アラビア語の翻訳絵本にみる右・左




東京・板橋区に、「いたばしボローニャ子ども絵本館」があります。

北イタリアのボローニャ市では、毎年「ボローニャ国際児童図書展」が開催されています。
その一環として、日本での「国際絵本原画展」が板橋区立美術館で行われたのをきっかけに、
ボローニャ市と板橋区の交流が始まる。
そうしてボローニャ市から板橋区へ寄贈されたのが、世界の絵本や児童書2,3000冊あまり。
その一部を、同館で一般公開しているのだそうです。

小学校の元校舎を改造したところへ、世界約80カ国の絵本がズラ〜〜ッと並び、
どれでも読み放題というのは魅力です。

で、その中に、アラブ首長国連邦(UAE)の絵本もありました。
この国の公用語はアラビア語ですが、英語も一般に広く使われているのだそうです。
そのため、同じ絵本でも、アラビア語版と英語版の両方があるものもあります。

たとえば英語版の「You're Too Little!」(2)という絵本。
この文章は当然、英語のアルファベットで、左から右へ(→)読み進み、
絵本の展開も右へ進む(→)左開きの本となります。

ところが、アラビア語は、右から左へ(←)読み進む文字。
絵本の展開も左へ進む(←)右開きの本となります。

英語版とアラビア語版は、どちらも原画は同じです。
が、印刷では、部分的に左右そのままの同じ絵になっている箇所があるものの、
基本的に、左右反転になっていました。

ストーリーの流れとしては、まったく違和感がないのですが、
登場する人物がみんな左利きとなるのは、やむを得ないところでしょう。
また、ふつうに景色を描いた絵でも、左右反転すると、
なんとなくバランスが悪いような、どことなく居心地が悪いような印象があるのは、
これは筆者の個人的な感覚のはなしです。



こうした左右反転は、マンガを翻訳する場合にもあるそうです。
日本のマンガは、縦書きで右から左へ読み進み(←)、
表紙が右の右開きが、一般的。
対して、英語などのアルファベットは、右へ読み進む(→)ので、
マンガのコマの絵は、左右反転にしないとつながらなくなる。

ただ、ヒットを放った野球選手が三塁へ走るという珍現象が起きたりするみたいですね。



同館には、日本の絵本が、外国向けに翻訳されたものもありました。

たとえば、五味太郎作「きんぎょがにげた」(1)
何カ国語かに翻訳されていましたが、エジプト向けに翻訳されたものもあります。

エジプトの公用語は、アラビア語。
日本のオリジナルは、文章が右へ読み進む(→)横書きで、左開きで、
アラビア語版は反対の右開き。
これはやはり、中の絵が、左右反転になっていました。

文字が読めないながらにページをめくってみても、
まったく違和感がありませんでした。



しかし、それにしても残念だったのは、
日本の「いっすんぼうし」(文・石井桃子、絵・秋野不矩)(3)が、エジプト向けに翻訳された絵本です。

これも、オリジナルは、文章が横書きで左から右へ(→)展開するので、
アラビア語版では、反対のつくり。
ところが、絵は、左右反転しないままなのです。
そのため、主人公の一寸法師は、逆勝手のまま、物語を進むことになる。

たとえば、都へと旅立つ一寸法師を、おじいさん・おばあさんが見送るシーン。
オリジナルの原画では、左下の手前に、おじいさん・おばあさん。
右上の彼方に、小さな一寸法師という、グランス・カーブを描く構図です。
左下から右上へと描かれる読者の視線に合わせるように、
旅をする蝶々の群れの軌跡が、グラフィカルに美しく添えられています。

ところが、アラビア語版となると、これが左右反転しないままなので、
こちらの一寸法師は、逆勝手の方向を向いて歩いていくのです。
これでは、
おじいさん・おばあさんと別れる一抹のさびしさや、
ちょっと不安感も入り混じった旅立ちのワクワク感もわいてこない。
──ように感じてしまったのは、筆者だけの感覚でしょうか。

秋野不矩さんの流麗な絵はそのままなのですが、
左右が反対なために、
物語を読み進むおもしろさが半減するように思われたのでした。



やはり、右か、左か。
順勝手か、逆勝手か。
というのは、大切なもんだよなあと、改めて思った次第でござります。







《参考文献》
(1)五味太郎「きんぎょがにげた」福音館書店
(2)Caroline Borthwick 文、Judi Barret-Lennard 絵「You're Too Little!」Jerboa Books
(3)石井桃子文、秋野不矩絵「いっすんぼうし」福音館書店

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f0223055_7511210.gifマックスは、行って帰ってくる



絵本のモーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」(1)には、
異界としてのファンタジーの典型的な構造がわかりやすく、
また、いきいきと描かれていると思います。

この物語の主人公マックスもまた、母親から叱られます。
というのも、
「あるばん、マックスは おおかみの ぬいぐるみを きると、いたずらを はじめて おおあばれ…」
したからです。

そうして、絵には、その「おおあばれ」が繰り広げられています。
ハンカチを結んだロープを部屋に張り渡そうと、
トンカチを振りかざして壁に大きな釘を、ドンドンドン。
かと思うと、フォークを振りかざして小犬を追いかけ回し、ドッタン、バッタン……。
これから夕げを迎えようとする静かな夜にこの騒ぎでは、
なるほど、お母さんが怒るのも無理はない。

彼は、「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」とは言われませんでした。
が、
「この かいじゅう!」
と怒鳴られます。
英語の原文では、「WILD THING!」

「wild thing」は、直訳すると「野生のもの」。
この言葉には、
「手に負えないやつ」とか「荒くれ者」「暴れん坊」という意味もあるんだそうです。

映画「メジャーリーグ」で、リッキー投手(チャーリー・シーン)が登場すると、彼のテーマ曲が流れ、
立ち上がった観客が「Wild thing!!」と歌い叫ぶのも、
あれは「いよっ! 暴れん坊!」と声援を送っていたんですね。
コントロール不能のワイルド・ピッチで知られた彼についたあだ名が「Wild thing」でした。

ネットの辞書を見ると、
grow up to be a wild thing(成長して手に負えなくなる)
という例文が載っていました。
「英辞郎 on the WEB」

もちろんマックスは、お母さんから声援を送られたわけではありません。
「He grew up to be a wild thing(彼は成長して手に負えなくなった)」ために、叱られたのです。
そう。
彼は成長したのかもしれません。
「ぼくにげちゃうよ」(2)と逃げ出しては
母うさぎにつかまえてもらいたがっていた子うさぎよりも、ちょっとだけ。

彼は、もう子うさぎではありません。
なにしろ、荒々しい「wild」な動物である“オオカミ”のぬいぐるみを着ているのです。
マックスは、オオカミになろうとする子うさぎでした。

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自我を主張し、自分で何かをやりたいというエネルギーにあふれている。

カーテンやトンカチを持ち出して、彼は何かをしようとしていました。
カーテンをつり下げるためとも思われるような、ハンカチを結んだロープ。
インディアンのテントを作ろうとしたのでしょうか?
それともお芝居を始める幕を設(しつら)えようとしたのでしょうか?

