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摩耶夫人、降臨


沙羅双樹の樹上、空にたなびく雲に乗り、
天女に付き添われて降りて来るのが、
ブッダの生母のマーヤー(摩耶)です。
一般に、摩耶(まや)夫人(ぶにん、ふじん)と呼ばれるようです。

彼女はブッダを生んだ後、7日後に亡くなりました。
その後、忉利天(とうりてん=または、三十三天)という、
神々が住む天上の世界に生まれ変わったといいます。

そこへ、ブッダの弟子であるアヌルッダ(阿那律)がブッダの入滅を知らせにきたので、
彼の案内で、ここクシナガラへ降りてきたのでした。
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マーヤーの死後、ブッダは、
マーヤーの妹であるマハー・プラジャーパティー(摩訶波闍波提:まかはじゃはだい)に
養われて育ちます。

この養母であり、義母であるマハー・プラジャバティーは、後年、
ブッダの妻であるヤソーダラー(耶輸陀羅)らとともに出家します。
比丘尼となった彼女は、ブッダ入滅のときには、かなりな高齢。
一説には彼女は、ブッダの命脈のそう長くないことを知り、
その終焉に立ち会う悲しみを避けて、
ブッダが入滅する3ヶ月前に入寂したと伝えられています。
その説にしたがえば、すでに死去していて「涅槃図」には描かれていないことになります。

ちなみに、同じく比丘尼となっていたヤソーダラーはどうしていたのでしょうか。
夫が死の床にあり息子のラーフラがその枕元にいたとき、
彼女はどんな状況にいたのか気になったのですが、筆者の調べたかぎりではわかりませんでした。

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ところで、マーヤーに危篤を知らせ、案内しているのはアヌルッダ(阿那律尊者)です。
また、前回触れましたが、アーナンダ(阿難尊者)を介抱し、励ましているのも
アヌルッダ(阿那律尊者)です。
つまり、1人の人物が、同じ絵の中で、複数描かれているわけです。
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これは、絵巻などでよく使われる「異時同図法」というやつですね。

時間が異なる場面は、
絵本や紙芝居であれば、複数のページや場面に割りふって描きます。
マンガであれば、複数のコマに分割して描きます。
絵巻でも、基本的には複数の場面に分割して描きますが、
同じ場面の絵の中に描きこむことがある。
だから同じ人物が、「分身の術」のように絵の中に複数描かれることになります。

掛け軸絵のように1枚の絵の中でこれを使うと、
不自然に感じられることがあるかもしれません。
しかし、「絵解き」として語る場合には、
「異時同図法」を多用しても、まったく違和感がありません。

おはねざしでその場面の部分の絵を指し示して注目を促すと、
それが、いわばズームアップのはたらきをします。
そうして物語の展開や時間の推移を語りながら、
次々に場面を指していくことで、コマ割りと同じような表現になるんですね。

もっとも、この「大涅槃図」では、2人の服装も顔つきも異なっているようなので、
絵の作者は、マーヤーを案内した人物とアーナンダを励ました人物を
別人として描いているかもしれません。
マーヤーを案内したのはアヌルッダ(阿那律尊者)ではなく、
やはり弟子のひとりのウパーリ(優婆離)であるという話も、中国・敦煌の写本などにあるそうで、
そうした伝承の違いがあるものと思われます。

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さて、そして摩耶夫人(マーヤー)の物語が語られます。
先にも触れた薬を入れた包み袋の話です。

忉利天で暮らしていた摩耶夫人のもとに、ブッダ入滅が知らされ、
何とかして救おうと、霊薬の入った錦の薬袋をもって駆けつけたものの、
鳥たちがじゃまをして、地上へ降り立つことができない。

そこで「エイッ」とばかりに投げ下ろしましたが、
それが運命だったのか、薬袋は沙羅双樹の枝に引っかかってしまい、
ブッダはついにその薬を口にすることがかなわなかったということです。
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この袋包みには、もうひとつの説があるそうです。

死を悟ったブッダは、最後にアーナンダ(阿難尊者)に教えを説き、
自分の唯一の持ち物である錫杖(杖)と、托鉢のための鉢を包んだ袋を
アーナンダに託します。
それが、サーラの樹の枝に引っ掛けられているというのです。

手の届かないような高さに掛けられていることを考えれば、
この絵では、前者の説で描かれているといえます。
しかし、袋包みと錫杖がセットになっていることを考えれば、
後者の説で描かれているといえます。
これは、どちらでも解釈できるように描かれているのではないでしょうか。

ひとつの絵から、いろいろな解釈や物語を紡ぎ出し、
いろいろな想像を誘ってくれるのも、「絵解き」の魅力のひとつだと思います。

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そうしてまた、摩耶夫人のもうひとつの物語が語られました。

忉利天で、なぜか悪夢を見続けていた摩耶夫人。
ブッダの入滅を予感します。
そうして、はたしてアヌルッダ(阿那律)が迎えにくる。
いったんは気絶したものの、気をとり直し、
「生まれて7日であちらの世を去り、
この手で抱きしめてあげられなかったことが心残り、
わが息子を抱きしめてあげたい」
と、クシナガラへ向かうのでした。
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かつて、ブッダが、生きとし生けるものすべてに対して慈悲心を持ちなさいと法を説いたとき、
そのたとえとして述べられていたのは、
「母が己(おの)が独り子(ひとりご)を命を賭けて護るように」
という言葉でした(1)
母親が命を賭けて子どもを護るように、他の人や生きものを慈しみなさいというのです。

まさしく、この場面で語られているのは、
母親が子どもを命を賭けて護ろうとする、美しく感動的な姿です。

しかしながら、ここでもまた、わたしたちの耳には、再び、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような日本人的な仏教解釈があるのではないか、
という池上洵一さんの言葉が聞こえてくるように思います(2)

父性的な論理よりも母性的な情緒を好む傾向が、わたしたち日本人にはあって、
それが、摩耶夫人の物語をいくつも語り伝えているのかもしれません。
それは美しいものですが、そこには危うさをはらんでいるとも言えます。

慈悲の愛は尊いものです。
が、しかし執着に過ぎれば、盲目となる。
「子への思いに迷う」こととなる。
愛するものを失った時には執着から離れられず、
時には憎しみとなったり、絶望となったりもする。

駆けつけた摩耶夫人。
が、その時すでにブッダは事切れたあとで、棺の中でした。
その安置された金の棺にすがって、夫人が泣き崩れたときのようすが、
「摩訶摩耶経」という経典に書かれていて、
それが「今昔物語」にも綴られています(3)

