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その舞台──道成寺。


安珍清姫の物語の絵巻を、「絵解き」して見せてくれる。
──と聞いて、これはぜひとも見てみたいものだと思いつつ、幾月。
そして5月の連休日、とうとう行ってきました、和歌山県は道成寺。

夜行バスで行って朝に着き、その夜、夜行バスで帰ってくるという短い旅ではありましたが、
天気は快晴、風薫る新緑の中、物語を一日楽しむことが出来たのでした。

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その道成寺にまつわる、こんなわらべ唄があります。

トントンお寺の道成寺
釣鐘下ろいて 身を隠し
安珍清姫 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り
(1)

これは、手鞠唄です。
清姫が見初めた僧・安珍を追いかけて蛇になり、
彼が隠れた釣り鐘に巻き付いて焼き焦がすという道成寺の物語は、
子どもたちにもおなじみだったのでしょう。
しかし、子どもたちは、トントン手鞠をついて歌いながら、
恋に狂うという、ちょっと大人な物語をどう思っていたのかな。

同じメロディ、同じ「道成寺」というタイトルで、
次のような唄も伝わっています。

此処(ここ)から鐘巻十八町
六十二段の階(きざはし)を
上りつめたら仁王さん
左に唐金(からがね)手水鉢(ちょうずばち)
右は三階塔の堂
護摩堂に釈迦堂に念仏堂
弁天さんに稲荷さん
裏へ廻れば一寸八分の観音さん
牡丹桜に八重桜
七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り
(1)

こちらは、旧矢田村(=旧川辺町、現在の和歌山県日高川町・小熊近辺)に伝わる手鞠唄。
旧矢田村は、道成寺のある日高川町・鐘巻から18町(約2km)離れた距離にあります。
その地点からみれば、道成寺は、
「此処(ここ)から鐘巻十八町」ということになります。

この唄は、さながら道成寺の観光案内。
今回の旅で実際に道成寺へ足を運んでみると、
まさしく、ほとんど、この唄の通りでした。

「六十二段の階(きざはし)を」
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参道を抜けると、石の階段。
62段、あります。

「上りつめたら仁王さん」
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f0223055_18555347.jpg階段を上ったところに、仁王門。
右に、口を開いた
阿形(あぎょう)の仁王さん。
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左に、口を閉じた
吽形(うんぎょう)の仁王さん。
こめかみの血管もリアルな、
迫力のある金剛力士像です。
























「左に唐金(からがね)手水鉢(ちょうずばち)」
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「右は三階塔の堂」
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「護摩堂に」
「護摩堂」は、護摩をたいて修法を行うお堂。

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「釈迦堂に念仏堂」
「釈迦堂」は、
江戸時代後期の1811年に出版された「紀伊国名所図会」にははっきり描かれているのですが、
お寺の方にたずねると、現在はないとのことでした。

下の写真は、「念仏堂」。
江戸の頃、お寺の宗派が天台宗となったとき、
本格的にお念仏をするようになり、このお堂が建てられたそうです。
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この念仏堂には、「五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来」という
ちょっと珍しい阿弥陀さんがいらっしゃるとのこと。
「五劫」というのは、
落語「寿限無」で、「五劫のすりきれ」と語られるアレのことですね。
時間の単位。
10里四方もある大岩に、100年に1度、天女が舞い降りてきて、
羽衣で撫でていく。
それが繰り返されるうちに大岩がすり減り、しまいになくなるまでが1劫。
それが5劫というのですから、途方もない時間です。

若い頃の阿弥陀さんは、
生きとし生けるものすべてを苦しみ悲しみから救うという48の大願をたてて、
その5劫のあいだじゅう、必死で思惟──つまり考えをめぐらせた。
床屋に行く暇もなかったため、髪は伸び放題でこんもり厚く、
顔もむくんで四角ばったお姿となる。
それが、「五劫思惟」の阿弥陀さん像なのだそうです。
無念ながら、筆者はこのとき拝観出来ませんでした。

「弁天さんに」
f0223055_20414854.jpg弁天さん(弁財天)は、
住吉さん(住吉大明神)、
天神さん(天満宮)とともに、
「三社」として、
絵馬の奉納所ともなっています。























「稲荷さん」

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そしてこちらが、本堂。
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ご本尊は、千手観音。
両脇の日光菩薩・月光菩薩とともに国宝とされ、現在は、宝仏殿の方で公開中です。
高さは3.20mだそうで、拝観すると、見上げるようなお姿でした。

ところが、わらべ唄では、
「裏へ廻れば一寸八分の観音さん」
とあります。
「一寸八分」は、約5.5㎝。
親指ほどの大きさしかありません。

実は、南向きに安置されたご本尊の千手観音像の裏に、
もう一躰、北向きの千手観音像があったのだそうです。
こちらの観音さんは、今も本堂にいらっしゃるということですが、
秘仏として、ふだんはお姿を拝することはかないません。

が、33年に1度、ご開帳されるのだそうで、
最近では2005年に公開されたとのこと。
だから、次にわたしたちがお遇いできるのは、2038年ということになりますね。

しかし、こちらのご像は、伝えられるところによると一丈二尺。
「一丈二尺」は、
天平時代の単位1尺=約30.6㎝として計算すると約3.67mとなりますが、
実際には、2.4mだそうです。
北側の「裏へ廻れば」確かに観音さんがいらっしゃるのですが、
一寸八分という身軽なご体格ではありません……。
──いえ、いえ。
その千手観音の胎内に、確かに一寸八分の観音さんがいらっしゃるんだそうです。

小さな胎内仏をその中に納める仏像のことを、
刀身を包んで納める刀のさやになぞらえて「鞘仏(さやぼとけ)」というのだとか。
裏にいらっしゃる千手観音さんは、鞘仏なんですね。

そもそも道成寺のはじめは、宮子姫。
一説によれば、宮子姫は、ここ道成寺の近く、海辺に住む浦人の出身。
後に姫となったこの女の子は、しかしどういうわけか、
生まれてから成長してもずっと髪の毛がはえてこなかったといいます。
丸坊主のままに日を過ごしていましたが、
ある日、海女(あま)である母親が、海深く潜っていたところ、光り輝くものを見つけます。

それが一寸八分の観音さま。
海底から拾い上げ、お祀りして願をかけたところ、宮子姫の髪はみるみるうちに伸びはじめ、
年頃となるころには、7尺(約2m)の美しい黒髪に。
いつしか「髪長姫」と謳われようになり、都の藤原不比等に見出されて養女となる。
そして文武天皇の后となり、聖武天皇をお産みになります。

が、都での暮らしに心労も多かったのか、
現在で言うところの“心的障害”にだいぶ悩まされたのだそうです。
そんな后への気づかいもあってでしょう、天皇は姫の故郷の地に寺を建立するように命じ、
そうして出来たのが、道成寺。
そして本尊の千手観音を作るとき、
姫の護持仏である一寸八分の観音さまを秘仏として納めたのだそうです(2)(3)

親指ほどの観音さまが、裏に廻った北向きの千手観音の胎内にいらっしゃる。
その伝承が、「裏に廻れば一寸八分の観音さん」と、
わらべ唄に歌われているのでしょう。

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さて、わらべ唄では、続けて
「牡丹桜に八重桜」
とあります。
辞書を引くと、「牡丹桜」は、「八重桜」の別称とある。
つまり、同じものです。
それが、「牡丹桜に八重桜」と別物のような言い方をされているのは、
どういうわけなのでしょうか?