ロープにつり下げられたぬいぐるみのクマの人形は、被害を被ったのか、成り行きが不安なのか、
怒ったマックスの顔つきとは対照的に、なぜか悲しげです。
ひょっとしたら、クマの表情の中に、マックスの本心があるのでしょうか?
いったいマックスは何をしようとしているのだろうと、読者は想像力を刺激される場面です。

が、おとなの読者も、まわりのおとなも見当がつきません。
そこでおとなは、「いたずら」という一言でかたづけてしまう。
(子どもの読者だったら、彼の気持ちはじゅうぶん過ぎるくらい見当がつくかもしれませんね。)

そこでおとなは、とにかくやめさせるよう、圧力をかけることになります。
けれどマックス本人は、たぶん、何かとってもステキなことを思いついて、
何かを始めようとしていたようにも見えます。

しかし、こういう思いつきは、うまくいかなかったりするもの。
ロープを張ろうと釘を打ってもうまく打てないのかもしれません。
かんしゃくを起こして、小犬に八つ当たりなのかもしれません。
あるいは、すべてに反発して、“悪い”と言われることをしてみたいのかもしれない。

そしてこれは、いわゆる「第一反抗期」というやつとも重なるところがあるでしょう。
自分を主張して、人の言うことは何でも否定したくなる。
自分を主張して、駄々をこねる。ぐずる。周りを困らせる。
自分を主張して、けれど自分自身をコントロールできない。
暴れる。散らかす。ものを壊す。
なるほど、「wild thing」。
──これを「かいじゅう」と訳したのは、名訳だと思います。

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食事中におもちゃで遊ぼうとして止められたウィトゲンシュタインは、
お母さんを「継母」と呼びました。
けれど、「継母」と呼ばれようと、
わたしたちおとなは、社会で暮らしていくためのルールとマナーを教えていかなければなりません。

食事中におもちゃで遊ぶのはいけない。
トンカチと釘で壁に穴を開けて壊すのはいけない。
小犬をいじめて追いかけ回すのはいけない。
お母さんは、たしなめます。
人間は誰でも、自分の感情と欲求のままに、したい放題、
わがまま放題の王様ではないことを教えます。

しかし、自分を主張し、遊ぼうとするのを止められたマックスにとって、
その邪魔をする存在は、「継母」であり、もしかしたら「やまんば」にも見えるかもしれません。

が、オオカミのぬいぐるみを着ている今の彼は、
相手がお母さんだろうが、やまんばだろうが、逃げ出しはしない。
ひるまずに、
「I'LL EAT YOU UP!(おまえを たべちゃうぞ!)」
と言い返します。
自分を食べてしまうかもしれないやまんばに対して、
反対に「食べてしまうぞ」とやり返すわけです。

しかし、その当然の帰結として、まあ、夕食ぬきを宣告され、
寝室へ追いやられるという現実が待っています。
怒りさめやらず、ドアの向こうのお母さんをにらみつけているマックス。
けれど、次のぺージでは、意気消沈。

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すると、不思議なことが起こります。
寝室は彼の“ホーム・グラウンド”ですが、そのいつもと同じ日常的な場所が、
だんだん変わっていく。
木が「にょきり にょきり」とはえだして、
生い茂り、育ち、やがてルソーの描くジャングルのような森になる。
寝室が異界となるのです。

それは、日頃、子どもたちが行っている想像の世界の再現ともいえるでしょうか。
マックスは「ウッシッシ」とでもいうように笑い出し、しまいには踊り出しています。
こうして身近に作られた異界は、子どもたちにとっては親しみのあるところに違いありません。

その時点で彼はもう冒険に「行って」いるのかもしれませんが、
さらに船に乗って「1年と1日」をかけて航海しなければなりません。
そうして、「かいじゅうたちのいるところ(where the wild things are)」へ出かける。

そこへ着いたマックスは、かいじゅうの仲間たち(wild things)の王様になって、
まさにwildness(ワイルドネス=野性性)を解き放つように暴れ回って遊びます。
その数ページにわたって描かれる「かいじゅう踊り」は、
痛快な、なんとも楽しさにあふれる場面です。

この場面といい、お母さんへの「食べちゃうぞ」発言といい、この時期の子どもたちはマックスに共感し、惜しみない喝采を送るのではないでしょうか。
胸のすくようなカタルシスがある。

王冠をかぶったマックスは、大得意。
……ですが、絵の中にはどこか「不安」なニュアンスが忍びこんでいるようです。

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「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」

と、これは、作者のセンダックの言葉です(3)

ここでのマックスの現実は、
彼がやった「悪さであり、受けたお仕置きであり、そのお仕置きに対する彼の怒り」なんですね。
マックスは、母親に対する怒り(そして、もしかしたら自分自身に対しての怒り)を
かいじゅうたちにぶつける。
そこに「カタルシス」があります。
またそれは、「成長しようともがいて」の怒りでもある。
マックスは、かいじゅうたちを退治はしませんが、
“母親殺し”である昔ながらのドラゴン退治の、正統的な継承者であるでしょう。

母親に叱られ、一体感から切り離された佐伯一麦さんが、
浜田広介の「かなしみ」の世界へ向かったのに対し、
このマックスは、「怒り」をぶつけるようにして遊びまわる。

ここには、西洋と日本の違いもあるでしょうか。
しかし、佐伯さんの気持ちも、マックスの気持ちも、
日本人である筆者には両方わかるような気がします。

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センダックは言います。

「もしもマックスがいつまでもかいじゅうたちのいる島にい続けたら、この本を読む子どもはこわくなってしまったことでしょう」(3)

筆者は、ずっとい続けるのも楽しいような気が、半分します。
かいじゅうたちはどれも獰猛な顔をしていますが、どことなくいいヤツそうで、
いっしょに暮らしていくのも悪くないなと思わせます。

マックスがかいじゅうたちを征服したとき、「怒り」はおさまります。
しかし、彼らの王様に就任して、彼らに夕食ぬきを宣告できる身分になったとしても、
彼の「不安」は消えない。
どころか、「不安」は大きくなる。
というのは、つまり「かいじゅうたちのいるところ」は、
マックスの現実に十フィートも根をおろしている場所にあるということであるでしょう。

彼は、母親との一体感から旅立った勇敢な、そして孤独な冒険者です。
かいじゅうを支配して自由感を味わう。
しかし、自由とは、誰の指図も受けず──
ということは誰の保護も受けず、自分自身の行動や存在の責任を自分で負うということです。

自由は、半面、不安を伴う。
そこへ、「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、夕食の匂いが漂ってくる。

そうして彼が、また航海に「1年と1日」という物語の時間を費やして帰ったとき、
寝室に置かれた夕食はほかほかと、まだあたたかでした。
こうした矛盾を、子どもたちは実によく理解し、納得し、満足すると思います。

「さて、ここが肝腎なところなんですが、」
と、センダックは続けます。

「彼は「もう二度とあんなところへなんかいかない」とは言いません。
マックスは、きっとまた空想にふけりますよ。
しかし、他の子どもたちと同じように、いつもきまって、母親のもとに帰ってくるというのがいいところなんです。
ですからこの本は、人生は不安の連続だなどとは言っていません。
ただ、人生には不安な時もあると言っているのです。」
(3)

マックスのこの段階では、「行って帰ってくる」空想をくりかえす。
このくりかえしが大切なのでしょう。
2~4歳の子どもたちは、まるで練習をするかのように
「行って帰ってくる」ごっこをくりかえしていました。

そうして、どんなに孤独で、不安の連続である異界へ迷い込んだとしても、
彼は最後に「自分を最も愛してくれるだれかさん」のもとへ帰ってくる。
あの子うさぎが、必ず母うさぎにつかまえられて家の中へ帰ったように。

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夕食の置かれたラストの寝室の絵では、
マックスはオオカミのぬいぐるみのフードを半分脱いで、眠そうな、安心したような表情。
オオカミというよりも、子うさぎの横顔を見せているようです。

室内のようすは冒険する前と変わっていないのですが、色づかいが微妙に中間色に変わっていて、
それがゆったりと温かそうな雰囲気を醸し出しています。
この絵本では、全編を通して、お母さんは姿も顔も見せません。
読者の想像に委ねられています。
しかし、この寝室の絵の雰囲気には、お母さんもしっかり登場していて、
お母さんも物語で重要な役割を担っていることがわかります。