それによれば、摩耶夫人の悲しみようは激しく、
遺品の衣と錫杖を右手に持って地面に投げたので、
ガッシャーンとでも響いたのでしょうか、大きな山が崩れるような音がしたといいます。
半狂乱と言ってもいいと思います。

すると、突如、すでに入滅したはずのブッダがその神通力をもって、
棺のふたを開け、身を起こして立ち上がる。
そうして、千の光を放ちながら合掌して夫人に向かい、
嘆き悲しみたまうことなかれ、すべてのことは無常なのだからと
真理を説いたというのです。

生まれたものは必ず滅ぶもの。もろもろのすべては無常である。
それを覆すことはできないものなのだ。
それはこの「涅槃図」の物語の中でブッダがくりかえし語っていたことであり、
入滅の際に弟子たちへ語った最後の言葉でもあります。
その師の言葉をもってアヌルッダは、アーナンダや他の弟子たちを励ましていました。

すると、その言葉を聞いた摩耶夫人の顔が、蓮の花のように和らいでいく。
それを確かめて安心したのか、
ブッダは、再び棺の中に身を隠し、棺のふたは元のようにしまったということです。
この場面は、「釈迦金棺出現図」という絵のモチーフとなっているのだそうです。

愛情と、愛著(執着する愛情)の違いは何なのか、その境がどこにあるのか、
筆者にはなかなかわかりません。
しかし、おそらく摩耶夫人の愛情が、愛著へと変わろうとしていた。
「子への思い」が、「子を思うがゆえの迷い」に陥ろうとしていたのでしょう。
そのとき、ブッダが涅槃の中から出現する。

そうして彼が母親にかけたのは、慰めの言葉ではありませんでした。
ではなく、理を説くことによって、夫人の迷いが消えていく。
救われることになる。

ここには、救済を得ようとする情緒的な母性と、
真理を求めようとする論理的な父性とが結合したかたちがあります。
そしてここにおいて、物語が完結を迎えるように、筆者には思われます。

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もしも人の死にざまが、その人の生きざまを写すとするならば、
ブッダの「涅槃」を描いたこの絵と物語は、
ブッダの生きた様(さま)を語っているのでしょう。
そしてそれを語る「絵解き」もまた。

「涅槃(ニルヴァーナ)」とは、
もともとは「火を吹き消す」という意味だそうですね。
そこから、煩悩を吹き消して、安らぎを得る悟りの意味となる。
そこから、命の火を吹き消す意味にもなった。

かくてブッダの命の火は吹き消され、
物語を語り継ぐための燭台の火も吹き消されることとなります。
が、「絵解き」を体験した筆者の胸には、
ほっこり、小さな火が灯っているようなのでした。








f0223055_9301752.gifただ単に「涅槃図」の絵をながめたときには、何が描かれているかもわからず、
大きいなあとか、ゴチャゴチャ描き込んであるなあとしか、正直、思いませんでした。
しかし、「絵解き」を体験した後で、改めて「涅槃図」の絵をながめたとき、
感じ方も、おもしろさも、印象が180°変わりました。
構成にしろ筆致にしろ、実によく描かれているものだという感動になりました。

また、ブッダという人への興味も変わってきたようです。
昔は、こうした「絵解き」を楽しみながら、仏教に親しんだんでしょうね。

いやあー、おそるべし、絵解き。

こちら常保寺の「大涅槃図」は、2月15日まで公開しているそうです。
常保寺のHPは、こちら

小林玲子さんは、この2月、長野や富山での口演を予定されているようです。
くわしくは、こちらのブログへ。

また、関東近辺では、2月15日(13時30分より)、
東京・西多摩郡瑞穂町の圓福寺で口演されるそうです。
圓福寺のHPは、こちら



《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(3)「今昔物語集」巻三第33話「仏入涅槃給後、摩耶夫人下給語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店



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そのとき、ブッダの弟子たちは


さて、ブッダの弟子たちの物語が語られます。

ブッダの床のすぐ近く、画面の中央あたりに倒れているのが、
弟子のアーナンダ(阿難:あなん)です。
師を喪うという悲しみの衝撃に直面し、気を失っています。
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何とか意識を取り戻させようと、水をふりかけているのが、
同じ弟子のアヌルッダ(阿那律:あなりつ)です。

やっと目を覚ましたアーナンダに、アヌルッダは言ったそうです。

「アーナンダよ。悲しんではいけない。嘆いてはいけない。
尊師はあらかじめ、おっしゃっていたではないか。
すべてのことは無常であり、愛する人とも別れなければならないときがくると。
おまえには、今、しなければならないことがあるのではないか?」

それを聞いたアーナンダは、はっとします。

アーナンダは、ブッダの近くにつかえて、その言葉を誰よりも聞いた人でした。
そのため、弟子の中では、
いちばん多く聞いた──「多聞(たもん)第一」といわれています。
これからブッダ亡き後、教えを守り、人々に伝え、後世に伝えるためには、
ブッダの言葉を文字に書きとめることが必要です。
その仕事のいちばんの適任者は、「多聞第一」のアーナンダをおいて他にはいないのです。

そこでアーナンダは心を落ち着け、横たわったブッダにたずねます。
「これから、尊師のお言葉を書き残そうと思うのですが、
最初の書き出しは、どう書いたらよいでしょう?」
すると、ブッダは答えたそうです。

「アーナンダよ。まず『如是我聞(にょぜがもん)』と書きなさい」

「如是我聞」──「わたしは、このように聞いた」という意味です。
「わたし」とは、アーナンダのこと。
アーナンダが、「わたしは、お釈迦さまの言葉をこのように聞きましたよ」といって
書きとめたものが、後世の今に残るお経なんですね。
そうして、一般に、お経の最初は「如是我聞」で始まるのだということです。


その後、アーナンダは、ラージャガハの郊外で、
「結集(けつじゅう)」という会議を開き、
他の弟子たちと記憶を確かめ合いながら、相談をし合いながら、お経を編纂したそうです。

そのお経を求めて、中国の玄奘(三蔵法師)たちが、過酷な砂漠やヒマラヤ山脈を越えて
はるばるインド(天竺)を訪ねたり(「西遊記」)、
日本では、空海(弘法大師)たちが海を越えて中国に渡ったりしたんですね。

もっとも、アーナンダの没後に書かれたお経も、
「如是我聞」で始まるという形式を踏襲したりしているそうです。

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さて、絵の中、ブッダを前にして膝に顔を伏し、
体をふるわせているように見えるのは、ラーフラ(羅睺羅:らごら)です。
彼は、ブッダの長男。
たった一人の子どもです。
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その出生については、いろいろな説があるのですが、
一説には、ラーフラが生まれたその夜、
または、生まれてから7日後、ブッダは出家したといわれています。

