です。)

◎そうして玄界灘に浮かぶ加部島へと渡り、
そこで7日間泣き続け、石になってしまうことになります。
その石は「望夫石」として、現在も加部島の田島神社に置かれています。


もしも流布本「曽我物語」の作者が当時、こうした伝承を知っていたとしたら、上述の
「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に」
の箇所は、「呼子鳥」につなげて「呼子」という場所を想起させるための
一種の枕詞(まくらことば)のような意味合いになってくるかもしれませんね。

そして様々に尾ヒレのついた伝説に影響を与えているのが、あの領巾(ひれ)です。
領巾という呪術的なアイテムをかざして振る
「釆女」という、ほとんど「巫女」のキャラクターとしての佐用姫です。

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「肥前風土記」では、弟日姫子が狭手彦を見送ったその後、「蛇婿入り」話となります。
弟日姫子は、狭手彦に化けたへびに魅入られ、沼に引きずり込まれて命を落とすのです。

これは、「古事記」の三輪山神話で、へび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
イクタマヨリ姫(活玉依毘売)の話に似ています。
が、彼女は、そうして神の子を生むことで、
神職を奉ずる氏族の祖先になるというハッピーエンドになります。
しかし「日本書紀」の三輪山神話では、やはりへび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
ヤマトトトビモモソ姫(倭迹迹日百襲毘売)は箸に貫かれて死んでしまう悲劇となります。

昔話では、「蛇婿入り・苧環(おだまき)型」に分類されていて
さまざまなヴァリエーションがあるのですが(7)
この「肥前風土記」や記紀の伝説では、
ひとつには、“神の花嫁”である巫女の運命が語られているように思われます。
“神の花嫁”になることは、名誉なこと。
ですが、神が荒ぶるときには、その身を捧げても鎮めなければなりません。
身を犠牲にすることが、巫女の役割のようにもなっていく。

中世になると、「松浦佐用姫」という個人を離れて、
ある意味、ブランド化した「さよ姫」という名前の女性たちの伝説が各地で生まれます。
柳田國男が列挙しているのですが(8)
たとえば、現在は福島県郡山市日和田町にある蛇骨地蔵堂に伝わる話。

今は水田となってもうありませんが、かつて安積(浅香)沼という沼があり、
そこに大蛇がすんでいました。
この大蛇、実はもともと領主の娘のお姫さま。
家臣の邪しまな横恋慕によって一家を殺されるという目に合い、恨んで大蛇となり、
天変地異をひきおこす。
鎮めるために村人たちは、毎年、人身御供を捧げなければなりませんでした。
そうして32人の娘が犠牲となり、33人目は長者の娘の番となる。
そこで長者は、松浦長者の娘で今は没落した佐用姫を金で買って身代わりにたてます。
人身御供の祭壇へと捧げられた佐用姫が一心に経を唱えていると、
近づいてきた大蛇は、その功徳をもって成仏することになります。

ストーリーとしては、説経節の「まつら長者」とよく似ています。
(説経の方では、龍(大蛇)は、人柱にされた女性が恨みをもったもので、
これまで999人の人身御供の娘を取ったことになったりしています。)

こちらの話では、大蛇(領主の姫)は蛇骨を残して成仏し、
その蛇骨で、32人の犠牲者と大蛇のために33体の観音像を彫る。
それが今も蛇骨地蔵堂に伝わる三十三観音像だと伝えられています。


たとえばまた、現在の福岡県三井郡大刀洗(たちあらい)町の床島堰に伝わる話。

水不足に苦しんだ村人たちは、筑後川に堰を築き、用水路を引く工事に取り組みます。
ところが、工事は困難をきわめ、そこで人柱を立てることになります。
その人柱となって俵につめられ水底に沈められたのが、
9歳の女の子である「おさよ」でした。
沈められたおさよはその後、現われた白髪の老人の手によって生き返ることになります。

「佐用姫」「佐世」「小夜」「さよ」など、表記も呼び方もいろいろですが、
「さよ」という女性が人身御供や人柱になって水に沈むという、伝説のヴァリエーションが
九州から東北まで各地に伝わっているというわけです。

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「さよ」は、高貴な出であったり、長者の娘ともいわれ、
また、遊女であるともいわれます。

世阿弥作の謡曲「松浦」では、名を「小夜姫」という遊女であり、
狭手彦からもらった鏡を抱いて海へ入水自殺をすることになっています。
その小夜姫の幽霊が、諸国行脚の僧に物語を語り伝えるという筋立て。

そもそも朝廷から来た狭手彦の接待をするという“釆女”的な立場は遊女に近く、
また、折口信夫にいわせると、巫女と遊女とは、
それほど遠い関係というわけではなかったようです(9)

巫女は口寄せをして、神語りをするわけですが、その語りから、
物語が生まれ、歌が生まれ、舞が生まれたとする説があります。
歌舞を奉じる巫女が、民間へ下ると、歌舞の芸を売る遊女ともなります。
そして時代とともに、巫女のように口寄せをしたり、神事を行ったり、
遊女のように歌舞を行ったり、物語を語る女性たちが、
各地を歩き、遊行するようになります。

彼女たちは、たとえば水害に苦しむ地域では、水難除けを祈念したり、
橋や灌漑の工事をしている地域では、その安全と成功を祈念して、
神事をとり行ったり、歌舞を奉じて、演じたりもしたことでしょう。
時には、謡曲や説経や伝承に伝えられているような人身御供の物語を演じたかもしれません。
その演じた女性の印象が、各地の「さよ」姫伝説につながったのではないか、
というのが、柳田國男の論です。
彼らは、道祖(さえ)の神を奉る人々でした(8)

高貴の生まれとも、長者の娘とも、遊女ともいわれ、その実、正体は定かでなく、
道祖(さえ)の神信仰ともどこかしら脈略がありそうで、
松浦佐用姫が石になったごとく、自身も石になったといわれる虎御前。

何か、匂いそうな気がしてきます。

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《引用・参考文献》
(1)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(2)佐伯梅友校注「古今和歌集」〜「日本古典文学大系8」岩波書店
(3)関敬吾「日本昔話集成・第一部動物昔話」角川書店
(4)立木望隆「城前寺本 曽我兄弟物語」曽我兄弟遺跡保存会
(4)近藤直也「松浦さよ姫伝説の基礎的研究 古代・中世・近世編」岩田書院
(5)佐伯順子「遊女の文化史」中央公論社
(6)折口信夫「宮廷儀礼の民俗学的考察ー釆女を中心としてー」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社・所収
(7)関敬吾「日本昔話集成 第二部本格昔話」角川書店
(8)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集11」ちくま文庫・所収
(9)折口信夫「巫女と遊女と」〜「折口信夫全集・第17巻」中央公論社・所収

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