もしも、安心のできるこうした“ホーム”がなければ、
マックスは冒険の航海へ乗り出すことはなかったでしょう。
お母さんがあたたかな食事を作って待っていてくれるこうした“ホーム”があるからこそ、
次なる冒険──つまり、次なる成長へと踏み出すこともできる。

「かいじゅうたちのいる」場所(異界)へ、行って「帰ってくる」そのホームが描かれることで、
この冒険の物語は、子どもたちのこころをとらえて離さないのだと思います。

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が、しかし。
もしもこのとき、行ったきりで戻れなくなってしまったら……。
神隠しのように向こうの世界へ連れていかれたまんま、
つまり、マックスがかいじゅうたちのいるところから帰れなくなってしまったとしたら……。
ヘンゼルとグレーテルが魔女の森から抜け出せなくなったとしたら……。
小僧さんが、やまんばの棲む山から戻ってくることができなくなったとしたら……。

もちろん「行って」しまうことは、たえずそういうリスクを抱えているものなのですが、
「行って」しまったきり「帰ってくる」ことができない片道切符というのは、大変なことです。
不安というのは、時として“スリル”や“サスペンス”という言葉に言い換えることのできる、
冒険を彩る薬味(スパイス)です。
が、ここにはそれらを超える、存在的な不安があるような気がします。
 
そんな不安が、ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」(4)に描かれています。

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《引用・参考文献》
(1)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(2)マーガレット・W・ブラウン文、クレメント・ハード絵、いわたみみ訳「ぼくにげちゃうよ」ほるぷ出版
(3)ナット・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(4)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
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f0223055_1524287.gifビルボ・バギンズとフロド・バギンズは、行って帰ってくる


J・R・R・トールキンの「指輪物語」と、その前史ともいうべき「ホビットの冒険」
どちらも、冒険を描いたファンタジーに違いないのですが、
それぞれの主人公、フロド・バギンズとビルボ・バギンズは、
どちらもおおよそ冒険にはふさわしくないキャラクターであるところがおもしろいと思います(1)(2)

ことに「ホビットの冒険」は、竜を倒し、宝を手に入れるという典型的な骨格をもった冒険譚です。
にも関わらず、竜を倒す勇猛果敢なヒーローは別にいて、
主人公ビルボは、冒険の主人公らしい勇壮な仕事をするというわけではありません。
どっさり宝を持ち帰るということもしません。

ビルボ、そして甥のフロドは、どちらも温厚な平和主義者。
どちらかといえば家にいて庭の手入れをする方が好き。
歌を作ったりするのが好きで、暴力は見るだけでも怖じ気づいてしまうというタイプ。
(それでいて、いざというときに勇気とか魂の気高さが垣間見えるところがミソですね)。

読者にも親しみやすいそんな彼らが冒険に巻き込まれていくうちに、
読者もまた、物語に巻き込まれてしまうようです。

その 「ホビットの冒険」のサブタイトルが、「行きて帰りし物語」です。
(原題は、“ The Hobbit, or There and Back Again”)

冒険といえば、冒険を求めて「行く」物語だと思いがちですが、
彼らは行った後に、また「帰って」くるのです。

「指輪物語」の冒険の最中、作者はサムという登場人物にこう言わせています。

……(冒険の物語の)めでたしめでたしというのは、
家に戻って来て、そして何も変わりがないってことを見つけるこってすからね、
すっかり同じっていうわけにはいかなくってもね……」
(1)

スリルと波乱に満ちた冒険の物語は、
退屈な日常から逃れることのできるエンターテイメントでもあります。
しかし、それだけではない。
冒険はわたしたちの心の内的な欲求から必然的に生まれくるテーマでもあるでしょう。
彼らは冒険に行って、冒険を乗り越える。
そして行ったきりの片道切符ではなく、再び家に「帰って」くるのです。


f0223055_1525645.gif子どもたちは、行って帰ってくる

この「行って帰ってくる」ということは、子ども向け文学の大きなテーマのひとつではないかと、
「ホビットの冒険」の訳者でもある児童文学者の瀬田貞二さんは書かれています(3)

「行って帰ってくる」動作や遊びは、 子どもたちが日常的にくりかえしていること。
子どもたちは、ひとつの場所にじっとしているということはありません。
どこかへ行って、また戻る。
そうした単純な運動として、身体的にもなじみやすい。
そしてそれは、子どもたちの「発達しようとする頭脳や感情の働き」にも即していて、
受け入れやすい形なのではないかというのです。

そして瀬田貞二さんは、昔話や創作作品の例をあげ、
ことがあって、また元に戻るという物語の構造について言及しています。

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この文字通りの「行って帰ってくる」遊びが、子どもたちの日常でよく見かけられます。

2~4歳ごろでしょうか、
「行ってきまーす」と言って、部屋から出たかなと思うと、
すぐに「ただいまー」と戻ってくる。
「どこへ行ったの?」ときくと、「お買い物」などと答える。

こうした遊びが、保育士さんたちの研究会で話題になったそうで、
そのようすを、汐見稔幸さんが書きとめられています(4)

「『どうしてイッテキマーチュが好きなのかしらね』
『多分ね、親との心理的距離が少しとれるようになって、親や大人から離れても大丈夫という感覚が育ってきたからじゃないかなあ。
大人のまねをしながらその自立心を表現するんだと思うんだけど、でもそんなに1人で遠くへはまだ行けない。
すぐ不安になって安心できる世界へもどってくるんだけど、少し1人で難れるスリルが楽しいんじゃないかな』」


なるほど、出発してはまた戻るという「プチ冒険」の遊びをくりかえしながら、
子どもたちはほんとうの出発への練習をしている──自立への準備をしているというわけですね。

ところでこの話し合いの中で、
「行って帰ってくる」遊びをする子と、しない子の2通りがあることが指摘されています。
そうした遊びをしない子は、わりあい、母親との親子関係のきずなが薄く、
離れていても、それほど不安に思わないのではないかという意見も出されています。

が、筆者は、必ずしもそうではないように思います。
きずなが薄く母子関係に不安を感じている子ほど、
逆にしがみついて離れたがらないということがあるのではないでしょうか。

安定した親子関係のきずなが築かれてはじめて、子どもは離れることができる。
親という安心できる港があるからこそ、
子どもたちの小さな船は荒れる外海の冒険へも出航することができます。
もしも帰るべき港が不安定で、不安を感じさせるような場所であれば、
子どもたちはしがみつくように港から離れようとはしない。
ほんの浅瀬の距離でも船を出そうとしなくなります。

これは、医師でもあるJ・ボウルビィが詳細な分析を通して指摘していることでもありました。
子どもは愛着の対象である家族や保育者との信頼関係を安全基地とすることで、
前線へと足を踏み出すことができるというのです(5)

発達的には、1歳半頃までに、
自分を甘えさせてくれる、自分を受け入れてくれる信頼関係が成り立つことで、
自立へと続く探索活動につながっていくとされています。

が、これは年齢に関係ないのかもしれませんね。
小学生になっても、思春期になっても、はたまたおとなになっても、
ほんとに自立するためには、 信頼関係という依りどころがないとだめなのでしょう。

そうして子どもたちは一歩を踏み出し、「行って帰ってくる」遊びをする。
「行って帰ってくる」物語を好む。

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探索活動という面では、子どもたちは生まれながらの冒険者です。
最初は、寝たまま。
手を伸ばしても数10センチの世界です。

目は見えていても、
生後2~4か月ごろまでは、目の焦点をじゅうぷんには合わせることもできないので、
視覚の範囲は限られています。
が、いろんなものを見てますよね。
目で追ったり。
いろんなものをさわったり、しゃぶったりもする。