幼い子と、母親ヤソーダラー(耶輪陀羅:やしゅだら)を残して出て行った
ブッダの心境はいかばかりだったか。
また、成長して後、自分の父親がブッダであると知った
ラーフラの心境はいかばかりだったか。

──わたしたちにはわかりません。

ただ、少年だったラーフラが、母親(一説には周囲の者たち)に促され、
ブッダに財産の相続を認めてくれるよう、頼みにいったところ、
ブッダはその場では何も答えなかった、と伝えられています。

物質的な財産ではなく、
法の真理こそがわが子に残してあげられるものと考えたブッダは、
弟子のサーリプッタ(舎利弗:しゃりほつ)に託して、
ラーフラを出家に導きます。

そうしてブッダの弟子となったラーフラは、
年若い頃には慢心があって、サーリプッタらの兄弟子を軽んじ、
ブッダに叱られたこともあったようです(1)
が、改心して後には尊敬の念を忘れることなく、また精進して、後世に
「密行第一(細かいことも違わず、綿密な修行にかけてはいちばんである)」
あるいは
「学習第一(よく学ぶことにかけてはいちばんである)」
と謳われるようになりました。

そのラーフラが今、師であり、父であるブッダの死を目の前にしているのです。
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「平安時代に書かれた『今昔物語』には、こんな話があるそうです……。」
と言いおいて、「絵解き」では、「今昔物語」に取り上げられている物語が語られました。

ブッダ入滅の悲しみに耐えきれず、ラーフラはその場を離れ、
神通力で別の世界へ飛び去ります。
が、その世界の仏にさとされて、元の世界へ戻ってくる。
すると、待っていたブッダは、その手を握りしめて、言ったそうです。
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「ラーフラよ。おまえは、わたしの子だ。
十方の仏たちよ。
ラーフラを護りたまえ」
(※「今昔物語」の原文では「哀愍(あいみん)したまえ」と言っています。
「哀愍」とは、悲しみ、あわれむことだそうです。)

「今昔物語」では、この言葉が、ブッダの最後の言葉とされています。

小林玲子さんは、

「このようなお話は、実はお経にはありません。
わたしたち日本人の先祖は、
お釈迦さまも羅睺羅尊者(ラーフラ)も、われわれと同じような
親子の情を持っていたに違いないと思ったのでしょう。」


と、このエピソードをしめくくります。

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「今昔物語」のこの物語のもともとの出典は経典ですが、
経典から派生した説話に拠るところが多く、経典とは違うところがあるようです。
では、もともとの経典の話はどんなものだったのか。

ブッダ入滅のとき、ラーフラ(羅睺羅)は、その場から離れます。
沙羅双樹の林を出て東北に向かい、涙にむせびますが、思い直して帰ってくる。
また別の話では、別世界に行ってそこの仏にさとされ、
さらに上方の別世界に逃げてそこの仏にさとされて帰ってきます。

ここまではだいたい同じなのですが、経典では、
戻ってきたラーフラに「嘆くことはない」と言って、ブッダが語ります。

「おまえは父に対してなすべきことをなし、
わたしもおまえに対してなすべきことをなした。
わたしとおまえはいっしょに、一切(すべて)の人々のために勤めた。
わたしは他の人の父親とはならないし、
おまえも他の人の子ではない。
わたしたちは悩ませ合うこともなく、争うこともない。
すべてのことは無常であり、
そこからただ解き逃れること(解脱)を求めなさい」

というようなことを説いたそうです(2)

つまり、父としての役目、子としての役目を果たして、
父ひとり子ひとりのきずなは変わらないとしても、
師と弟子であり、同じ道を求め行く修行者の立場は変わらないということだと思います。

それに対して「今昔物語」では、「絵解き」に語られていたようなドラマ。
描かれているのは、修行者(修行完成者)としてのブッダではなく、
子を想うひとりの親としての、いかにも人間的な姿です。

「今昔物語」の編者はこの話の終わりに、
仏であっても、父子(おやこ)の関係となれば、ふつうの師弟の関係とは違ってくる、
ましてや世の衆生は、子への思いに迷うものだ、と付け加えています(3)


「子への思いに迷う」──それは、仏教の修行においては否定されることでした。
「スッタニパータ」にはこうあります。

「子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。
筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀(サイ)の角のようにただ独り歩め。」
(1)

この箇所だけを引用すると誤解を招くかもしれませんが、
ブッダは子や妻への愛情を否定しているのではなく、
執着することを避けよと言っているのだと思います。

そう考えると、ブッダが経典でラーフラに語った言葉は、また違って響いてきます。
父親として子として相手を認めつつも、
しかし、余計な枝をからませて、まつわりつかせてはいけない、
まつわりついてもいけない。
わたしが死んでからも、
筍のように、犀の角のように、まっすぐに歩めよと促しているように聞こえます。

それが正しい道なのでしょう。

しかしながら、親子のしがらみにからみつかれて、しがらみに流されて、
子への思いに迷い、情に迷ってもしかたがないじゃないか。
人間だもの。
と、「今昔物語」の編者は、入滅というクライマックスの場面に、
経典にはないこうした説話をわざわざ持ち出してきたんですね。

そこには、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような
日本人的な仏教の理解のし方があるのではないかと、
池上洵一さんが述べられています(4)

確かに、小林玲子さんの切々とした語りを聞いていた筆者は、
思わずこの場面でウルッとしそうになりました。

幼い日に父親に捨てられたラーフラは、父親を恨まなかったのでしょうか。
父親と日々を過ごすことになっても、
おそらく肉親としての親しい言葉はかけてもらわなかったのではないか。
晩年でこそ、ブッダの子である自分を「幸運なラーフラ」と呼んでいますが(5)
嫉妬ややっかみや、世間の風当たりもあったでしょう、
偉大なブッダの子であるがゆえの重圧もあったでしょう。
それが最後の最後に、宗教者としては非難されることも甘んじて、
父親としての情を吐露してくれたのです。

ラーフラにとって、これはうれしかったに違いありません。
筆者は、何だか救われた気になったのでした。

まあ、こんなふうに情緒的に単純に考えてしまった筆者も、
端っこのはしくれながら、日本人なのだということなのかもしれませんね。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(3)「今昔物語集」巻三第30話「仏入涅槃給時、遇羅睺羅語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店
(4)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(5)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラーガーター〜」岩波文庫
   山折哲雄「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書
   石井公成「仏教史のなかの今昔物語集」〜小峯和明編「今昔物語集を読む」吉川弘文館・所収
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ネコだって描いてほしいモン