境内に牡丹桜(=八重桜)を探してみましたが、花の季節を過ぎたこともあってわかりにくく、
このときは見つけられませんでした。

ふつうの桜の木はありました。
中でも目をひいたのは、「入相桜(いりあいざくら)」とよばれる一本の木。
「江戸彼岸(エドヒガン)」という品種なんだそうです。
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立て看板の説明によると、こちらの入相桜は、二代目。
初代は、樹齢数百年という巨木でしたが、
昭和の初期、台風のために折れてしまい、
その根っこから、現在の二代目がはえて来たとのこと。

この桜にちなんだタイトルで知られるのが、
人形浄瑠璃(文楽)の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」です。
やはり安珍清姫の伝説を扱っているのですが、
皇位継承争いや藤原純友の反乱など、複雑なドラマが盛り込まれています。
そして清姫は、恋に狂うというより、嫉妬のために蛇となって日高川を渡ります。

それにしても、「桜」を、なぜ「花王」と書いて「さくら」と読ませるのでしょう?
立て看板の説明によれば、
古来、花の王さまといえば、中国では牡丹、日本では桜なのだとか。
江戸時代の辞書「書言字考節用集」には、
「支那は牡丹をもって花王とし、日本は桜をもって花王とす」
とあったりします。

筆者の個人的なイメージでは、桜は王さまというより、たおやかなプリンセスですが、
かつて、6間(=約10.9m)離れた本堂の縁側にまでその枝を届かせていたという初代の入相桜は、
花の王とよぶのにふさわしかったかもしれません。

ひょっとすると、わらべ唄で歌われた「牡丹桜」は、八重桜という品種のことではなく、
その名前に「桜」と「牡丹」という日中の花の王を二つ並べて重ねたキング・オブ・キングス──
つまり、入相桜のことではなかったか?
……なぁーんていう勝手な想像をしてしまいました。

今の二代目は、王と呼ぶには少々迫力に欠ける大きさです。
が、萌え立つ若緑の元気さは、将来の成長が楽しみな王子様のようにお見受けしました。

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そして、
「七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り」

これは、手鞠唄です。
「一廻り(ひとまわり)」のところは、もしかしたら、
鞠をついてから跳ね返ってくる間に、体をクルリとひと回りさせるなどの
技があったりするのかもしれません。
が、歌詞の内容としては、
清姫が大蛇に化して、安珍が隠れた釣り鐘に巻きつく有名な場面を歌ったものですね。
道成寺のあるこの辺りの地名が「鐘巻」といい、その由来ともなっています。
また、能楽「道成寺」の原曲とされる謡曲のタイトルが「鐘巻」です。

その鐘が取り付けてあった鐘楼の跡と言い伝えられているのが、こちら。
建てられた石には、「鐘巻之跡」という文字が刻まれています。
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その釣り鐘の場面は、後世の能や歌舞伎でも扱われ、
道成寺といえば釣り鐘のイメージが思い浮かぶほど。
地元では、釣り鐘の形をかたどった「つりがねまんじゅう」というお菓子も作られていて、
参道の店で売られていました。
(筆者は出来立てのホカホカをいただきましたが、これがなかなかの美味。)

ところが、おまんじゅうにはなっても、
その肝心の釣り鐘は、道成寺には存在していません。
“幻の釣り鐘”なんですね。

能の「道成寺」では、大蛇の吐き出す炎により、
「鐘は則(すなはち)湯(=金属の溶けた液体の状態)となつて」
と謡われています(4)
釣り鐘は、ドロドロに溶けてしまった。

道成寺縁起の異本である「賢学草子(日高川草紙)」(酒井本)では、
大蛇は、鐘に巻きついてギリギリと締め上げ、
ついには木っ端微塵、「みじんに」壊してしまうことになっています。
そうして、中の僧(こちらは安珍ではなく、名を賢学といいます)をつかみ出して
川へと引きずり込み、二人はともに深みへ沈んでいきます(5)
ここでは、釣り鐘は、粉々に破壊されてしまった。

いやいや、釣り鐘は、大蛇の炎に焼かれたものの
無事に残ったのだとする話もあります。
事件後は、道成寺境内の「鐘巻の跡」のすぐ隣りにある「安珍塚」に、
安珍の遺体とともに埋められたとも伝えられています。

いずれにしろ、事件が起こったとされる西暦928年(延長6年)以来、
道成寺に鐘の音が響きわたることはありませんでした。
そうして、釣り鐘不在のまま、約400年の歳月が流れる。

それが、1359年(正平14年)。時は南北朝時代の世となって、
当時の矢田庄(やたのしょう)の領主となった源万寿丸清重の寄進を受け、
釣り鐘が再興されます。

そこで、鐘供養がとり行われる。
“供養”といっても、これは、新しい鐘を鋳造したときにそのつき初めを行う、
いわば落成式のような法会(ほうえ)を営むことなのだそうです。

その鐘供養の最中。
どこからともなく白拍子がやって来て、女人禁制の法会にも関わらず、
その場へ飛び入りで舞を舞うことになります。
実は、この白拍子こそ、清姫の怨霊。
彼女は狂おしく舞い踊って鐘へと近づき、釣り鐘の落下とともに中へ飛び込む。
そうして、大蛇の正体をあらわします……。
──という場面を描いたのが、能楽「道成寺」です。

安珍清姫の後日譚ともいえるこの物語では、僧侶たちの必死の祈念によって
大蛇は調伏されて川へと帰り、清姫の執着心は消え去ることとなります。

ところがしかし、能の舞台を離れた実際の道成寺では、
彼女の祟りは消え去らなかったようです。
その鐘の音は割れて、響きがよくなかったのだとか。
そしてちょうどその頃、お寺の近在に災禍が次々に起こったそうです。

この二代目の釣り鐘には、

「聞鐘聲 智恵長 菩提生
 煩悩軽 離地獄 出火坑……」


というような銘文が彫られていました(6)(7)