「はいはい」で移動が可能となると、世界は、10メートル四方へと拡大する。
(もっとも10メートル四方なんて、これは広い部屋のある家の場合ですが。)
そして移動しながらの探索が開始されます。
ゴミを拾ってはなめまわし、何かを拾ってはなめまわし、たしかめる。

発達心理学のシェーファーによると、
6ヶ月の赤ちゃんは、見なれたものと見なれないものを自分で区別できるにもかかわらず、
好奇心のおもむくまま、無差別に近づいていくのだそうです。
ところが8ヶ月になると、見なれないものに対して警戒心が生まれる。
そして1歳児では、なじみのないものを確かめようとするとき、
母親の方を振り向くという態度が見られるといいます。
母親の反応を見て、それが危険なものか、安全なものかを確かめようとするんですね。

ひきだしをあけて、冷蔵庫をあけて、何かを発見。
化粧品をこぼしたり、マヨネーズをしぼったり、電気のスイッチをいじったり。
彼らのこうした好奇心と冒険の成果は、
いやー、われわれおとなには単なるイタズラとしか見えません。
このとき、その活動のほとんどが、母親のいるところで行われるというのはおもしろいと思います。

今井和子さんが、1歳~2歳半ころの子どもたちの家庭での探索活動を調べたところ、
その活動は、台所、居間、鏡台の周辺で行われることが圧倒的に多かったといいます。
つまり、母親がいつもいるような場所で、子どもたちは小さな冒険を重ねる。
またその行動は、身近なおとな(特に母親)のまねをすることが多く、
おとながよく使うものを好んでさわりたがるという特徴があるんだそうです(6)

今井和子さんは、探索行動は、「母親と子どもの親密なかかわりを軸にひきおこされる」といいます(6)

そうして、あちこちをひっかきまわして、そんな一騒動をひきおこしておきながら、
何か発見があると、母親を呼んでその成果を見せるということもあります。
見てもらいたいんですね。
高級化粧品をそこら中にふりまき、あたりをベタベタにして暴虐の限りをつくした末に、
その犯行現場(彼にとっては成果)をニコニコしながら母親に見せる
──なんていうことをするのもこの頃です。

やがて母親の反応を確認しながら、やっていいことか、いけないことかを学んでいく。
母親のまなざしを確かめながら、未知のものに触れ、
母親のまなざしを確かめながら、冒険をくりかえす。
それがやがて「行って帰ってくる」遊びにもつながるのでしょう。


f0223055_1642414.gif子ウサギは、行って帰ってくる

この「行って帰ってくる」遊びに見られるような、
母親(保育者)と子どもの心理的な距離感がうまく描かれてるなあーと思う絵本に、
マーガレット・W・ブラウン「ぼくにげちゃうよ」(7)があります。
(この物語はストーリーテリングとしても語られていて、「ストーリーテリングについて」(8)の小冊子にも
『いたずらこうさぎ』として紹介されています。)

子うさぎが、あるとき家出をしたくなって、
「ぼく、にげちゃうよ」と母うさぎに言います。
すると、母うさぎは、“ぼく”をつかまえちゃうという。
そこで、子うさぎは魚になって「ぼく、にげちゃうよ」。
すると、母うさぎは、漁師になって、 “ぼく”をつかまえちゃうという。
子うさぎが山の岩になって逃げると、母うさぎは登山家になる。
小鳥になれば小鳥が止まる木の枝に、
船になれば帆を張る風になって、そのたんびに追いかけると言います。

絵本では、お母さんうさぎが、ニンジンを餌にした釣り竿をもった漁師に扮したり、
綱渡り嬢になったり、風を起こす雲に変身したりという絵がなんとも楽しい。

そして結局子うさぎが、
「子どもになって、家の中ににげちゃう」
というと、母うさぎは、
「お母さんになってその子をつかまえて抱きしめますよ」。
そこで、子うさぎはどこにも出かけませんでしたというはなしです。

子どもは成長とともに、もっと遠くへ行きたい、冒険をしたいと願うわけです。
それまでは、母親のまなざしのもとで小さな冒険を重ねていたのが、
母親からもっと離れて外へ出ていきたいと思うようになる。
自立したいと思う。
けれど、まだ一人では不安で、すぐに母親のもとへ帰りたくなる。
母親につかまえてもらいたいとも思うんですね。

鬼ごっこをして逃げるのだけれど、鬼が追ってこないとさびしい。
鬼につかまえてもらいたいという気持ちがある。
揺れ動く、そうした矛盾した気持ちが、「行って帰ってくる」遊びにもあるのだと思います。

筆者は、小学生の頃、小さな家出をしたことが何度かありました。
たいていは、お腹がすいて、夕食どきには帰ってくるというたわいのないものでしたが、
ある日の夕方、衝動的に飛び出したことがあります。

そのときは、本人もわけがわからない。
家族はもっと、わけがわからなかったでしょう。
しかし、結局、飛び出してはみたものの、近所の資材置き場になっている空き地の土管で、
真っ暗な夜の中をぼおーっとしていただけ。

今、考えてみると、とにかく逃げ出してしまいたい気持ちと、
その一方、家族が探しにきてくれるのを待つような、
ほんとに探しにきてくれるかどうかを試すような、そうした気持ちがあったのだと思います。

なんとも幼い気もしますが、
「ぼく逃げちゃうよ=つかまえて」ゲームをしていたのかもしれません。

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松井るり子さんが、「ごたごた絵本箱」(9)という本で、この「ぼくにげちゃうよ」の絵本を取り上げています。
そしておもしろいことに、この母うさぎが、昔話の「牛方と山姥」のやまんばみたいに見えると書かれているんです。

つかまえにくるのも程度の問題で、こんなにしつこかったら息がつまってしまうというんですね。
どこへ逃げても必ず追いかけてきて、自分より大きな存在となってつかまえる母うさぎ。
絵本では、いかにもやさしそうな顔に描かれている母うさぎですが、
なるほど、そう考えてみると、たしかにやまんばに見えるかもしれません。

母うさぎが、やさしい母親となるか、やまんばとなるか。
それは、子どもたちの成長の段階によって、
その心の揺れ動きによって変わってくると筆者は思います。

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《引用・参考文献》
(1)J・R・R・トールキン、瀬田貞二・田中明子訳「指輪物語」評論社
(2)J・R・R・トールキン、瀬田貞二訳「ホビットの冒険」岩波書店
(3)瀬田貞二「幼い子の文学」中公新書
(4)汐見稔幸「ことばを通じて探る心の世界一保育の場での言語発違研究法」~保育の科学「別冊・発達6」1988年8月・ミネルヴァ書房・所収
(5)ジョン・ボウルビィ、黒田実郎・岡田洋子・吉田恒子訳「母子関係の理論」岩崎学術出版社
(6)今井和子「自我の育ちと探索活動」ひとなる書房
(7)マーガレット・W・ブラウン文、クレメント・ハード絵、いわたみみ訳「ぼくにげちゃうよ」ほるぷ出版
(8)ユーラリー・S・ロス、山本まつよ訳「ストーリーテリングについて」子ども文庫の会
(9)松井るり子「ごたごた絵本箱」学陽書房

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f0223055_11565730.gif人はムーンウォークでは歩かない



紙芝居の舞台は、一般的には右利きの人用に出来ています。
画面を右手でぬくように出来ている。

舞台を使わないのであれば、物理的には、右へぬいても、左へぬいても、
あるいは上へぬいても、下へぬいたってかまわない。
……とは思うんですが、観客に向かって右の方向へぬくのが一般的なやり方で、
やはりこれが基本となります。

