清姫は、はたして悪女だったのか?(1)


安珍清姫の物語が、文献として初めて登場するのは、
平安時代に書かれた「法華験記(ほっけげんき)」という説話集です。

法華経にまつわる国内の仏教説話を集めたもので、
正式には「大日本国法華験記」(1)といいます。
比叡山延暦寺の鎮源というお坊さんが、その頃の書物や、口伝てに聞いた話、
そして自分の創作も若干交えて書き著したのだそうです。
その下巻の第129に収められたエピソードのタイトルが、
「紀伊国牟婁郡(むろのこおり)の悪女」

この時点では「清姫」という名前もまだありませんが、
紀伊の国(現在の和歌山県)の牟婁郡という所に住むこの物語のヒロインは、
「悪女」(悪しき女)であるというのです。

が、しかし。
彼女は、はたして悪女だったのでしょうか?

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ほぼ同じ内容が、「今昔物語集」にも収められていて(2)
「今昔物語」の編者は物語の終わりに、

「女人(にょにん)の悪しき心の猛(たけ)きこと、既にかくのごとし。」(2)

と、コメントしています。
女性は悪心が強いので、仏(ブッダ)も、女性に近づくことを戒めている。
だからこれをわきまえて、むやみに女性に近づいてはいけないよと書いています。

これら「法華験記」と「今昔物語集」では、
ヒロインは、熊野詣で旅人が行き交う道の辺りにある家の主で、
未亡人(寡婦)であったと説明されています。

同様の物語を伝える「道成寺縁起」(3)では、
紀伊国の室郡(むろのこおり=牟婁郡)の真砂(まなご)村に住む
庄司清次という人の「娵(よめ=嫁)であったといいます。
彼女は一家の主婦だった。

年齢はわかりませんが、この未亡人もしくは主婦が、
真夜中、若くてイケメンの僧の寝ているところへ忍んで、誘惑する。
僧は、修行中の身だからとこれを拒み、
嘘の約束をして逃げようとします。
その嘘を後に知った彼女は、裏切られ、女心を踏みにじられたことに怒り、
僧を追いかけ、大蛇となって道成寺へと至ります。

まさに、ストーカー。
また、彼女がもしも主婦であったとすれば、これは不倫に走って起こした事件です。
相手のことも考えず、自分の家庭も省みず、ただ己が情欲に走り、
一方的に恨んで追いかけ、相手を焼き殺す──。
これは悪女と非難されても仕方がないかもしれません。

文字として書かれたこれらの物語は、仏教説話でもあります。
非業の死を遂げた二人は、その後、
道成寺の老僧による「法華経」の書写供養を受けて、
忉利天(とうりてん)へと生まれ変わり、安寧を得たことになっています。
そうした仏教のありがたさを説くため、また僧侶に落ち度がないことを示すためには、
女性は、僧を誘惑する悪女である方がわかりやすいとも言えます。

けれど、人々の口から口へ、口承によって和歌山県各地に伝えられる伝説からは、
上の物語とはまた違うヒロイン像が浮かび上がってきます。

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清姫の出身地である真砂村(現・田辺市中辺路町真砂)に伝わる話では、
清姫は、庄司清次の娘ということになっています。

熊野詣に来た僧・安珍が、真砂村の清次の家に、一夜の宿を乞う。
すると、その夜、当時8歳になる家の娘が熱病にかかったと大騒ぎ。
騒ぎを聞きつけた安珍が、護摩をたいてご祈祷したところ、娘は見事、快癒。
清次は、娘の命の恩人だと喜び、
そうして安珍は、毎年のように熊野詣へ来るたびに、清次の家へ招かれるようになります。
そして数年。
いつしか娘の清姫は、安珍に恋心を抱き、二人は夫婦となる約束を交わします。

旧・那賀郡貴志川町(現・紀ノ川市貴志川町)などに伝わる類話では、
熊野へ詣でる旅の僧が、毎年のように泊まる宿の一人娘に、
大きくなったらお嫁さんにしてあげようと言う。
成長した娘は約束を信じて、僧を慕って待ちわびるようになります。
いずれにしろ清姫は、恋をする少女として語られます。

ところが、安珍が泊まりに来たある晩、屋敷の手洗い口に、
草履が濡れているのを見つける。
不思議に思った安珍が、次の晩、寝ないでいると、
真夜中、清姫が家を出て行くのを見ます。
後をつけると、清姫は、着ていた小袖を脱いで川のほとりの大きな松に掛けた。
かと思うと、ざんぶと川の淵に飛び込み、するすると泳ぎだしました。
驚いた安珍が先に帰って寝たふりをしていると、
清姫は何食わぬ顔で、自分の部屋に戻って寝ている。
その部屋を見ると、寝ている清姫の髪の毛が蛇となって、
ザラザラ、ザラザラ、遊んでいたといいます。

そもそも清姫の母親というのは、清次に命を助けられた白蛇。
姿をお遍路さんに変えて清次のもとへ訪れ、お嫁さんとなったのでした。
清姫は、人間と蛇のあいだに生まれた子だったのです。