鐘の声を聞いたら、知恵に長けて、悟る心が生まれ、
煩悩は軽くなり、地獄から離れ、火坑(かきょう:火の燃える地獄の穴)からも抜け出せる。
そして、生きとし生けるもの(衆生)を救い導くといいます。

しかし、銘文の通りには行きませんでした。
鐘の声は、人々を救うどころか、逆に災いを呼ぶ。
近所で起こった災禍は、
みんな祟りを受けたこの鐘のせいだと考えられてしまいました。

そのため、二代目の鐘は竹林に捨て置かれ、
かくして約200年の歳月が流れます。

そして1585年(天正13年)。時は戦国、安土桃山時代。
織田信長が本能寺で倒れた後、豊臣秀吉は天下統一を果たすべく、
紀州攻めへと手を伸ばします。
雑賀衆、根来寺を攻める一方、道成寺のある紀南も制圧していく。

その際に、秀吉の家臣である通称・権兵衛こと千石秀久が、
道成寺を訪れて二代目の鐘のことを伝え聞き、
陣鉦(じんがね=軍隊を動かす合図に鳴らす鐘)に使おうと
林に眠っていた鐘を掘り起こします。
そうして京都へと持って帰り、それが、京都・妙満寺に奉じられる。

そこで妙満寺の当時の大僧正がお経を読んで供養したところ、祟りは解かれ、
鐘は清澄な響きを取り戻して、現在に至るのだとか(8)

人を閉じ込めて焼き殺す凶器に使われた初代に続き、
災厄の元凶という濡れ衣を着せられたり、
戦(いくさ)の道具に使われたりと、
さんざんな目に遭った二代目の釣り鐘ですが、ここに至って
銘文の通り、“人々を救い導く”という本来の役目に帰ることが出来たようです。

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さてところで、初代の釣り鐘のあった鐘楼は、実は、
言い伝えられている「鐘巻の跡」にはなかったという話があります。

昭和60年代に道成寺境内の発掘調査が行われた際、
伽藍の配置は、法隆寺の配置を左右さかさまにしたものであることがわかったそうです。
そこから推し量ると、鐘楼は、現在、入相桜が植わっている辺りにあったらしい。
その周囲からは、焼けこげた土も見つかったとのこと。
それがはたして、大蛇の炎によるものなのかはわかりませんが、
昔、そこで何か火災のようなことが起こったのは確かなようです。

すると、お寺が釣り鐘を失って後、その鐘楼の跡地に
桜が植えられたのでしょうか。
それが数百年を経るうちに、入相桜(初代)という巨木になったのでしょうか。

一般的に、お寺の鐘は、一日に二回鳴らされます。
朝の日の出の刻を告げる「明け六ツ」の鐘と、
夕方、日の入りの刻を告げる「暮れ六ツ」の鐘。
この「暮れ六ツ」の鐘が、「入相の鐘」といわれます。

童謡の「夕焼け小焼け」(作詞:中村雨紅)では、
「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る」
と歌われていましたっけ。
日暮れ時に鳴らされるあのお寺の鐘が、「入相の鐘」なんですね。

鐘を失った道成寺では、そんな夕方、
本来であれば入相の鐘を打たなければならない時刻が来るたびに
人々は鐘楼跡の桜の木を見上げ、
それが「入相桜」という呼び名の由来になったのではないか──。
と、道成寺の現住職であり、
「絵解き」の語り手でもある小野俊成さんは推されています(9)

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道成寺は、夕景の似合う古刹として、
また、小高い奥の院から見る日の入りが絶景だそうで、
「和歌山県の朝日・夕陽100選」に選ばれています。

入相桜は、その名の時刻の夕景色にきっと似合っているのでしょう。
残照に照り映えた桜色は、ほの赤く染まり、
いつしか夕闇に溶けるシルエットの中で、淡く白くけぶっていく──。
そんな花景色が目に浮かぶようです。

おそらくその夕景は、たとえ鐘の声が聞こえなくとも、
二代目の鐘の銘文にあったように、
現代を気ぜわしく生きているわたしたちの煩悩を、ひととき、
軽やかにしてくれるのではないでしょうか。

またこの地を再訪する機会があれば、
今度は花の季節の夕暮れに訪ねてみたいと思いました。


山寺の 春の夕暮 来てみれば 入相の鐘に 花ぞ散りける

(※「新古今和歌集」に収められた能因法師のこの歌は、
能楽「道成寺」に引用されて謡われています(4)。)

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さて、そんなゆったりとした夕景の似合う道成寺。
こんな穏やかな平和な場所で、
清姫は、なぜ狂おしくも激しい炎を
ひとり吐かなければならなかったのでしょう?

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《引用・参考文献》
(1)町田嘉章・浅野健二編「わらべうた〜日本の伝承童謡」岩波文庫
(2)小野宏海述、藤原成憲画、小野成寛編集「道成寺絵とき本」道成寺護持会
(3)「道成寺」ホームページ〈http://www.dojoji.com/〉
(4)「道成寺」〜西野春雄校注「謡曲百番」(新日本古典文学大系57)岩波書店・所収
(5)内田賢徳「『道成寺縁起』絵詞の成立」〜小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社・所収
(6)吉田友之「『道成寺縁起絵』の表現」〜小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社・所収
(7)ゆーちゃんさんのホームページ「百姓生活と素人の郷土史」〈http://www.ojiri.jp/〉
小野俊成「歴史講座〜道成寺のすべて」(万寿丸が残した兄弟鐘)
(8)「総本山・妙満寺」ホームページ〈http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/〉
(9)ゆーちゃんさんのホームページ「百姓生活と素人の郷土史」〈http://www.ojiri.jp/〉
小野俊成「道成寺の七不思議」(四、鐘楼の位置)

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絵巻/日本


日本の伝統的な絵巻は、ひとりで鑑賞するようにできています。

だいたい肩幅くらいの長さ(60〜80㎝くらい)に、画面を広げる。
基本的には右手で巻き込み、左手で広げながら、スクロール。
場面は、右から左へと展開していきます。
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絵と文章が交互に配されているもの。
絵の中に文章が書かれているもの。
──などなど、その形態はいろいろですが、
多くは文章を読みながら、絵をながめつつ、ひとりで物語の展開を楽しみます。

が、「源氏物語絵巻」の中で冊子の読み聞かせをしていたように、
絵巻を繰り広げて画面をながめる人のかたわらで、
侍女などが文章を読み聞かせていたということも想像できます。

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下の絵は、江戸時代後期の1804年に出版された山東京伝「近世奇跡考」の挿し絵。
当時は世俗化して「歌比丘尼」といわれていた熊野比丘尼の
絵解きをする様子を描いています。
熊野比丘尼は、たいてい1枚の掛け軸絵を見せながら語りますが、
こうして絵巻を用いることもあったようです。
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②の女性は、髪型や服装から、「上臈」といわれるような
身分の高い武家の女性であることがわかります。
①の熊野比丘尼が、武家の屋敷に招じ入れられ、絵解きを語っているところです。