演じ手から、観客に向かって右の方向へぬく。
これはつまり、観客側から見れば、画面に向かって左(←)、下手の方向ですね。
そのため、ぬくとき、舞台上に見える画面は、上手から下手へスライドしながら
舞台外へとハケて行くことになります。
映画などの映像でいえば、左方向へのワイプアウトという画面転換。

紙芝居の絵では、このことを頭に置いておかなければなりません。

▼図01
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たとえば、人が歩いている場面を横向きで描くとき。
これが右向き(上手向き)だと、
画面をぬく場合、後ろ向きに歩くように見えてしまいます (図02) 。
ダンスのムーン・ウォークだったら別ですが、通常では不自然です。

それが左向き(下手向き)なら、
無理なく、自然に歩いている感じを出すことができるのです(図03)。

▼図02
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▼図03
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歩く場面に限りません。
走る。
とぶ。
ひっぱる。
ものが転がる。
すべる。
などなど、横へ移動するような場面を描くときには特に、
左(下手)向きにした方がよいということになります。

そうしてまた、どんな場面でも、画面の全体的な流れとしては、
右から左へという下手向き(←)。
観客の視点も右から左へ(←)。
紙芝居の絵を描くときには、たえずこの流れを意識しておく必要があります。

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進行方向が、左向き(←)。
これは、たまたま画面を裏から右手でぬくという動作が、
左向きへ進行させることになっただけなのかもしれません。
が、しかし、この「左向き」ということは、いかにも日本の文化らしいようにも思われます。

一般に、西洋の文化では、反対です。
進行方向は「右向き(→)」が多い。
西洋の影響を受けている現代では、右へ進む感覚が日常に浸透しているようです。

たとえば、カセット、CD、MD、ビデオ、DVDなどなどの録音・録画機器。
前へ進む再生ボタンのマークは▶。早送りのマーク(▶▶)も右向きですね。
進行方向は、左から右へ。
逆に後退する巻き戻し(◀◀)は左向き。

こうしたテクノロジーを生んだ科学や数学の分野はみんな右向き(→)。
数式や化学式の表記も、左から右へ。
グラフなども、起点を左にとり、右へ展開するように作図することが多い。
一般的には、右がプラスの方向で、左がマイナスの方向です。
折れ線グラフや棒グラフも、時間などの経過とともに、
たいてい右の方向へ進んで展開していきます。

そのため、「右上がり」や「右肩下がり」などの言葉が
わかりやすいイメージとして、経済や日常のいろいろな場面でも使われます。

ウェブの世界でも、進行方向は右向き(→)ですね。
ネットの画面は、右向きに進行する。
ボタンの▷印は「NEXT」を意味し、◁印は「BACK」を意味します。

これには、文字を横書きにする影響も大きいでしょう。
現在の日本では、横書きをするとき、文字送りは基本的には、左から右へ。
そして行送りは上から下へと進み、上下にスクロール。
今書いているこの文章も左から右へと綴り、このブログも左から右へと進みます。

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西洋で生まれた心理学でも、“進む”のは、やはり左から右への方向(→)とされるようです。

ドイツの心理学者、ミヒャエル・グリュンワルドによれば、空間を象徴的に見ると、
画面の左側は「内面」「過去」「母性」
それに対して右側は「外界」「未来」「父性」
をあらわすことになります。

彼が行った実験テストはたとえばこんな具合です。
被験者に小さな円盤を渡して、長方形の紙を示す。
「この紙の領域があなたの人生だとすると、現在のあなたはどこの位置にいますか?」
と尋ねる。
さらに質問を重ねると、大部分の人々が次のように考えていたことがわかったといいます。

つまり、左下を「始まり」「始源」と考え、
そこにいた自分は幼く、若かった。
そして右上を、実りある人生の「目標」「終わり」「成果」と考えていた。
左下から始まり、時間の経過とともに成長するに従って、右上へと伸びていく。

そこからグリュンワルドは、左下から右上へと伸びる対角線を「生命のライン(生命線)」と呼びます。

▼図04:生命のライン(生命線)
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こうしたテストを細かく積み重ねた結果、作り上げたのが下図のような空間象徴の図式です。

▼図05:グリュンワルドの空間図式
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スイスの心理学者、カール・コッホは、筆跡心理学(文字の書き方で性格や心理を分析する)と、
このグリュンワルドの空間図式をもとに
「バウム・テスト」を体系化し、提唱しました(1)

バウム・テストは「樹木画テスト」とも呼ばれ、
被験者に、ただ「1本の実のなる木」を描いてもらい、
その絵に投影された心理状態を読み取るという心理テストです。
たとえば、画面の右側に枝や葉が豊かに繁っているような特徴の木を描けば、
外向的なのではないかなどと分析・推理することになるわけです。

「バウム・テスト」は、現在、広く臨床の場で応用され成果を得ているもので、
それはつまり、その理論背景となっているグリュンワルドの象徴図式が実証されているといえます。

横軸だけを取り出してみれば、意識的・無意識的に、“進む”のは右方向(→)で、
反対に“戻る”のは左方向(←)という感覚。
時間軸でみても、進む未来は、右方向(上手)の先にあることになります。
つまり、“明日”は右にある。

▼図06(グリュンワルドの空間図式をもとに、横軸だけを取り出して作成)
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ユング派の分析家であり、
生死にかかわるような重篤な病気と闘う多くの子どもたちと接してきたスーザン・バッハは、
絵の中の向きの重要性について述べています(2)
彼女は臨床の場で、重病の子どもたちが描いた絵を通して子どもたちの心と向き合ってきました。

子どもたちが自由に描く絵の中で、たとえば人物や動物、車などの動的なモチーフが
左方向へ向かったり、左へ曲がるような場面が描かれるとき。
このとき、その子の病態や生活は、
文字通り「シニスター」な局面へ入っていくことを暗示しているといいます。

「シニスター(sinister)」。
──これは「左」を意味するラテン語「シニステル(sinister)」が英語となった言葉で、
同じく「左の」を意味する形容詞です。
と同時に、「不吉な」「縁起の悪い」「邪悪な」「気味の悪い」「非業の」という意味を
併せ持つ言葉です。

後述しますが、特にヨーロッパでは昔から「左」は、不吉なことを意味しました。
つまり左へと向かうことは、
「疑わしいものへ、暗いものへ、無意識へ、
知らないもの(今はまだ知られていない、も含む)へと進んでいることを示す。」
(2)
というのです。

対して、モチーフが右方向へ向かったり右へ曲がる場面を描く場合。
このとき、子どもは、手術や薬物治療が功を奏して、一時的であれ持続的であれ回復に向かい、
「生への帰還」へ、肯定的な状況へと進むことが多いといいます。
つまり、左方向(←)は否定的なマイナスであり、右方向(→)は肯定的なプラスである。

たとえば、当時7歳の急性リンパ芽球性白血病の男の子が描いた黄色い郵便バスの絵。
バスの客席の窓は白く塗られ、乗客は誰もいないのか、空っぽに見えます。
運転手が、ただひとり。
そのバスは左に向かって、坂を下っているところ。
ストップの標識のある坂の途中で停まり、
運転手は、自転車に乗った、赤く塗られた人物と何やら話し合っている。そんな絵です。

それがやがて、化学療法を行うことで病状が改善されていく。
そうした後に描かれた絵では、
黄色い郵便バスは今度は右を向いて坂を上っているところです。
客席の窓には人々が描かれていて、本人によれば、遠足で農場に行くところなのだそうです。

──こうした例が、彼女の著書(2)にいろいろと報告されています。

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ただ、スーザン・バッハは、何千枚という子どもたちの絵と向き合い、
観察する経験から知り得たこうした傾向を、そのまま一般の絵に適用させて考えることには
警告を発しています。
絵は、病いの苦しみを背負った子どもたちが、治療者との信頼の中で、
たとえそれが何気ない戯れであったとしても、生命(いのち)を込めるようにして描かれたもの。