こうして生きものたちは、一説には52類やって来たといわれているそうですが、
おそらくはもっと、何百、何千とやって来ていたのではないでしょうか。

ところが、わたしたちの身近な動物、ネコだけは、この場に描かれませんでした。
いえ、動物がいっぱいすぎて、絵に描ききれなかったというわけではありません。

どうしてネコが描かれなかったのか。
というのも、こんなお話があるそうです……。

と、「絵解き」では、十二支の話が語られます。

確かに「涅槃図」の絵には、十二支の動物たちがそろっています。

子。ネズミ。
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丑。ウシ。
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寅。トラ。
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卯。ウサギ。
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辰。たつ。りゅう。
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巳。ヘビ。
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午。ウマ。
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未。ヒツジ。
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申。サル。
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酉。ニワトリ。
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戌。イヌ。
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亥。イノシシ。
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けれどネコは、ネズミに意地悪をされたために、ブッダの最期に間に合わなかった。
駆けつけた順番で十二支が決まったので、その十二支にも入れなかったという話です。

以来、ネコはネズミを恨んで、姿を見かけるたびに
追いかけ回すようになったとうことです。

この話は、日本に伝えられている昔話にもなっています。
(関敬吾の分類によると「十二支由来」の動物昔話に含まれます。(1)

絵解きの語りは、仏教の経典がもとになっていますが、
そこから派生したインドや中国の仏教説話、
さらに日本の民間伝承や昔話なども取り込まれているようです。

難しい話ばかりでなく、
お寺にあまり馴染みのない筆者のような素人にも
わかりやすく、おもしろく語ってくれるんですね。

小林玲子さんが語り出すと、絵の中の人物や動物たちが
いきいきとした表情を持っているように見えるのが不思議です。

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また一説には、こんな話もあるようです。

後述しますが、このとき、ブッダの生母である摩耶夫人が、天上から降りて来ます。
そして、ブッダを救うための霊薬の入った袋包みを投げ下ろす。
ところが、途中、沙羅双樹の樹の枝に引っかかってしまいます。

そこで、ネズミがスルスルと樹を登って取りにいこうとしたところ、
日頃のクセでしょうか、ネコが追いかけてじゃまをしてしまう。
そのために薬は間に合わず、ブッダが入滅を余儀なくされることとなり、
ネコは「涅槃図」に描いてもらえなくなったというのです。

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さて、ところが、全国にある「涅槃図」の中には、
ネコが描かれているものもあります。
小林玲子さんがよく「絵解き」をされる長野・善光寺世尊院釈迦堂所蔵の「釈迦涅槃図」でも、
ネコが絵に登場しているそうです。

なぜネコが描かれている絵があるのか?
それには、こんなお話があるのだとか。

京都・東福寺には、15m×7.3mという巨大な「涅槃図」があります。
それを描いたのが、吉山明兆(きつさん・みんちょう)というお坊さんの画家です。

彼が、その「涅槃図」の制作中、赤い絵具が足りなくなって困っていたとき、
一匹のネコが、袖を引っぱって裏山の谷へ連れて行く。
そこには絵具の材料となる赤い土があり、感激した明兆が、
ネコの姿を「涅槃図」の中に描き添えてやったというのです。

一説には、裏山の谷からいろいろな染料をくわえてきて手伝った、
お釈迦さまの口紅の色に悩んでいると、ぴったりな色を探して来てくれた
などとも言われているようです。

いずれにしろ、今でも東福寺「涅槃図」の中には、
描いてもらって、ちょっぴりうれしそうなネコが、
しっかりチョコンと座っています。

▼京都・東福寺「涅槃図」(明兆作)部分
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こちら、常保寺の「大涅槃図」にも、
実は、ネコらしき動物が描かれています。
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小林玲子さんは、これはネコではないのではないかしらと
おっしゃっていたのですが、
筆者には、どうもネコのように見える気がしないでもありません。
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こちらの正面を見て口を少し開いている謎の生物は、
はたしてニャアと鳴いているのか、それとも……?

──まあ、ネコであれ、ネコではない動物であれ、
たとえ死に際に駆けつけなかったからといって、
あるいは、薬を飲むのをじゃましたからといって、
お釈迦さまは、生きとし生けるものすべてを
けっして見捨てたりはしないということには変わりがないのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)関敬吾「日本昔話集成 〜第一部・動物昔話〜」角川書店
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駆けつけて来た動物たち


悲報を知って、ブッダのもとへ駆けつけてきたのは、
人間や神々ばかりではありませんでした。
生命あるもの──動物や鳥や虫たちもやって来ます。
魚たちは、もしかしたら、すぐ近くの
ヒラニヤヴァティー河あたりへ来て待機していたかもしれませんね。

ゾウは、悲しみの衝撃に打たれて、
「阿」の形の仁王さまと同じように、地に倒れ、のたうちまわっています。
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龍も、茫然自失のようすで空を仰ぎ、途方に暮れているようです。
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百獣の王・獅子(ライオン)もうつむいて、うずくまっている。
伝説では中国に住むといわれる麒麟(キリン)も、はるばるインドまでやって来たのでしょう、
沈痛な面持ちで、一点を見つめています。
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クマや、ネズミや、カエルたち。
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ツルや、クジャク、ニワトリ、オシドリなどの鳥に混じって、
迦陵頻伽(かりょうびんが)の姿もあります。
迦陵頻伽は、上半身が人間、下半身が鳥で、極楽浄土に住み、
非常に美しい声で鳴くそうです。
彼女が手にしているのは、もしかしたら
マンダーラヴァ華(曼荼羅華、デイコ)の花でしょうか?
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カメや、スッポン、海辺や川辺の貝たちも上陸してここまでやって来たようです。
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チョウや、ガも、ここまで飛んで来ています。
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この他、ラクダやカラス、ムカデに至るまで、
多くの生きものが、ここクシナガラのサーラの林にやって来て、
偉大なる死を悼んだのでした。

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駆けつけて来た神々


さて人々がクシナガラへ駆けつけて来たとき、
実はその時すでに、ふつうの人間の目には見えないものの、
世界中の神霊たちがこの地へやって来ていました。

沙羅双樹の林の周囲12ヨージャナ(由旬)=約86km四方を取り囲み、
うさぎの毛の隙き間もないほどにひしめき合っていたそうです(1)

そのようすが、「涅槃図」に描かれています。
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よく知られている仏教関連の神々が登場していて、
さながらオールスターズ総出演。