絵巻の画面には閻魔大王が描かれていて、語っているのはたぶん地獄の絵解きです。
切々と哀れを催すくだりを語っているのでしょうか、
②の女性は袖で涙をぬぐい、かたわらの侍女も顔をおおって泣き出しています。

絵巻は、基本的に座敷の2次元的な平面に置かれて広げられるものですから、
鑑賞する人数はひとりか、せいぜい3〜4人が限度となります。

平安時代の貴族社会であれば、それもOK。
しかし、一部の少人数の人々の楽しみとするだけでなく、
より多くの民衆に語り聞かせようとすれば、
室内でも野外でも、絵を立てて、多くのひと目に触れさせる工夫が必要です。
「絵解き」の多くが、掛け軸絵を立てて掲げて語ったひとつには、
そうした理由もあったと思われます。

江戸時代でも、こうした屋敷の室内で、2〜3人の観客相手であれば、
絵巻は、有効なシステムであったでしょう。
が、武家の屋敷によばれて少人数相手に語るというようなケースは、
それほど頻繁ではなかったかもしれません。

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同じ絵巻でも、インドネシアの「ワヤン・ベベル(Wayang Beber)」は、
大画面で、そして画面を垂直に立てるというやり方をすることで、
多くの人数にアピールしています。

また、インドの「ポトゥア(Patua)」は、
横にスクロールさせるのではなく、縦にスクロールさせる絵巻。
そうして床にべったりと置くのではなく、
画面を持ち上げて3次元的に立たせることで、
より多くの人々に見せることが可能です。

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一方、日本スタイルの絵巻も、今は多くの人が鑑賞できるような工夫がなされています。

「安珍清姫」の物語で知られる和歌山県の道成寺
こちらでは、お寺に伝わる「道成寺縁起絵巻」を描き写した写本を使って、
絵解きを行っておられます。

この「絵とき説法」は、数百年の昔から伝わり、
現在も、年間に3000回以上行われているそうです。
そうした長い口演の歴史の中から、絵巻をより効果的に見せる工夫が生み出されたのでしょう。

木の台を使って、絵巻を立てかけ、聴衆が見やすいように画面を起こす。
左端の軸をはめ込むようにして、台に固定させる。
「説法」の語り手は物語を語りながら、
右端の軸をくるくる回して巻き込み、スクロールさせて画面を展開させるというわけです。
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筆者は、生で見たことがなく、
これはぜひとも行って拝見したいなあと思っています。




《参考文献》
榊原悟監修「すぐわかる絵巻の見方」東京美術
武者小路穣「絵巻の歴史」吉川弘文館
高畑勲「十二世紀のアニメーション ー国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるものー」徳間書店
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物語の伝説を歩いてみる


小栗が地獄から舞い戻ってきた塚(=墓)は、「上野(うわの)が原」にあったと
説経では語られていました。
上野が原は当時、風葬のように死体がそのままにされて置かれているような
荒涼とした場所だったようです。

手元の地図ではわからないのですが、藤沢市今田に、上原というところがあるそうです。
が、今田や西俣野あたりの広い地域を「上野が原」と呼んだという説もあり、
今田からはややずれたその西俣野に、①「小栗塚跡」の碑があります。
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伝説によれば、小栗塚のてっぺんにはくぼみがあった。
不思議なことに、そのくぼみをいくら埋めようと土を盛っても、
いつのまにかまたくぼんでしまったそうです。
埋めた土はどこへ吸い込まれてしまったのか?
くぼみは、地獄に通じていたのでしょうか。

今は、その塚もくぼみもすっかり整地されて、福祉施設が建っており、
その塀の道路脇に碑だけが残されています。
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おそらくはこの場所で、カラスが群れて鳴き騒ぐ中、
塚が四つに割れて小栗が息を吹き返したのでしょう。

土まみれのその体の土ぼこりを小栗がはらったという「土震塚」が
道路をはさんだところにあるというのですが、筆者にはわかりませんでした。

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この近くに花應院、そして小栗が建てたという②閻魔堂の跡があります。
今は花應院におわしますあの閻魔大王像が元いらっしゃったところです。

明治の頃、火災で焼失したというそのお堂の跡は、
今は林に囲まれた小さな敷地になっていて、小栗の墓といわれる石塔もありました。
小栗判官のものといわれる墓は、こちらの他にも全国にいくつかあるようです。
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この西俣野から、境川を渡って今は横浜市戸塚区へ行ったところに、
あの“人喰い馬”鬼鹿毛を飼っていた原があったという④「鬼鹿毛山」があります。
現在は、老人ホームが建っている裏山あたり。
そこには、「鬼鹿毛坂」という坂もあったそうです。

鬼鹿毛は、説経では、
あたりに食った人間の骨や毛が散らばっていたと描写される人喰い馬です。
が、近松門左衛門の浄瑠璃ヴァージョンでは、ずっとソフトナイズされていて、
「人喰い馬」ではあるけれど、三国無双の名馬。
「春は梅花の香をくらい、夏は卯の花あやめ草。
今は折りから秋草の露をそのまま秣(まぐさ)に飼う」
(1)
と、花の香りや露を食する風流ぶりを見せています。
昔は、そんなのどかな草花が咲いていた山だったかもしれません。

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参照:小栗判官照手姫をめぐる藤沢市周辺(googleマップ)

その鬼鹿毛山の南あたり(戸塚区東俣野町)に「殿久保」というところがあり、
横山大膳の住居があったと伝えられています。
毒殺事件の舞台となったところです。
古地図を調べればよかったのですが、筆者は、どのへんがどのあたりなのかわかりませんでした。

※追記:後日、調べてみると、「殿久保」は「戸ノ久保」ともいい、鬼鹿毛山より約400mほど南、
現在は龍長院のあたりだったといいます。

ただ横山大膳は、当時、横山党が本拠地にしていた武蔵の国の横山の庄(現・八王子)に住んでいた
という説もあります。

ちなみに、鬼鹿毛山のあたりは、「ウィトリッヒの森」と呼ばれているそうです。
日本在住のスイス人、ウィトリッヒ氏が所有し、故郷スイスに似た景観を愛していたそうで、
現在、市に寄贈され、市民の森として人々に親しまれているとのことです。

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さて、花應院から境川を下っていくと大鋸(だいぎり)橋(現・遊行寺橋)があり、
遊行寺(清浄光寺)があります。
そしてその門前町として栄え、東海道の宿場町としても栄えた藤沢の宿があります。