たとえば、ふつうに子どもが気まぐれに左向きに歩く人物を描いたからといって、
それを不幸の兆しだなどと即断することはもちろん出来ないでしょう。

しかし、左右の向きの問題に関して言えば、スーザン・バッハの指摘する傾向は、
グリュンワルドの提示した象徴の図式と大体において一致していることは事実です。

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さて、ところがです。

これらに対して、抽象画で知られるロシア出身の画家、カンディンスキーは、
ニュアンスは異なりますが、ほぼ逆の感覚を述べています。
彼はその著作「点・線・面ー抽象芸術の基礎」(3)で、
画面の《左》は、「稀薄といった観念、軽やかさとか解放といった感じ、さらには自由の感じ」のイメージを
呼びさますというのです。
《右》はその逆、つまり重く、密度が高く、束縛的であるといいます。

そして文学的比喩をまじえ、こう語ります。

「《左》に近づく──自由を求めて出る──のは、遠方をめざす運動。
人間は、自分の住み慣れた環境から遠ざかってゆく。
彼は、自分の上に重くのしかかり、自分の運動をまるで石のように重苦しい雰囲気によって
妨げている慣習形式から解放されて、
しだいに胸一杯に大気を呼吸するようになる。
彼は、《冒険》をめざしてでかけるのだ。」

「《右》に近づく──束縛を求めてゆく──のは、家へ戻る運動。
この運動には、一種の疲労が伴う。それがめざすのは休息だ。
《右辺》に近づけば、それだけ、この運動は生気を失い、緩慢になる。
──と同時に、右の方へ近づいてゆく形態の緊張はだんだんと弱まり、
運動の可能性もしだいに制約されてくる。」
(3)

こうした感覚を持つに至った過程や理由は述べられていません。
また、それまではっきりと意識したことはなかったと言います。
つまり、無意識。
が、しかし、彼自身が作品を描くときには、おおいに影響があったと思われます。

▼図07:カンディンスキー「馬上の二人」1907年
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カンディンスキー初期の頃の作品。
左へ向かう二人は、確かに重苦しい空気から逃れて、
ロマンティックな解放感に満ちた空気を胸一杯に吸い込んでいるように思われます。

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ユング派の分析家であるイングリット・リーデルはその著「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」(4)で、
上述のグリュンワルドやコッホ、スーザン・バッハらの空間象徴の理論を紹介し、
一般の人や患者が描いた絵画に限らず、歴史的な絵画を取り上げ、分析しています。

そこで取り上げられている一例が、デューラーの有名な版画「騎士と死と悪魔」です。

▼図08:アルブレヒト・デューラー「騎士と死と悪魔」1513年
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これは、キリスト教信者の救済を寓意のテーマとして、
その信仰者の姿が騎士として描かれているのだといいます。

人生には必ず終わりがあり、日々、刻々とそのリミットに向かっていることを示す砂時計。
それを手に、
「メメント・モリ(死を想えよ)、おまえの残り時間はたったこれだけさ」
とでもいうように嘲笑いつつ並走する「死」神。
ヤギに似た異形の「悪魔」。
道半ばで倒れた先人の遺したものか、道に転がる髑髏(どくろ)。

これら邪魔をしようと狙うものたちに動ぜず、騎士はただ独り(忠実な馬と犬を友としつつも)、
ひたすら行く道の先を見つめて敢然と歩を進める……。

ここでは騎士が左へと歩を進めています。
グリュンワルドらによれば、左への方向は過去への退行だったり、
内的な世界への深い沈潜を意味する。

そこでイングリット・リーデルは、
「騎士の駆ける方向は左の集合的無意識のなかへといたる線に、内向性へと、イニシエーションへと、
死へといたる線に従っている」

というわけです(4)

意識の内奥へと進む。
そして、割礼や抜歯、バンジー・ジャンプなど、古来からの通過儀礼(イニシエーション)が
苦痛や危険を伴う死を体験し、そこからの再生を意味したように、内的な死へと至る。

その地点に至ることではじめて、上方に険しくそびえ立つ岩山の向こう、
騎士の生の目標である「天上の城」、キリスト教信仰の目標である「天上のエルサレム」への道を
たどることが出来るというんですね。
そう考えると、粛々と歩く騎士の峻厳な表情もわかるような気がしてきます。

一方、カンディンスキーは、「馬上の二人」で、左に進む馬の歩みを
ロマンティックな筆致で描いていました。
そんな彼であれば、左へ行く騎士を違う解釈でながめることになるでしょう。

あの「憂い顔の騎士」ドン・キホーテが一途の想いから、
「遠方の」理想を目指す 「冒険」へと旅立ったように、
「石のように重苦しい雰囲気によって妨げ」ようと
右方向へ引っ張る「死」や「悪魔」をふりはらい、
騎士は独り荒野を進み、はるか「遠方」に見える天上の城を目指す。

そう考えると、影ができて右半面が暗く重い
──つまり、光は左、騎士の前方にあって騎士を照らし導いているという
明暗の対比の効果も自然に思えてきます。

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おそらくデューラーの作品に想を得て、390年後、
クリムトが「人生は戦いなり」という作品を描いています。

▼図09:グスタフ・クリムト「人生は戦いなり(黄金の騎士)」1903年
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こちらの騎士も左方向を向いている。
騎士は直立不動で、歩く馬の脚づかいも不自然のように見えますが、
スタイリッシュなシルエットがデザインとして効果的に際立っていて、強い印象があります。

こちらの左向きは、カンディンスキーの論の通り、
自由と理想を求めて前向きに「遠方をめざす」孤高の騎士の姿を描いているように
筆者には思われるのですが、さて、どうでしょう?

が、逆に、イングリット・リーデルの論のように、いかにもクリムトらしく、
タナトス(死)へ向かっていると解することも出来るかもしれません。

左方向(←)へ向かうのは、内へ向かい、過去へ向かうことなのか?
それとも反対に、左方向(←)へ向かうのは、外へ向かい、未来へ向かうことなのか?

すると、たとえば、左右を反転させた次のような作品は、どう感じられることになるでしょう?
あなたはどのように感じますか?

▼図10:アルブレヒト・デューラー「騎士と死と悪魔」を左右反転させたもの
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たとえばまた、ビートルズのアルバム「アビーロード」の有名なジャケット。
オリジナルではもちろん、ビートルズの4人は右へ向かって横断歩道を渡っています。

がしかし、もしも逆向きに、左へ向かっていたとしたらどうでしょう?
印象はどう変わるでしょう?

▼図11:The Beatles「ABBY ROAD」ジャケット
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▼図12:The Beatles「ABBY ROAD」ジャケットを左右反転させたもの
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右へ向かって歩いていた4人は、“明日”へ向かっていたのでしょうか?
“昨日(yesterday)”へ向かっていたのでしょうか?

あるいはまた、発表当時は解散寸前のバンド・グループとして
「The End(アルバムの中の曲)」へ向かっていたということなのでしょうか?