「涅槃図」の中には名前を書き込んでいるものもあるのですが、
大半は、こちらの「大涅槃図」のように名前が書いてないため、誰が誰だかわかりませんね。
梵天や帝釈天といった天部の神々もいらっしゃると思います。

仏法を守護する八部衆の姿も見えます。
あくまでも筆者の推定でみていくと、
蛇を頭に載せて嘆いているのは、
摩睺羅伽(まこらが)〈=摩睺羅(まごら)ともいう〉だと思われます。
三面六臂(3つの顔に6本の腕)の真っ赤な姿は阿修羅でしょう。
象の冠をつけている青い肌は、五部浄(ごぶじょう)。
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下の絵の部分、鳥の顔をしているのは、迦楼羅(かるら)、
獅子の冠をつけて涙をぬぐっているのは、乾闥婆(けんだつば)、
額に縦の目をつけて3つの目を持ち、頭に角をはやして合掌しているのは、
おそらく緊那羅(きんなら)かと思われます。
緊那羅は、頭の中央に角が1本なのだそうですが、この絵では2本にも見えるので
違うかもしれません。
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下の絵の部分は、同じく、仏法を守護する金剛力士。
よくお寺の入口でお寺を守っていらっしゃる仁王さまです。
口を結んだ「吽(うん)」の形の金剛力士は、
全体画面の右がわにおわします。
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口を開いた「阿(あ)」の形の金剛力士は、
悲嘆のあまり、全体画面の左がわで地面を転げています。
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また、もちろん、文殊菩薩や普賢菩薩らの菩薩たちもやって来ていました。
ブッダの床の近くにおられるのが、地蔵菩薩です。

「絵解き」では、涅槃に入りゆくブッダが、地蔵菩薩に語ります。

自分の死後、56億7000万年後、
この世界を救うため、弥勒菩薩が出現する。
それまでおまえは、
如来(修行完成者)とはならずに、
菩薩(修行者)のままで、
苦しむ衆生(しゅじょう=生命あるすべてのもの)を救いさない、と。
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そうしてブッダから託された地蔵菩薩は、
どこにでもいて、わたしたち衆生を助けてくれるのだそうです。

もしも不幸にして、将来、地獄の方へ滞在しなければならないようなことになったら、
あちらでわたしたちを助けてくれるのもお地蔵さまです。

地蔵菩薩は、超越者とはならずに、
低俗な問題で悩んだり、いじけたりもする
愚かなわたしたちのそばに寄り添ってくれる存在なんですね。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダ最後の旅 〜大パリニッバーナ経〜」岩波文庫
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駆けつけて来た人々


ブッダ最期の地となったクシナガラ(クシナーラー)は、
弟子のアーナンダ(アナン、阿難)に言わせれば、
「小さな町、竹薮の町、場末の町」(1)
でした。

こんな辺鄙な場所ではなく、他に大都市ならいくらでもある。
そういう場所でなら、富裕な王族や、富裕なバラモンや資産家に囲まれて、
華々しい最期を迎えられるのに、
どうしてこの場所を死地に選んだのですか?
──と、アーナンダは言います。

しかし、修行の道を怠ることなくつとめ、
最後の最後まで道を歩み続けたブッダにとって、旅の途上にあったこの地は
どこよりもふさわしかったに違いありません。

そのようなことを言ってはいけないと、
ブッダはアーナンダをいさめて言います。
──この地は、かつてはクサーヴァティーといい、
“大善見王”という正義の王が治めた都で、
人々が平和で幸せに暮らした場所であったと。

他の経典によれば、その王こそがブッダの前世の姿で、
ブッダはこの地で7回生まれ変わったのだといいます。
そして都の繁栄や世の繁栄も永遠のものではなく、
体もやがては滅ぶものであり、
ただ道のみが真(まこと)であることを知ったのだと(2)
クシナガラは、そうした宿縁(ゆかり)のある地だったというわけなんですね。

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悲報を聞いたクシナガラに住むマッラ族の人々が
この沙羅双樹の林へやって来ます。
誰もが砕かれた岩のように打ち悲しみ、
身分に関係なく、子や妻や仲間とともにやって来て
ブッダを取り囲み、敬礼の礼をします。

そこには、ブッダに最後の食事を供した、あのチュンダ(純陀)の姿もありました。
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その食事に当たったことが、ブッダの死の引き金となったわけですが、
料理に毒を盛ったとか、故意に腐ったものを出したというわけではありません。
むしろ精一杯に、厚くもてなそうとした食事であったでしょう。
その供養は、修行完成者(如来=ブッダ)を涅槃(ニルヴァーナ)に導いたのだから、
その功徳は大きいのだと、ブッダも力説しています(1)

しかし、チュンダ本人は悔いても悔やみきれなかったのでしょう。
山盛りに盛ったご飯を捧げ持ち、改めて新たに供養を差し上げようとしています。

一方、「今昔物語」でも、ブッダに最後の供養を捧げた人として
チュンダ(純陀)が登場しています。
が、こちらでは、クシナガラに住む工芸の職人で、
非常に貧しく、食べるものにも困っている。
しかしブッダが亡くなりそうだと聞き、何とか供養を捧げたいと
15人の仲間たちと駆けつけて来たというのです(3)

この絵が、こちらの物語を描いたものだとしたら、
この山盛りのご飯は、貧しい中、
仲間たちとそうとう必死でかき集めたということになりますね。

今は、定食屋さんでも、サービスでご飯を大盛りにしてくれるところがありますが、
当時の時代、これだけの山盛りは、それだけでたいへんなご馳走であったでしょう。

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中には、高貴な人の姿もあります。
こちらの絵では、どの方かわかりませんが、おそらく
マガダ国の阿闍世王もいると思われます。
王はこの夜、巨大な火の玉が墜ちるという夢をみてブッダの入滅を知り、
急いでここへやって来たといわれているそうです。
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一方、貧しい身なりの人々もいます。
ブッダの足をさすっているのは、貧しい老婆です。
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齢(よわい)は百歳(ももとせ)に迫っていたとも、
120歳だったとも伝えられているこの老婆は、
あのヴェーサリー(毘舎離城、ヴァイシャーリー)から駆けつけたといいます。

貧しいために、これまでブッダに何もお布施も供養もできなかったことを悲しんでいた。
そうして、45年間、布教のために各地をずっと歩き続けて来たブッダの足を、
せめていたわり、慰めようと、さすっているのだそうです。

「どうぞ、未来(つぎの世)には何処(どこ)にあっても、
常に御仏を拝むことの出来るようにして下さい」
(4)
と、はからずもあふれ落ちた涙が、はらりとブッダの足を濡らす。


ところで「今昔物語」には、こんなエピソードがあります(5)