遊行寺は、小栗の蘇生にひと役買った「藤沢の御上人」「遊行上人」のお寺。

「遊行上人」といえば時宗の開祖・一遍のことですが、
このお寺の法主(ほっす)も代々「遊行上人」と称されます。
正式な名称は「清浄光寺」。
しかし遊行上人が法主をつとめるお寺ということで、
「遊行寺」という呼び方が浸透しているのだそうです。

「遊行寺」から「小栗塚」までは、だいたい2〜3kmの距離。
上人は、ここから「小栗塚」までテクテク歩いていったのでしょう。

この遊行寺の裏手の方に、⑤長生院(ちょうしょういん)があります。
晩年の照手姫は、小栗が亡くなった後、遊行上人をたよって尼となり、この小院を建てて
小栗と家臣10人の霊をとむらったといわれています。

その境内の庭にあるのが、小栗と10人の家臣(十勇士)の墓。
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照手姫の墓。
筆者が訪ねた1月16日は季節がちょっと早過ぎましたが、
梅が咲くと華やかなんでしょうね。
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鬼鹿毛の墓。
鬼鹿毛は、説経では馬頭観音にまつられたとされています。
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目洗いの池。
地獄から戻ってきた小栗が、ここで目を洗ったそうです。
「古事記」のイザナギは、黄泉から戻って目を洗うと
アマテラス(太陽)やツクヨミ(月)が生まれたものでしたが……。
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ところでこの長生院でも、昭和30年代頃まで、
人が集まると、おばあさんが絵解きをして下さったんだそうです。
絵は、それほど大きくはない白黒の「小栗判官一代記畧圖(略図)」というもの。
が、語られていたストーリーは、花應院のものと一部違っていたようです。
おそらく、江戸時代後期の長生院の住職が記したという
「小栗略縁起」または「小栗小伝」がもとになっているのではないでしょうか。

※《追記》
長生院のおばあさんの絵解きは、
昭和50年(1975年)頃までやっておられたという話もあるようです。
1970〜1971年に小沢昭一さんが現地で録音したという「日本の放浪芸」(4)のCDに、
絵解きをしているおばあさんの声が残されています
(「小栗判官照手姫」──「説く芸と話す芸〜絵解の系譜」に収録)。

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そもそもこの物語は、次の史実がもとになっていると考えられます。

頃は、室町時代中期。
現在の茨城、常陸真壁郡・小栗の領主、小栗満重。
当時、関東の権力者、鎌倉公方・足利持氏に反発して、領地の一部を没収されます。
そこで満重は、1422年(応永29年)、反乱を企て挙兵。
が、しかし、足利持氏の大軍に攻め滅ぼされて、ついには小栗城で自刃します。
これが世にいう「小栗満重の乱」です。

自ら果てた満重には、息子・助重がおりました。
この小栗助重は、現在の愛知、三河の国へ落ち延びて家を再興し、その後、
茨城・太陽寺(現在は廃寺)に、
父と10人の家臣(十勇士)のための供養塔を建立したりしています。

ところが、物語はこれで終わりません。

戦国時代が始まらんとする室町時代の関東の歴史を記した「鎌倉大草紙」に、
「小栗満重の乱」の記述があり、その後の小栗助重の記事が載っています(2)

それによると、小栗城の落城後、満重の息子の小次郎助重は関東に潜伏。
そして相模の国の権現堂というところに宿をとったときのこと。
あたりの盗賊が、金品をねらってワナを仕掛けます。
近隣のきれいどころ(遊女)を集め、宴会を開いてもてなし、
その酒に毒を盛って殺そうというわけです。

そのはかりごとを知った遊女のひとり、「てる姫」は、
お酌をするときに、助重に耳打ちをして狙われていることを知らせます。
そこで助重、酒を飲むふりをして、すきを見て外へ出る。
と、そこにつないであったのが「鹿毛」という暴れ馬。
その鹿毛に乗ってひた走り、藤沢の道場(現在の遊行寺)へ駆け込み、
上人に助けられることになります。

助重の家人と、お酌をした遊女たちは毒殺され、川へ流される。
が、てる姫は酒を口にしなかったので、流された後、川下からはい上がり助かります。

一命をとりとめた助重は、その後、三河へ。
そうして後日、あらためて相模へと戻って盗賊たちを討ち殺し、
助けてくれたてる姫を探し出して褒美を与えたということです。

ここには説経の物語となったその原形があるわけですが、
史実そのものというわけではないでしょう。
史実から物語化していったその萌芽が見られると思われます。

その「鎌倉大草紙」をもとに書かれたのが、「小栗実記」
が、こちらでは、小栗判官と家臣11人が毒殺され、
それを上人が解毒の術で、すぐによみがえらせることになっています。

そしてこの「小栗実記」のストーリーは、前半を「鎌倉大草紙」に拠り、
後半の、照手姫の苦難のくだりや、
小栗が熊野の湯で蘇生するところなどは説経に拠っているようです。
ただ、小栗は毒殺されるのではなく、ふつうに病気にかかって瀕死となります。(3)

また、「鎌倉大草紙」と「小栗実記」では主人公が小栗小次郎助重なのに対し、
「小栗略縁起」では、自刃したはずの父、小栗満重が主人公です。
小栗城落城のとき、満重はからくも生き延びて10人の家臣とともに脱出し、
三河の国をたよって落ち延びたというわけです。

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歴史の事実が人から人へ伝わるうち、
話に尾ヒレがつき、背ビレがつき、物語がさまざまに生まれていったのでしょう。
それが時代の流行に合わせるように、
説経、人形芝居、歌舞伎というメディアに合わせて、さらに色を変えていった。
そして絵解きとなった。

では、どんな人々が語り伝え、物語にしていったのでしょうか?

ところで花應院のご住職が話をして下さった中に、
③「瞽女が淵」という場所が話題にのぼりました。
花應院の近所にあるというのです。
そこで、訪ねてみることにしたのでした。

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《引用・参考文献》
(1)近松門左衛門「当流小栗判官」〜近松全集刊行会編「近松全集・第14巻」岩波書店・所収
(2)「鎌倉大草紙」〜近藤圭造編集兼校訂「改定史籍集覧・第5冊通記類」(=明治33年版の近藤瓶城編『史籍集覧』を改定したもの)臨川書店・所収
(3)畠山泰全「小栗実記」〜京都大学文学部国語学国文学研究会室編「京都大学蔵大惣本稀書集成・第5巻軍記」臨川書店・所収
(4)小沢昭一取材・構成「ドキュメント・日本の放浪芸〜小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」CD7枚組/ビクターエンタテイメント

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いにしえより語られし物語


神奈川は藤沢の、花應院に伝わりますこの「小栗判官照手姫絵巻」、
ご住職が語って下されし文言(もんごん)を、
一言一句、ここへ記したいのはやまやまなれど、
なにせ筆者のポンコツな記憶力。
そこで手元にあります東洋文庫「説経節」(御物絵巻「をくり」を底本とする)(1)
を横目で確かめつつ、
ここへしばし、つづってみたいと思います。
固有名詞などのもろもろも、違っていたならご容赦を。