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絵本作家の長谷川集平さんは、「絵本作りトレーニング」(5)の中で
やっぱり空間象徴に触れています。

カンディンスキーが、左が「外」で、右が「家(うち)」という感覚を持っていたのに対し、
長谷川さん自身は、反対に、左が「家(うち)」で、右が「外」という感覚を持っているそうです。

もしも、図11のビートルズが右へ向かって歩いているところをカンディンスキーが見たとしたら、
「彼らは休息を求めて、終息に向かっている」
「彼らは家へ帰ろうとしている」
などと感じたかもしれません。

もしも、同じジャケットを長谷川集平さんが見たとしたなら、
「彼らはそれでもやはり明日へ踏み出そうとしている」
と感じるかもしれません。

長谷川集平さんの感じ方はつまり心理学者たちの論の通りです。
長谷川さんは、一般的にもそうした傾向があり、
カンディンスキーの感覚はむしろ例外ではないかといいます。

つまり、左への方向は消極的、内向的。
右への方向は積極的、外向的。
であるから、

「……ということは絵本の中では左から右の動きがとっても生きるわけ。
ということは左開きの絵本のほうが、
心理的には積極的な動きのあるものになっていくんではないかと、ぼくは仮説をだしてます。
証明のしようがないですけど(笑)。」


というわけです(5)

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絵本に限らず、本には「右開き(右綴じ)」と「左開き(左綴じ)」があります。

文字を縦書きにすると、行送りは右から左へと進む(←)。
本文が縦書きの「縦組み」だと、ページを右にめくって左方向へと進む(←)ことになり、
「右開き」の本となります。

中国の漢字にならって表記するようになった日本の文字は縦書きが基本。
だから教科書の中でも、「国語」の教科書は右開きですね。
伝統的な絵草紙などの冊子や、新聞も右開き。日本のマンガも右開きです。

対して、文字を横書きにすると、文字送りは左から右へ(→)。
本文が横書きの「横組み」だと、ページを左にめくって右方向へと進む(→)ことになり、
「左開き」の本となります。

ヘブライ語やアラビア語などを除けば、
西洋の文字は、英語や仏語、ギリシア語などなど、左から右へと綴る(→)横書きです。
数字や化学式などの表記も同様。
そのため、教科書の中でも、「算数」「理科」や「英語」の教科書は左開き。
洋書は一般的に左開きで、欧米のコミックも左開きです。

▼図13
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日本の文字は縦書きにも横書きにも出来るので、本や絵本は、どちらかを選んで作る。

このとき、右方向(→)へ進む「左開き」の方が、心理的・生理的には、
より勢いのある積極的な展開に合っているかもしれないと長谷川集平さんは言うわけです。

もしもこの仮説通りだとすれば、右開きの本や絵本、マンガなど、
左向き(←)に進む物語の進行は、
ダイナミクスなアクティブさに欠けた、消極的、内向的な傾向があるということになりますね。

この左向き(←)に進むというのは日本の伝統でもあります。
絵草紙や絵巻物、そして紙芝居もまた、物語は左方向(←)へと展開していきます。

これらの物語もまた、消極的、内向的な傾向を持っているのでしょうか?
これは、母性的ともいわれる日本文化を反映しているということなのでしょうか?

が、しかし。
どうなんでしょう?
この仮説は右脳・左脳など、ヒトの生理的な性向に基づくものなのでしょうか?
社会や文化を異にしても、人類に共通するものなのでしょうか?
証明のしようのない問題かもしれませんが(笑)、考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)C.コッホ、林勝造訳「バウム・テストー樹木画による人格診断法」日本文化科学社
(2)スーザン・バッハ、老松克博・角野善宏訳「生命はその生涯を描くー重病の子どもが描く自由画の意味」誠信書房
(3)カンディンスキー「点・線・面ー抽象芸術の基礎」~西田秀穂訳「カンディンスキー著作集2」美術出版社
(4)イングリット・リーデル、城眞一訳「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」青土社
(5)長谷川集平「絵本作りトレーニング」筑摩書房
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「引き」から「受け」へと変わるとき


3、「演じ手の画面をぬく間」について

出版紙芝居、長野ヒデ子脚本/絵「はぶらしちゃんと」(1)は、
歯ブラシのはぶらしちゃんが旅をする物語です。
はぶらしちゃんは、歯みがき嫌いの人間の男の子、まあちゃんの手から逃亡を企て、
空をビューンと飛んでいく。
そして、鳥や動物たちと出会うことで、彼らがくちばしや歯をケアするしくみを学んでいきます。

最初にカラスと出会い、次にカバと出会い、そして……。

「……はぶらしちゃんは、ビューンと とんで とんで とんで、
ワニさんの せなかに ゴツン!」


ここの箇所をそのまま読んでも、それはそれでいいかもしれません。
が、ここで「間」を使うと、おもしろさの伝わり方が違ってくることも確かです。

「はぶらしちゃんは、ビューンと とんで とんで とんで……」の後にちょっとした「間」を入れる。
すると、その「間」のあいだに子どもたちは、
「え? はぶらしちゃんは、飛んで今度はどこへ行くの? 誰に会うの?」
と、あれこれ考えるようになります。

昔話でもおなじみの「くりかえし」のパターンですね。
たとえば「桃太郎」では、犬、さると出会いがくりかえされることで、
次も誰かと出会うに違いないぞと聞き手に予感させます。
そして次は誰に出会うのだろうかと予想させ、興味を引きつける。

そうした予期(予感・予想)や興味を、「間」をとることによって倍加させ引き延ばすわけです。
「はぶらしちゃんは次も誰か動物のところに行くんだな、きっと」
「今度は誰が出てくるのかな?」
と、子どもたちは想像をふくらませます。
「間」の想像を促すはたらきでもって、緊張を引き延ばし、興味を引っ張る。
こうした引き延ばし作戦の「間」については、
「クイズ$ミリオネア」司会のみのもんたさんの例などなど、
これまで見てきた通りです。

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ちなみに、「間」とは違いますが、
1990年代あたりからテレビ番組で見られるようになった「CMまたぎ」
にもちょっと似たはたらきがあると思います。

たとえば、クイズの問題を読み上げたところで、「答えはCMの後で」と言ってCMに入る。
そのあいだ、視聴者は正解が何なのか、ああだ、こうだと考えて、気をもたされ、じらされます。
興味を引っ張り続けられるわけです。

バラエティ番組などの進行でもこうした手法が使われますね。
これからどう展開するか、何が登場するか、という途中のところでプツンと切ってCMに入る。
たとえたいした内容があるわけでないとわかっていても、
視聴者は気になってCMのその後を見続けてしまうことになります。

もっとも、最近はあまりに頻繁にこのテが使われるため、視聴者は少々食傷気味かもしれません。
番組やドラマが山場を迎えたところでプツンと切ってCMに入るので「山場CM」とも言われますが、
こうした「山場CM」は、興味を引き伸ばして引きつける一方で、
安易に使われすぎるため、最近では、視聴者からの好感度が低いという調査もあるようです。

昔の街頭紙芝居でも、同じような手法が使われていたといいます。
物語が佳境となり、さあ、いよいよこれからどういう展開になるかと期待させておいて、
「この続きはまた明日」と打ち切る。
観客である子どもたちは、次の日も見たい気持ちにさせられる。
おあずけを食って、じらされるわけです。

まあ、これは伝統的とも言えるでしょうか。
寄席で毎晩続き物が演じられていた頃の落語や講談などでも使われていたそうです。
さあ、これからどうなるかという最高潮の場面で、
「この続きは明日申し上げます」
などと、途中でぶつんと打ち切って終わりにする。
「山場CM」といっしょです。

週刊誌や月刊誌などのマンガや小説の連載も同様のやり方をします。
いよいよクライマックスというその直前で「つづく」になる。
緩和出来ないまま、緊張が続く状態。
おあずけを食った読者は、これからどうなるのだろうかと緊張を引っ張られ、
興味を引かれ続けるままに、次回の連載を待つことになります。

途中で切られたり、あいだを開けられるとその先を知りたいと願うのは、
ひとつには、わたしたちに物語を好む本能的な心理があるのでしょう。

たとえば、TVや新聞や雑誌をにぎわすニュースでも、三面記事でも、
「起承転結」の「起承転……」までしか報道されていない宙ぶらりんの状態だと
気になってしかたがありません。
真犯人が見つかった。関係者が謝罪した。問題が解決した。
など、どんなかたちであっても、ひとまずの決着を知ることで、
そこにひとつの物語の完結を見てホッとしたりする。
何らかの結果がわかるまで、その先を知りたがる興味が続くことになります。