恐怖を感じた安珍は、朝早くに熊野三山へお参りに出かけ、
その帰りに清姫の家へ寄る予定だったのを回り道して逃げ出す。
それに気づいた清姫が追いかけて、道成寺へと至ります(4)

その後、大蛇となって安珍を焼き殺すなど、
ストーリーとしては「法華験記」などとそれほど変わらないのですが、
テーマは、純情一途な少女が裏切られる悲恋というニュアンスが濃いようです。

類話によっては、清姫は大蛇にはならず、安珍を追いかけるということもせず、
裏切りを知って、川へ自ら身を投げて死んでしまうことになります。
燃える情念は、安珍に対する恨み憎しみへと向かわず、
絶望の悲しみに自分の身を焼いてしまう。

ところで、道成寺を訪れた筆者は、「道成寺縁起」の絵解きを拝見した後
(絵解きについては、別の稿で改めてレポートしたいと思います)、
その足で、熊野古道の中辺路へと向かったのでした。

その滝尻王子(田辺市中辺路町栗栖川)を巡ったとき、
語りべ“ヨッシー”こと水本好則さんにお会いすることが出来ました。
昔、熊野へ参詣する人々は、「先達」と呼ばれる人に道案内を頼んだといいます。
お参りのしきたりを教えてくれたり、解説もしてくれた、いわばガイドさん。
ヨッシーさんは、現代の先達さんともいえるでしょうか。
案内だけでなく、現代の語り部として、熊野にまつわるおもしろい話をしてくださる。
短い時間でしたが、筆者もその一端をお聞きすることが出来ました。

そのとき、ヨッシーさんが語ってくれた安珍清姫の物語のさわりでは、
清姫は、やはり真砂村の庄司の娘で、
小さい頃に「お嫁さんにしてやる」と約束した安珍を信じて恋をするというものでした。
途中で、クラシック音楽にからんだ解説が語られるなど、
いやあー、ヨッシーさんのロマンチックで、エネルギッシュな語りに
すっかり魅せられてしまいました。
やっぱり物語は、生で聞くべきものですねえ。

【※ヨッシーこと水本好則さんのホームページは、こちら。】

これら口承で伝えられた物語には、
もしかしたら、地元出身のヒロインを贔屓(ひいき)して語るという心理が
働いてないとは言えないかもしれません。
が、しかし、それだけではないように思われます。

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さて、筆者は、熊野古道の中辺路へと向かいました。
というのも、その近くに清姫の生まれ故郷である旧・真砂(まなご)村があったからです。

清姫は、その真砂村から安珍を追いかけ、約60㎞離れた道成寺へとひた走ります。
42.195㎞のマラソンよりなお遠い。

その道は、熊野詣の行程と重なっていて、
平安時代の貴族、中御門(なかみかど)の右大臣である藤原宗忠が、
約4日をかけてこの道を旅したことを日記に記しています(藤原宗忠「中右記」(5))。
この距離を、清姫は一気呵成で駆け抜けます。

「道成寺縁起」絵巻では、彼女がその道程を爆走するようすが、
いきいきと描かれています(3)

はじめは、被衣(かずき)を頭からすっぽりかぶった美しい姿。
それが、若い僧を追いかけて、
「きりん、ほうわふなんどのごとく(=麒麟、鳳凰などのごとく)ビュンビュン走るうちにやがて、
被衣を半脱ぎにして、裾をからげ、
人目もはばからぬ格好となって、走る、走る。

詞書きでは、ヒロインは走りながら、
「うらなしも、おもてなしも、失せふ方へ失せよ」
と叫んでいます。

「うらなし(裏無し)というのは草履のこと。
草履はふつう2枚重ねて作るものですが、
それを1枚で作った裏のないのを「裏無し」と呼ぶのだそうです。
絵巻の絵では、ヒロインは片方の草履が脱げ落ちるのもかまわず、
裸足になって駆けています。

「おもてなし」は、「面無し」と書くかもしれません。
「おもなし」ともいい、「恥ずかしい」「面目ない」といった意味。

つまり、草履も、体裁を恥ずかしがるような体面も、
失せるんだったら、どこへでも失せてしまえ! ええいっ!
と、やけくそになってるんですね。
なりふりなど、かまっていられない。
それを、「裏」なしと「表」なしにひっかけて、ちょっと洒落ているわけです。

また、絵巻には、そうやってひた走りに走る彼女が通過する、その土地の名が記されています。
真砂村(現・田辺市中辺路町真砂)から出発し、
切目川を渡る。
切目五躰王子(切目王子神社:日高郡印南町西ノ地)の前を通り過ぎ、
上野(現・御坊市名田町上野)、
塩屋(現・御坊市塩屋町)へと着く頃には、髪振り乱し、
顔つきを蛇のように変じて、ついには火を吐いています。
そうして巨大な毒蛇と化して日高川を渡り、
道成寺(日高郡日高町鐘巻)へとやって来るのです。

→参照:清姫が駆けぬけた道のり(googleマップ)