※参照:「小栗照手に関する全国伝承マップ」(googleマップ)

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そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。
子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、
頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。

ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。
あるとき、鞍馬に詣でる途中、
一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、
その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。
小栗とちぎりを結びます。
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それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家さまは大激怒。
小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。
そこで官職を与えられ、判官(はんがん)とお成りある。

さてそこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、
後藤左衛門が訪ねてまいります。
彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。
その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、
後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けます。

下の絵は、その文を姫が読んでいるところ。
撮影の腕が下手くそで、照明が映り込んでしまってスイマセン。
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照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。
ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。
しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、
ひそかに小栗を殺そうと企てます。

そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。
そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。
この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。
人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、
これに殺させようというわけです。
ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、
小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。
小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。
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腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、
宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。

これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。
そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。
牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、
相模川のおりからが淵へ。

ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。
沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。
かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。
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そうして流れ着いたところが、海の浜。
その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。

発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。
そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。
太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。
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しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。
照手姫の白い美肌も気にくわない。
そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、
松葉をくべて煙責め。
けれども、姫は無事に過ごします。
というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。
(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)
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そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、
姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。

姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、
美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。

その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。
今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。
井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、
下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。
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さてところで、もう一方の主人公、夫の小栗がどうしたかといえば……。
この場面は、こちらの絵巻には描かれていませんが、
毒殺された彼は十人の家臣とともに地獄へ下ります。

閻魔大王が裁いて言うには、
「小栗を悪修羅道へ落とすべし、
家臣には罪がないゆえに、娑婆へ生き返らせるべし」。
すると家臣たち、「われらはどうなっても、主の小栗を助けてほしい」と懇願します。
そのこころに感じ入った大王は、十一人を生き返らせようとする。

ところが、小栗は土葬で、家臣は火葬。
家臣は生き返ろうにも体がない。
そこで十人は、そのまま地獄に残り、閻魔大王を補佐する十王となって
末世の衆生のために今もはたらいている──と、説経では伝えています。
地獄の十王は、実は小栗判官の家臣だったんですね。

閻魔大王は、「藤沢の御上人」へと手紙を書き、小栗に付してよみがえらせる。
すると、上野(うわの)が原の小栗塚、かっぱと卒塔婆が倒れたかと思うと、
塚が四方に割れて開き、カラスが群れて騒ぎ立てる。

ちょうど近くを通りかかった藤沢の御上人、何事かとみれば、
そこに変わり果てた小栗の姿を見つけます。
(このくだり、ご住職が語ってくれた話では、「小栗略縁起」と同様に、
上人の夢枕に閻魔大王が立ってメッセージを伝えたということになっています。)

「藤沢の御上人」とは、
藤沢市にある時宗の総本山・遊行寺(清浄光寺)で、代々「遊行上人」と称される法主(ほっす)。
大空上人とも、呑海上人ともいわれます。
また、相模原市にある同じく時宗の当麻道場(無量光寺)の上人(明堂智光)とも混同され、
説経では、「明堂聖(ひじり)」とも言っています。

さて、小栗はといえば、髪はぼうぼう、手足は糸より細く、
腹には毬(まり)をくくりつけたよう。
目も見えず、耳も聞こえず、立つこともできず、あちらこちらを這い回る。
姿が、餓鬼に似ていることから「餓鬼阿弥陀仏(餓鬼阿弥)」と名付けられます。

下は、「餓鬼草紙」の中に描かれた栄養失調の“餓鬼”の姿。
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閻魔大王が御上人宛に書いてよこした文を読めば、
小栗は、熊野の湯の峯の温泉につからせれば、蘇生できるとある。
そこで、御上人、餓鬼阿弥(小栗)を土車に乗せ、土車には綱を付け、
「この者を、一引き引いたは、千僧供養、
二引き引いたは、万僧供養」
と書いた看板を首にぶら下げます。

つまり「供養になるので、どなたか引っぱって車を動かして下さい」
ということですね。

土車とは、土を入れて運ぶ車のようですが、
多くの部分を土でこしらえた車ではないかと折口信夫は言っています(2)
当時は、病気や障害で歩けない人が乞食となり、
こうした車に乗るということがあったようです。
また、癩病の人が乗ることが多かった。
だから後に、「餓鬼阿弥(あみ)」が「餓鬼やみ」と言われ、
「餓鬼病み=癩病」というイメージが出来てしまったということです。

供養を想う善意の人々の手に引かれ引かれつつ、少しずつ、少しずつ、
東海道を西へ上り、熊野を目指す道行きが語られます。

そして青墓の宿へと着いたとき、今は常陸小萩となった照手姫が目をとめる。
餓鬼阿弥が、まさか自分の夫の変わり果てた姿とは気づかぬまま、
しかし気になってしかたがない。
亡き夫の供養のため、家臣10人の供養のためと、
渋る宿の主人に何とか5日間の休暇をもらい、車を引く手伝いをいたします。

女性が付き添うとなれば余計な詮索も受けたくないと、
わざわざ古い烏帽子をかぶって巫女に扮し、もの狂いのフリをして、
引っぱる子どもたちを囃し立てているのが下の絵です。
こちらの絵の餓鬼阿弥は、肉付きがいいですね。病人のイメージでしょうか。
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御物絵巻「をくり」の方では、いかにも「餓鬼阿弥」というネーミングにふさわしい姿で描かれています。
下の絵は、近江の国は逢坂関の東にある関寺まで送り届けた常陸小萩が、またの再会を約束して、
餓鬼阿弥への一文をしたためているところ。
5日の休暇はあっという間で、この後、常陸小萩は、青墓の宿へと急いで引き返します。
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一方、餓鬼阿弥の土車は、人々の善意に引かれるまま、関寺からさらに西へと進み、京都、大阪へ。
そして大阪から熊野へ。
彼が通ったその道は、物語にちなんで「小栗街道」と呼ばれます。
ところがいよいよ熊野へとやって来たものの、峻厳な山道を土車でゆくことは出来ません。
そこで屈強の山伏たちにかついでもらい、とうとう湯の峰の温泉へとたどり着いたのでした。
そうして温泉に浸かること49日。
7日目には両の目が開き、14日目には耳聞こえ、21日目にはものが言えるようになる。
薬湯の効能はもとより、熊野権現のご加護もあったのでしょう、49日目になると、
6尺の偉丈夫、元の小栗へと復活を果たします。