仏弟子のひとり、マハーカッサパ(大迦葉:だいかしょう)は、
ブッダ入滅のとき、遠くマガダ国のクククバダ山(狼跡山、鶏足山)にいました。
知らせを聞いて急いで駆けつけて来たものの、すでに師は棺の中。

体は帷子(かたびら)に包まれて見ることがかなわなかったのですが、
せめておみ足を、と見たところ、
金色に輝いているはずのブッダの足に変色しているところがある。
これはどうしたことかと、側近の弟子のアーナンダ(阿難)にたずねると、
涅槃の際に、一人の老婆がいて、涙を落とした。
その跡のところだけ、色が違っているのだといい、
それを聞いたマハーカッサパは、泣きながら礼拝したそうです。

「絵解き」では語られます。
この老婆の流した涙は、ブッダの汗のようになって、
荼毘に付すまで消えずに、ずっと、ずっと残っていたと。

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ブッダは、富裕な王族や、富裕なバラモンや資産家に囲まれはしませんでした。

けれど、富裕な人も、そうでない貧しい人も、
若い人も、そうでない老いた人も、
身分のえらい人も、そうでない身分の低い人も、
みんな駆けつけてやって来て、
そして、そうした人々の温かな涙に囲まれて、最期のときを迎えたんですね。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダ最後の旅 〜大パリニッバーナ経〜」岩波文庫
(2)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(3)「今昔物語集」巻三第29話「仏入涅槃給時受純陀供養給語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店
(4)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(5)「今昔物語集」巻三第32話「仏涅槃後、迦葉来語」〜同上「今昔物語集・一」
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白い沙羅双樹の花の中で


小林玲子さんが、「涅槃図」を題材に絵解きした口演が
DVD化されています。
(長野・善光寺世尊院釈迦堂所蔵の「釈迦涅槃図」を絵解きしたもの。
台本は、小林一郎さんとご夫婦で制作。)
→方丈堂出版HPの紹介ページ

また、このDVDは、長野郷土史研究会のHPでも取り扱っておられます。
→長野郷土史研究会のHP
紹介ページ
くわしくは、こちらを見ていただくと、絵解きの魅力の一端がわかるかと思います。

ただ、やはりDVDでは、生の口演の醍醐味は伝わりにくいもの。
機会があれば、ナマのライブの「絵解き」を体験してみることを
ぜひともオススメします。

以下、口演の内容の一部をダイジェストとして紹介してみたいと思います。

こんなかたちで取り上げることをオーケーして下さった小林玲子さん、
ありがとうございます!
また、寺宝の「大涅槃図」の撮影と掲載をご許可して下さった
常保寺のご住職・小澤秀孝さん、ありがとうございます!
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さて。
クシナガラ(クシナーラー)へとやって来たブッダは、
サーラの樹(沙羅双樹)の林の間にしつらえられた床に横になります。
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絵の中央に描かれたブッダ(お釈迦さま)の姿は、金色です。

ブッダは、クシナガラへ入る直前、プックサ(福貴)という人に会い、
金色の衣の寄進を受けるのですが、
それを身につけた彼の肌は、その金色の衣が色あせて見えるくらい、
すでに金色に輝いていたと「大パリニッバーナ経」に語られています。

ここで、修行完成者(=如来)は、悟りを開いた時と
涅槃(ニルヴァーナ)に入る時の2回、
肌がきよらかに輝くと説明されています。
今まさに命の炎が尽きんとしているブッダの体は金色にまばゆい。

後年になると、ふだんから金色に光っていたと語られるようになり、
一般的にブッダは金色で描かれることが多くなります。
涅槃図のブッダは、特に金色で描かれるようです。

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かくてブッダは、弟子たちに

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく修行を完成なさい」
(1)
(=諸行は無常である。怠ることなくつとめよ)

と最後の言葉を告げて涅槃に入ります。

このとき、一説には2月15日。
満月の夜だったそうです。
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そしてこの瞬間、大地が揺れ、雷鳴が轟き、
沙羅双樹の樹は、時機でもないのに、いっせいに白い花を開く。
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「大パリニッバーナ経」では、床は、サーラの樹(沙羅双樹)の2本の木の間に
しつらえられたことになっています。
が、他の文献(「釈迦如来涅槃像勧喩録」)などでは、8本の木の間とされ、
ブッダの説法が終わったとたん、4本が枯れます。
が、他の4本は、いっそう青々と繁る。

これは「四枯四栄(しこしえい)」といい、
ブッダの肉体は涅槃(ニルヴァーナ)に入っても(四枯)、
その説いた法は後世に残って栄える(四栄)ことをあらわしているのだそうです。
(こちら常保寺の「大涅槃図」でも、
4本が白く枯れ、4本が緑に描かれていますね。)

また、沙羅双樹は花をつけた後、
全部の樹が枯れ果てて真っ白になったともいわれているそうです。
白く化した林は、遠くから見ると、まるで白い鶴が群れているようだったとか。
そのため、この林は「鶴林(かくりん)」と呼ばれるようになる。
この故事は、兵庫の名刹「鶴林寺」の由来ともなっています。
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そうして「絵解き」では、「平家物語」の冒頭の部分がしみじみと語られます。

「祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」


──「もろもろの事象は過ぎ去るものである。」
諸行無常。
感慨深い場面です。

時ならずして満開となった沙羅双樹の花は、
はらはらと散り、ブッダの体に降りそそぎます。

そしてこれは「涅槃図」にはないのですが、「大パリニッバーナ経」(1)によれば、
さらにどこからともなく虚空から、
マンダーラヴァ華(曼荼羅華、デイコの木の花)が現われ、はらはらと舞い降りる。
そして、おそらくビャクダン(白檀)と思われるセンダン(栴檀)の
たおやかな香りの粉が舞い落ちて、ブッダの体に降りそそぎます。
沙羅双樹のまっ白な花と、デイコのまっ赤な花。
美しい表現だと思います。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダ最後の旅 〜大パリニッバーナ経〜」岩波文庫
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この絵の場面に至るまで


そして「絵解き」が始まりました。
まず、この絵の場面へと入る前に、
この絵の場面へ至るまでのお釈迦さまの生い立ちがかんたんに語られます──。

インドの北、今はネパールとなっているヒマラヤのふもと、
カピラバストゥ(カピラ国、迦毘羅城)という国の王子として生まれ、
29歳で出家。
修行の末、35歳で悟りを開いた後、
各地を歩いて教えを広める……。