「間」をあけることは、それがたとえわずかな時間であっても、
そうした興味の緊張を引っ張るということでもあります。

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さて、はぶらしちゃんは、次は誰に出会うのか? 
そうした興味を引っ張る「間」の後で、
「ワニさんの せなかに ゴツン!」
と告げられます。

実は、先に説明しなかったのですが、このくだりは、場面が変わるところでもありました。
つまり、
「ワニさんの せなかに ゴツン!」
のところで、
パッと場面がぬかれて次の場面、ワニが観客の目に飛び込んでくる。


▼図1 「はぶらしちゃんと」(6場面)より、模写。(1)
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「文章を読む(語る)間」と、「画面をぬく間」が連動して、
「間」のはたらきをより劇的にするんですね。
紙芝居では、画面をぬくというこの場面転換のシステムが、独特のはたらきをします。

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これからどうなるかと想像させ、興味を引っ張る画面。
それを受けて、結果を示す画面。
この2つを、絵本ではそれぞれ、「引き」「受け」と呼んでいます。

たとえば、笹本純さんが「絵本の方法~絵本表現の仕組み」(2)で、紹介している例。
笹本純さんは同書で、「引き」を、

「読者にページをめくって次の画面を見たいという欲求を抱かせるような画面の作用」

と、説明しています。
下の絵は、その「引き」の場面です。


▼図2:引き 「ノンタンのたんじょうび」(16~17頁・見開き)より、模写。(3)
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白い猫の主人公・ノンタンの誕生日のために仲間たちはサプライズを計画し、
ノンタン本人には秘密にして部屋の準備を進めます。
家から締め出されたノンタンは、中を裏窓からのぞこうと、

「そーっと そーっと、
ぬきあし さしあし、
こっちから……。」
(3)

という場面。
遠景に描かれることで静けさが表現され、緊張感が高められます。

そして文章は、
「こっちから……。」
という途中のところでぷつんと途切れて省略される。
これからどうなるのだろうという展開への期待がいやがおうにも高められます。
そして、ページをめくると……。


▼図3:受け 「ノンタンのたんじょうび」(16~17頁・見開き)より、模写。(3)
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「ばあ!」
「べえー!」

とみんなに驚かされる。
ノンタンといっしょに、読者も驚かされることになります。

これは、先の「引き」に対応する「受け」。
笹本純さんの説明によれば、「受け」は、「文字通り『引き』を受け止める作用」であり、

「『引き』によって呼び覚まされた期待に応える働き」(2)

というわけです。

こうした「引き」と「受け」の組み合わせによる展開は、絵本だけでなく、
もちろん紙芝居においても頻繁に使われます。

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たとえば、まどみちおさんの詩を紙芝居化した作品、片山健絵「て て て」(4)
※「て て て」は、当初、童謡の歌詞として発表された作品でした
(初出:渡辺茂作曲集「こどものうた たきび」音楽之友社)。


▼図4:引き 「て て て」(1場面)より、模写。(4)
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これは表紙の1場面め。

「て て て にぎった て
にぎった ては」

と、読む文章はここで区切られます。

「にぎった手をどうするの?」
「げんこつ山のたぬきさん?」
などと、あれこれ観客に想像させる。
問いかけ、ある種の謎を観客へ投げかけることになります。

そしてこの「引き」の場面を受けて、次の2場面。


▼図5:受け 「て て て」(2場面)より、模写。(4)
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「かあさんの かたを
とん とん とん」


これが「受け」ですね。
握った手は、実は肩たたきをする手だったという、謎に対して答えるかたちの展開です。
まどみちおさんの詩はもともと、紙芝居として作られたものではなく、その一節は、

「て て て にぎった て
にぎった ては
かあさんの かたを
とん とん とん」


というひとまとまりです。
これを主部と述部に分け、二つの場面に振り分けることで、
一種のなぞなぞ遊びのようなやりとりを楽しむかたち。
詩の言葉のもつ想像力をいっそうに引き出していると言えるでしょう。

作品ではこの後、

「て て て ひらいた て
ひらいた ては」
(3場面)

「ねんどの おだんごを
ころ ころ ころ」
(4場面)

とヴァリエーションがくりかえされていきます。
作品全体が、「引き」と「受け」のくりかえしで構成されているんですね。

古内ヨシ脚本/絵「あったかくてだいすき」(5)
のように観客へ問いかけるかたちや、
古川タク脚本/絵「なんだ・なんだ?」(6)
のようにクイズ形式そのもののかたちなど、
全体が、問いの「引き」と答えの「受け」で構成されている紙芝居も少なくありません。

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こうした「引き」と「受け」は、もちろん物語紙芝居でも効果的に使われます。
たとえば、岡田ゆたか脚本/絵「さとり」(7)の中のこのシーン。


▼図6:引き 「さとり」(2場面)より、模写。(7)
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きこりが、人っ子一人いないはずの山奥で、ボソボソ何やら声を耳にします。
気味が悪くなって「化け物でもいるのか……?」と心の中でつぶやくシーンです。

森閑とした山の中にひとりきり。
いかにも何か恐ろしい存在が登場するにふさわしいお膳立ては調っています。
そこで主人公が化け物を予感したように、観客もその存在を予感する。
そうして緊張が高められ、この先何が出てくることかと興味を引かれる「引き」の画面です。

そこへ。
誰にも聞こえないはずのきこりの胸の内の言葉に呼応するように、
「化け物だと?」
という声がしたかと思うと……。

▼図7:受け 「さとり」(3場面)より、模写。(7)
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姿を現したのは、毛むくじゃらの化け物、さとり。
「引き」に対する「受け」の場面。
予感は的中します。
観客にしてみれば予想通りですが、予想通りに驚かされることになります。

この場合は、緊張にさらに緊張を重ねるサスペンスやホラーのパターンですね。
「引き」から「受け」への場面転換が、劇的な効果をもたらします。

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「はぶらしちゃんと」の先の例(図1)では、「引き」が絵の場面としては描かれず、
文章が「引き」のはたらきを担っていました。
「はぶらしちゃんは、ビューンと とんで とんで とんで」
というこのくだりは、場面の絵としては描かれていません。
けれど、この文章が語られることによって、観客に
「次の画面を見たいという欲求を抱かせるような」作用をもたらすのです。

構成上の理由でこのように「引き」の画面が省略される例も多いのですが、
「引き」と「受け」のはたらきは変わりません。

さて、紙芝居では、この「引き」と「受け」の場面転換のあいだに「間」があります。
「間」をつくることで、
「引き」と「受け」のはたらきをより効果的に演出することが出来るのです。

つまり、「演じ手の画面をぬく間」というやつです。

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《引用・参考文献》
(1)長野ヒデ子脚本/絵、細谷亮太監修「はぶらしちゃんと」(シリーズ「からだってすごい」)童心社
(2)笹本純「絵本の方法~絵本表現の仕組み」~中川素子・今井良朗・笹本純「絵本の視覚表現~そのひろがりとはたらき」日本エディタースクール出版部・所収
(3)キヨノサチコ文/絵「ノンタンのたんじょうび」偕成社
(4)まどみちお脚本、片山健絵「て て て」童心社
(5)古内ヨシ脚本/絵「あったかくてだいすき」童心社
(6)古川タク脚本/絵「なんだ・なんだ?」童心社
(7)岡田ゆたか脚本/絵「さとり」(シリーズ「日本の妖怪ぞろ~り」)童心社
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