蘇生した彼が最初に向かったのは、実家の京都、二条大納言兼家の屋敷。
しかし、小栗と名乗られても、ゾンビではあるまいし、
まさか死んだはずの息子が訪ねてきたとは信じられず、
「失礼だが、試させてもらうぞ」と兼家は、
障子越しに小栗をめがけて弓をひき、ひょうとぞ放つ。

すると、二条家に代々伝わる「矢取りの術」の秘伝、
幼い頃より教えられ修練してきたその技で、
小栗、一の矢を右手ではったとつかむ。
続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。
さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。
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この「判官矢取りの段」は、物語のひとつの見せ場ですね。

この技が出来るのは小栗しかおらぬと、兼家は大喜びして勘当を解き、
御門(みかど)からも領地を賜ります。
そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。
横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。
が、計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。

こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところでしょうか。
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かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は
大団円を迎えます。
そして物語は、各地に伝説を残しました。

次回、藤沢市周辺の伝説を歩いてみます。

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《参考・引用文献》
(1)荒木繁・山本吉左右編注「小栗判官」「説経節」東洋文庫/平凡社・所収
(2)折口信夫「小栗外伝」「古代研究Ⅰー祭りの発生」中公クラシックス・所収

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流浪の人々が育てた物語


「おぐり」ときいて、パッと頭に思い浮かぶのは、
今なら、キラリとこぼれる白い歯もまぶしい俳優・小栗旬さんでしょうか。
競馬ファンならオグリキャップ、
推理小説ファンなら小栗虫太郎の名前を連想するかもしれません。

が、昔は「おぐり」といえば小栗判官でした。

小栗判官の物語は、歌舞伎の演目にもなってヒットし、
明治の初め頃まで演じられたそうです。
ところが、それ以降は演じられることなく、年月が過ぎます。

大正15年、民俗学者・折口信夫(しのぶ)は、
「世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。」
と書いています(1)
明治20年生まれである彼が子どもの頃には、
大阪・道頓堀の芝居の看板を目にしたり、祭文語りで耳にしていたといいますが、
大正の頃には遠い“ナツメロ”的な話だったのでしょう。

とはいえ、江戸時代には奈良絵本になったり、絵巻になったり、
昭和10年代には講談社の絵本になったりしているそうなので、
荒唐無稽なお伽噺として親しまれたり、
あるいはビジュアル化もしやすい物語だったのかもしれません。

絵巻の「をくり(小栗判官絵巻)」は、日露戦争の時代、明治天皇が広島に滞在した折り、
備前の大名、池田家から借りたのを天皇が気に入って、
そのまま召し上げてしまったのだとか(2)
それが献上ということになり、今は宮内庁に保管されています。
平安の昔、宮中のお姫さまがお供の女房に詞書を読ませて冊子や絵巻を楽しんだように
明治天皇も、侍従に詞書を読ませて、「をくり」絵巻を楽しんだんだそうですね。
いわば、絵解きです。
天皇は絵解きのファンであらせられた。

歌舞伎ではその後、昭和49年、
武智鉄二企画による「小栗判官車街道」が約70年ぶりに復活。
さらに、三代目市川猿之助さんによる「当世流小栗判官」、
スーパー歌舞伎「オグリ」などが注目を集め、
近藤ようこさんがマンガで取り上げる(「説経小栗判官」)など、
最近では「小栗」とか「照手」とか、ときどき耳にするようにはなりました。

そんな歌舞伎となる以前、江戸の元禄の頃に、
近松門左衛門が、人形浄瑠璃を書いています。
その書き下ろした浄瑠璃のタイトルは、「当流小栗判官」、あるいは「今様小栗判官」
(初演は1698年)。
「当流」「今様」。──つまり、近松が暮らしていた
元禄時代当時の「ナウ」な流儀でアレンジされたものでした。
「当流」ではない、それ以前の昔から伝わっていた「小栗判官」の物語があって、
それを下敷きにしているとうわけです。

それは、主に説経節を主とする語り物。
説経本としては、正本「おぐり判官」(江戸時代前期の1675年刊)などなどが伝わっていますが、
それ以前、正本としてまとめられる前に、物語を語り伝えた人々の歴史がありました。

中世、国から国を巡り歩き、勧進をしたり、唱導や芸を生業としていた人々。
説経師はもとより、
念仏聖(ひじり)や高野聖、善光寺聖、六部ともいわれた廻国聖。
御師(おし)や、山伏、歩き巫女。
盲僧に、昔は盲御前といわれていた瞽女(ごぜ)。
こうした名もなき下級宗教家や芸能者が、「おぐり」の物語を語り伝え、発展させたらしいのです。
その中には、折口信夫が幼い頃耳にしたという祭文語りもいたでしょう。
そこには熊野の修験者や比丘尼の姿もありました。

そしてどうやら、絵解きをして歩いた熊野比丘尼の姿も見え隠れしています。

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さて、この「おぐり」の物語の主要な舞台となった地である神奈川県・藤沢に
花應(応)院というお寺があって、
そこに、「小栗判官照手姫縁起絵巻」が伝わっています。
毎年2回、1月16日と8月16日の閻魔祭に開帳されていて、
先日、その1月16日に絵解きの会があって、行ってきました。

これまでは史跡保存会の方が絵解きをされていたそうなのですが、
今回はご高齢のため、かなわず、
代わって花應院のご住職自らが口演して下さったのでした。

花應院に伝わる絵巻。
(※撮影の腕が下手すぎてスイマセン。
額のガラスに、部屋の照明の光が映り込んでしまいました。)
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絵巻は一般に、横長の巻物に描かれるものですが、
こちらのように縦に連ねて掛け軸絵のかたちにすることもあります。

また、当初は横長の巻物として描かれたものを、後に切断して、
掛け軸絵として装幀し直すこともあります。
が、こちらはどうやら最初から1枚の絵として描かれたもののようです。

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18年前、「小栗」の絵解きをやはり、ここ花應院でご覧になった方が、
往事のようすをブログに書いていらっしゃいます。

「穴あき日記〜奈良漬のブログ」〜「小栗判官一代記」

絵解きの光景は18年前とあまり変わらないのですが、
今年2012年ヴァージョンでは、口演されるご住職はパソコンの前に座り、
取り込んだ絵巻の映像をプロジェクターのスクリーンで見せておられました。
絵を指し示すのは、絵解きで使われる棒の「おはねざし」ではなく、
マウスというわけです。

最近は、iPadで紙芝居をされる方もいらっしゃいますし、
テクノロジーを使ったこうした試みは増えていくでしょう。

ただ、このスタイルだと、物語を味わうというよりは、
解説の講義を聴講するような気分ではありました。

しかし、口演されたご住職は、関連する史料や、近くの史跡の写真など
さまざまな映像も駆使して、おもしろわかりやすく語ってくれたのでした。

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そして次に場所を移して、
これも花應院に伝わる「地獄変相十王図」の絵解き。