その一生を地図でたどってみると、次のようになります。
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ルンビニーで誕生。
一説にはこの日は4月8日とされ、灌仏会(かんぶつえ)、花まつりなどとして祝われる。
ブッダが生まれた釈迦族(サーキヤ族、シャーキヤ族)の国、カピラバストゥは、
現在のネパール・タラーイ地方にあったとされる。
コーサラ国とマガダ国という2大強大国にはさまれた小さな国で、
コーサラ国の属国のような立場であったらしい。
ブッダの晩年、コーサラ国に攻め滅ぼされ、消滅する。

②29歳で出家。
ヴァッジ国のリッチャヴィ族の都ヴェーサリー(ヴァイシャーリー、毘舎離城)へ行き、
バラモン教のアーラーダ・カーラーマに師事。

③しかし、その教えは悟りへの道ではないと知り、別の師を求めて
マガダ国の都ラージャガハ(ラージャグリハ、王舎城、現在のラージギル)へ向かい、
ウドラカ・ラーマプトラに師事。

④しかし、その教えもまた悟りへの道ではないと知り、
ウルヴェーラーへ行き、そこで6年の苦行生活に入る。
その後、苦行一辺倒の修行も悟りへの道とならないことに気づき、
瞑想の後、菩提樹の根元で悟りを開く。
これを「成道」という。
一説にはこの日は12月8日とされ、
日本では「成道会(じょうどうえ)」の法要が行われる。
ウルヴェーラーは、ブッダが悟りを得た場所として、
後にブッダガヤと呼ばれるようになった。

⑤「仏陀」とは、真理に目覚めた人、覚者のことをいう。
そのブッダとなった彼は、かつて苦行を共にした5人の修行仲間に会いに、
バーラナシー(現在のワーラーナシー、かつてはベナレスとも呼ばれた)の近くの
ミガダーヤ(鹿野苑、現在のサールナート)へ赴く。
そこで5人に法を説き、5人は弟子となる。
この最初の説法を「初転法輪(しょてんぽうりん)」という。

⑥そこからラージャガハへ向かう途中、ウルヴェーラー(ブッダガヤ)で
カッサパ三兄弟(三迦葉)とその弟子1000人を教化。
さらに弟子が増えていき、サンガ(僧伽)という教団となる。
彼らはラージャガハで寄進を受けた竹林精舎などを拠点とし、
雨期の3ヶ月は「安居(あんご)」としてそこで静かに修行して過ごし、
他の月はインド各地を遊行し、托鉢などをして歩いた。

⑦コーサラ国の都シュラーヴァスティー(サーヴァッティー、舎衛城、現在のマヘート)の近く、
現在のサヘートに、寄進を受けて祇園精舎を設営する。
この祇園精舎は、ブッダが最も安居をした場所といわれ、
コーサラ国の布教の拠点となった。

→参照:ブッダの人生の足跡を地図にたどる(googleマップ)

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さて、そうしてブッダは80歳になっても、
遊行の旅をやめませんでした。
その最後の旅のようすが、「大パリニッバーナ経(大般涅槃経)」に
描かれています。

当時、ブッダは
マガダ国の都ラージャガハを囲む小高い山である
鷲の峰に留まっていました。
この山(グリッドラクータ、ギッジャクータ)は、
霊鷲山(りょうじゅせん)とも耆闍崛山(ぎしゃくつせん)ともいいます。
このあたりは岩山で、修行者たちは、岩と岩の隙き間のようなところに
寝泊まりしていたそうです。
また、ブッダは、よくこの山に登って法を説いたといいます。

そこから出発し、ラージャガハへと下り、
ブッダは北を目指します。
北には、生まれ故郷のルンビニーがあり、
人生の最期にそこへ向かったのだという説もあるようです。

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後年、仏教大学が作られ、中国の玄奘らも滞在したというナーランダーを経て、
パータリプトラへ。
パータリプトラ(パートリプトラ、パータリプッタ、華氏城、現在のパトナ)は、
当時は河のほとりの小さな村にすぎず、パータリ村と呼ばれています。
これより後の時代、マガダ国の都がラージャガハからここへ移され、
さらにマウリヤ朝の時代でも首都となって繁栄を遂げました。
ブッダの一行はそこからガンジス河を渡り、ヴェーサリー(ヴァイシャーリー)へと向かいます。

ヴェーサリーの郊外の林で、遊女アンバパーリーの食事に招かれたりしつつ、
ヴェーサリーの近くのベールヴァ村に留まります。
同行の弟子たちは分散して、ブッダはこの村で雨期の安居を過ごします。
そして、ここで瀕死の大病にかかってしまう。
何とか回復はしたものの、残された時間の長くないことを悟ったのでしょう。
托鉢のためにヴェーサリー市内へ入って歩いて、チャーパーラ霊樹の元で一休みするとき、
弟子のアーナンダ(阿難)にこう語ります。

「アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。」(1)

ヴェーサリーは、29歳で出家したとき、修行で立ち寄った場所であり、
思い出深い土地でもあったかもしれません。
晩年によく訪れていた地でもあったようです。
当時は、自由な気風のある活気にあふれる商業都市だったそうで、そうした空気感もあったかもしれません。
が、ブッダが愛でたのは、もしかしたら、街の営み。
家族や労働者、子どもや老人が生活する、
ありふれた市井の人の世の営みの姿ではなかったでしょうか。

いえ、彼は修行の実践者です。
修行者というものは、雷鳴がとどろこうが、近くでおそろしい獣が吠えていようが、
「洞窟のうちにあって、瞑想に入るとき、かれはそれよりもすぐれた楽しみを見出さない」
といいます(2)
霊樹の地が楽しいというのは、そうした“楽しみ”の境地であったかもしれません。

しかし、熱い陽射しを避ける涼しげな霊樹の木陰でひとときを憩いながら、
街の姿、人々の姿を眺めていたのではないか。
死を間近にしたとき、いっそう、そんな風景がしみじみと愛おしく感じられたのではないかというような想像ができるような気もするのです。

そして次の地を目指してヴェーサリーから立ち去ろうとするとき、

「アーナンダよ。これは修行完成者(=わたし)がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。」(1)

と語り、象が眺めるように身をひるがえして、じっとヴェーサリー市を振り返ったといいます。

若い頃から、老・病・死を想い、
その苦しみをどう乗り越えるかを考え、修行し、実践してきたブッダです。
それが今、80歳の老人となり、大病を患い、死を間近にしようとしている。

ヴェーサリーを振り返ったその一瞥は、
大悟したブッダにとっては、もちろん未練というわけではなかったでしょう。
その境地は、凡人には測り知れません。
けれど、なにがしかの感慨があったのかもしれないとも思われます。