筆者は、清姫が駆け抜けたその逆のコースを、
電車とバスを乗り継いで、約2時間をかけてたどりました。

そうしてたどり着いた旧・真砂村。
そこに流れる富田川の渓谷。
心洗われるような新緑に囲まれた、清々しいところでした。
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清姫が、脱いだ小袖を掛けたという大きな松は、
「衣掛(きぬかけ)松」と呼ばれ、ずっと残っていたそうです。
が、1889年(明治22年)、十津川大水害(熊野川大水害)が起こったとき、
ここ富田川も洪水に襲われ、松は流されてしまったのだとか。

その後、道路工事などもあって川の地形も変わり、浅瀬となっていますが、
清姫が泳いだという「清姫淵」は、この辺りだと思われます。
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《参考・引用文献》
(1)井上光貞・大曽根章介校注「大日本国法華経験記」〜「往生伝・法華験記」(日本思想大系7)岩波書店・所収
(2)馬淵和夫・国東文麿・今野達校注・訳「今昔物語集一」(日本古典文学全集21)小学館
(3)小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社
(4)渡辺昭五編、丸山顕徳執筆(和歌山担当)「日本伝説大系・第9巻」みずうみ書房
(5)藤原宗忠「中右記・長治三年~天仁二年・3」〜増補史料大成刊行会編「増補・史料大成・第11巻」臨川書店・所収













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絵巻/日本


日本の伝統的な絵巻は、ひとりで鑑賞するようにできています。

だいたい肩幅くらいの長さ(60〜80㎝くらい)に、画面を広げる。
基本的には右手で巻き込み、左手で広げながら、スクロール。
場面は、右から左へと展開していきます。
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絵と文章が交互に配されているもの。
絵の中に文章が書かれているもの。
──などなど、その形態はいろいろですが、
多くは文章を読みながら、絵をながめつつ、ひとりで物語の展開を楽しみます。

が、「源氏物語絵巻」の中で冊子の読み聞かせをしていたように、
絵巻を繰り広げて画面をながめる人のかたわらで、
侍女などが文章を読み聞かせていたということも想像できます。

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下の絵は、江戸時代後期の1804年に出版された山東京伝「近世奇跡考」の挿し絵。
当時は世俗化して「歌比丘尼」といわれていた熊野比丘尼の
絵解きをする様子を描いています。
熊野比丘尼は、たいてい1枚の掛け軸絵を見せながら語りますが、
こうして絵巻を用いることもあったようです。
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②の女性は、髪型や服装から、「上臈」といわれるような
身分の高い武家の女性であることがわかります。
①の熊野比丘尼が、武家の屋敷に招じ入れられ、絵解きを語っているところです。

絵巻の画面には閻魔大王が描かれていて、語っているのはたぶん地獄の絵解きです。
切々と哀れを催すくだりを語っているのでしょうか、
②の女性は袖で涙をぬぐい、かたわらの侍女も顔をおおって泣き出しています。

絵巻は、基本的に座敷の2次元的な平面に置かれて広げられるものですから、
鑑賞する人数はひとりか、せいぜい3〜4人が限度となります。

平安時代の貴族社会であれば、それもOK。
しかし、一部の少人数の人々の楽しみとするだけでなく、
より多くの民衆に語り聞かせようとすれば、
室内でも野外でも、絵を立てて、多くのひと目に触れさせる工夫が必要です。
「絵解き」の多くが、掛け軸絵を立てて掲げて語ったひとつには、
そうした理由もあったと思われます。

江戸時代でも、こうした屋敷の室内で、2〜3人の観客相手であれば、
絵巻は、有効なシステムであったでしょう。
が、武家の屋敷によばれて少人数相手に語るというようなケースは、
それほど頻繁ではなかったかもしれません。

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同じ絵巻でも、インドネシアの「ワヤン・ベベル(Wayang Beber)」は、
大画面で、そして画面を垂直に立てるというやり方をすることで、
多くの人数にアピールしています。

また、インドの「ポトゥア(Patua)」は、
横にスクロールさせるのではなく、縦にスクロールさせる絵巻。
そうして床にべったりと置くのではなく、
画面を持ち上げて3次元的に立たせることで、
より多くの人々に見せることが可能です。

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一方、日本スタイルの絵巻も、今は多くの人が鑑賞できるような工夫がなされています。

「安珍清姫」の物語で知られる和歌山県の道成寺
こちらでは、お寺に伝わる「道成寺縁起絵巻」を描き写した写本を使って、
絵解きを行っておられます。

この「絵とき説法」は、数百年の昔から伝わり、
現在も、年間に3000回以上行われているそうです。
そうした長い口演の歴史の中から、絵巻をより効果的に見せる工夫が生み出されたのでしょう。

木の台を使って、絵巻を立てかけ、聴衆が見やすいように画面を起こす。
左端の軸をはめ込むようにして、台に固定させる。
「説法」の語り手は物語を語りながら、
右端の軸をくるくる回して巻き込み、スクロールさせて画面を展開させるというわけです。
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筆者は、生で見たことがなく、
これはぜひとも行って拝見したいなあと思っています。




《参考文献》
榊原悟監修「すぐわかる絵巻の見方」東京美術
武者小路穣「絵巻の歴史」吉川弘文館
高畑勲「十二世紀のアニメーション ー国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるものー」徳間書店
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