そしてその言葉の通り、ブッダがヴェ−サリーの風景を再び見ることはありませんでした。

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ブッダはさらに北上し、バンダ村を経て、ボーガ市で説法をしつつ、
パーヴァー村へ至ります。
そこで、金属の細工をしている鍛冶工のチュンダ(純陀)から食事に招待される。
そして供された、きのことも豚肉ともいわれる料理を食べたとき、
激しい病いが起こり、血がほとばしり出たといいます。

が、ブッダは、その苦痛を耐え忍び、
そんな状態でクシナガラ(クシナーラー、クシーナーガル、拘尸那竭羅)を目指します。
途中、臥して休んだり、
弟子のアーナンダに水を汲んでもらって飲んだり、
後でチュンダが非難されないよう、気をつかったり、
なおも法を説いたりしながら、
いよいよクシナガラへとたどり着きます。

そして、ヒラニヤヴァティー河(跋提河:ばつだいが)のほとり、
ウパヴァッタナというところへやって来ます。
ヒラニヤヴァティー河は、現在はごくふつうの小川となっていますが、
当時は大きな河だったのだそうです。

そこでブッダはアーナンダに、
サーラ樹(沙羅双樹)の木の間へ床を用意してくれるよう頼みます。

「アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい。」(1)

そうして、あの「涅槃図」の絵の場面となるのです。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダ最後の旅 ~大パリニッバーナ経~」岩波文庫
(2)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラガーター〜」岩波文庫
中村元・田辺祥二「ブッダの人と思想」NHKブックス
ジャン・ボワスリエ、木村清孝監修「ブッダの生涯」創元社
宮本啓一「ブッダ 〜伝統的釈迦像の虚構と真実」知恵の森文庫・光文社

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絵解きが始まる


先日の1月15日、「絵解き」を拝観するチャンスがありました。

東京のJR青梅駅を降りると、近くにあの赤塚不二夫会館があります。
が、今回はそちら方向ではなく、歩いて5分、青梅市立美術館へ。
多摩川を望むその美術館の道路をはさんで向かい側にあるのが、常保寺。
臨済宗の禅寺です。
こちらのお寺に、ブッダが息をひきとる様子を描いた「大涅槃図」があります。

18世紀頃の作だそうで、幅は2m近く、高さ3mを越える大作。
毎年、「涅槃会(ねはんえ=ブッダの入滅の日に行われる法要。旧暦2月15日とされる)」
にちなんで、1月15日〜2月15日の限定期間に公開されているそうです。
(※この絵は、常保寺HPでも見ることができます。)

その公開の日であり、小正月にあたる1月15日には、
例年、お参りに来られる方も多いのだとか。
それが今年は、長野・善光寺を中心に、全国で絵解き口演をして活躍されている小林玲子さん、
そして長野郷土史研究会会長をされている小林一郎さんのご夫婦を招いて
絵解きをすることになったのだそうです。
(※小林玲子さんのブログはこちら。)
(※小林一郎さんのブログはこちら。)

本堂に掲げられた「大涅槃図」。
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ここへ、檀家の方々をはじめとする7〜80名が集まりました。
ご住職の挨拶に続き、小林一郎さんのお話。
筆者も含めて、絵解きを見たことがないという人が大半なので、
その絵解きの解説に興味津々。
そうして、小林玲子さんの実演が始まりました。
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この写真では見にくいのですが、小林玲子さんは羽根のついた棒を持っています。
いわば、指し棒(指示棒)のようなもの。
学校の先生が、図を説明するときや、
強調したい文字を伝えようとするとき、
黒板をトントンと叩いたり、指し示したりするアレです。
あの指し棒と同じように、それで絵を指し示します。

「絵解き」が日本に伝わって、寺院などで行われていた平安時代にも、
やはり棒を使っていたそうです。
その当時は「楚(しもと)」という棒を使っていた。
「しもと」は「細枝」とも書き、木の枝の細長く伸びた棒のこと。
これは、刑罰の一つとして罪人をたたく笞(ムチ)としても使われたそうで、
だから「笞(しもと)」とも書きます。

そういえば、昔の先生が使っていた「教鞭」も、
黒板を指す役目と、イタズラっ子を罰する鞭(ムチ)の役目の
両方のはたらきがあったそうですね。

細い木枝くらいだったら、少々たたかれても
往年のガキ大将ならへいちゃらかもしれませんが、
紙の絵だと傷つくことがある。
軽くなぞるだけであっても、何度も繰り返されれば、傷みます。
長野・善光寺の掛け軸絵には、
「絵解き」のたびに同じところを何度も触れるため、
白くなった箇所があるものもあるそうです。

そこで、棒の先に羽根をつけておくと、絵を傷めないというわけです。

「絵解き」は、平安も末期以降になると寺社を飛び出し、
往来の道端やふつうの民家で行ったりするようになり、
エンターテイメント性が高くなってきます。
その頃の「絵解き」でも、羽根のついた棒を使っていました。

下の絵は、室町後期の「三十二番職人歌合絵巻」に描かれた「絵解」の姿。
伴奏のための琵琶を膝に置き、折り畳んだ絵を箱から取り出し、
羽根のついた棒を持っています。
(これには、絵を指し示すとともに、
画面のほこりをはらう目的もあったといいます。)
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詞書きに「雉(きじ)の尾のさしてをしえずとも」とある通り、
雉の尾羽を使っていたようです(1)

「一休さん」で知られる一休宗純の著作「自戒集」(1455年)には、
当時の「画説(えと)き(=絵解き)」に触れている叙述があって、
そこでは、この棒が「鳥箒(とりぼうき)」と呼ばれています(2)

一方、15世紀頃から、「絵解き」をしながら勧進して歩く
熊野比丘尼という女性たちが全国を廻り歩くようになります。
彼女たちもやはり、雉(きじ)の羽根のついた棒を持ち、
それを「おはねざし」と呼んでいました。

小林玲子さんもそれに倣ってか、
やはり雉の尾羽のついた棒を使い、
「おはねざし」と呼んでおられました。

下のポスターは、熊野比丘尼に扮した女性が
絵解きのサービスをするという観光企画のためのものですが、
この女性が手にしているのが「おはねざし」です。
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さて、その「おはねざし」で、「大涅槃図」の絵を指し示しつつ、
小林玲子さんの「絵解き」が語られ始めたのでした。

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《引用・参考文献》
(1)「三十二番歌合」〜谷川健一編「日本庶民生活史料集成・第30巻・諸職風俗図絵」三一書房
(2)石井恭二訓読・現代文訳・解読「一休和尚大全 上・下」河出書房新社





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