小栗判官の物語の中で、小栗は10人の家臣とともに命を奪われ、
地獄の閻魔(えんま)様のもとへとやって来ます。
その閻魔大王とともに亡者を裁く裁判官の役割をつとめているのが、
泰山王や秦広王、平等王といった10人の王たち──十王です。

計11幅の掛け軸絵には、
十王それぞれの肖像と、地獄の様(さま)が描かれています。
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こちらの絵解きは、ご住職も演じ慣れているのか、
悲惨な絵柄ではありますが、おもしろ楽しく語って下さいました。

わたしたちおとなの聴衆が集まる前の午前中、
近所の幼稚園の子どもたちが訪れて、やはり絵解きを聴いたそうです。
どの子も、目をまるくして神妙に聴き入っていたのだとか。

わたしたちおとなも、その心持ちが想像できました。
ときに笑いを誘われながら、ときに身につまされながら、
たぶん目をまるくして神妙に聴き入っていたと思います。

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そんな地獄へと墜ちた小栗でしたが、
10人の家臣たちの主人想いの心に感じ入った閻魔大王のはからいで、
この世へと戻ってまいります。
その閻魔大王の恩に感謝して小栗が建てたといわれているのが、
ここ花應院の、ご近所にあります法王院。
その閻魔堂に代々、閻魔大王の木像を伝えておりました。

ところが、1840年といいますから、江戸時代は天保の頃、法王院が火事にあい、
閻魔堂だけが残される。
さらに1881年(明治14年)、その閻魔堂まで火事にあう。

「えんま様が一大事っ!」とばかりに駆けつけた村人が、
まさに火事場の馬鹿ぢから、1mはあろうかという重いご像をかつぎだし、
あわやというところを救い出す。
そうしてこの花應院へと、命からがら運び込まれます。
地獄の業火も恐れぬ閻魔様ですが、
いかめしげなお顔の中にも、ほっとひと息安堵の色。

今はここ花應院を住居と定められ、そのご紅顔もご健在、
21世紀のこの世の善悪を見極めんと、はたとにらみつけておられるのが、下の写真です。
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さてさて、かような次第で地獄からこの世へとよみがえったは、小栗判官。
が、しかし、彼を待っていたのは、さらなる生き地獄でありました。
その地獄とは、いかなるものであったのか、
次回、小栗と照手の物語をかんたんに振り返ってまいります。チョーン!

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《参考・引用文献》
(1)折口信夫「餓鬼阿弥蘇生譚」「古代研究Ⅰー祭りの発生」中公クラシックス・所収
(2)辻惟雄・佐野みどり「対談ー絵巻の遊戯性と楽しみ方ー」〜若杉準治編「絵巻物の鑑賞基礎知識」至文堂・所収
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摩耶夫人、降臨


沙羅双樹の樹上、空にたなびく雲に乗り、
天女に付き添われて降りて来るのが、
ブッダの生母のマーヤー(摩耶)です。
一般に、摩耶(まや)夫人(ぶにん、ふじん)と呼ばれるようです。

彼女はブッダを生んだ後、7日後に亡くなりました。
その後、忉利天(とうりてん=または、三十三天)という、
神々が住む天上の世界に生まれ変わったといいます。

そこへ、ブッダの弟子であるアヌルッダ(阿那律)がブッダの入滅を知らせにきたので、
彼の案内で、ここクシナガラへ降りてきたのでした。
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マーヤーの死後、ブッダは、
マーヤーの妹であるマハー・プラジャーパティー(摩訶波闍波提:まかはじゃはだい)に
養われて育ちます。

この養母であり、義母であるマハー・プラジャバティーは、後年、
ブッダの妻であるヤソーダラー(耶輸陀羅)らとともに出家します。
比丘尼となった彼女は、ブッダ入滅のときには、かなりな高齢。
一説には彼女は、ブッダの命脈のそう長くないことを知り、
その終焉に立ち会う悲しみを避けて、
ブッダが入滅する3ヶ月前に入寂したと伝えられています。
その説にしたがえば、すでに死去していて「涅槃図」には描かれていないことになります。

ちなみに、同じく比丘尼となっていたヤソーダラーはどうしていたのでしょうか。
夫が死の床にあり息子のラーフラがその枕元にいたとき、
彼女はどんな状況にいたのか気になったのですが、筆者の調べたかぎりではわかりませんでした。

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ところで、マーヤーに危篤を知らせ、案内しているのはアヌルッダ(阿那律尊者)です。
また、前回触れましたが、アーナンダ(阿難尊者)を介抱し、励ましているのも
アヌルッダ(阿那律尊者)です。
つまり、1人の人物が、同じ絵の中で、複数描かれているわけです。
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これは、絵巻などでよく使われる「異時同図法」というやつですね。

時間が異なる場面は、
絵本や紙芝居であれば、複数のページや場面に割りふって描きます。
マンガであれば、複数のコマに分割して描きます。
絵巻でも、基本的には複数の場面に分割して描きますが、
同じ場面の絵の中に描きこむことがある。
だから同じ人物が、「分身の術」のように絵の中に複数描かれることになります。

掛け軸絵のように1枚の絵の中でこれを使うと、
不自然に感じられることがあるかもしれません。
しかし、「絵解き」として語る場合には、
「異時同図法」を多用しても、まったく違和感がありません。

おはねざしでその場面の部分の絵を指し示して注目を促すと、
それが、いわばズームアップのはたらきをします。
そうして物語の展開や時間の推移を語りながら、
次々に場面を指していくことで、コマ割りと同じような表現になるんですね。

もっとも、この「大涅槃図」では、2人の服装も顔つきも異なっているようなので、
絵の作者は、マーヤーを案内した人物とアーナンダを励ました人物を
別人として描いているかもしれません。
マーヤーを案内したのはアヌルッダ(阿那律尊者)ではなく、
やはり弟子のひとりのウパーリ(優婆離)であるという話も、中国・敦煌の写本などにあるそうで、
そうした伝承の違いがあるものと思われます。

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さて、そして摩耶夫人(マーヤー)の物語が語られます。
先にも触れた薬を入れた包み袋の話です。

忉利天で暮らしていた摩耶夫人のもとに、ブッダ入滅が知らされ、
何とかして救おうと、霊薬の入った錦の薬袋をもって駆けつけたものの、
鳥たちがじゃまをして、地上へ降り立つことができない。

そこで「エイッ」とばかりに投げ下ろしましたが、
それが運命だったのか、薬袋は沙羅双樹の枝に引っかかってしまい、
ブッダはついにその薬を口にすることがかなわなかったということです。
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この袋包みには、もうひとつの説があるそうです。

死を悟ったブッダは、最後にアーナンダ(阿難尊者)に教えを説き、
自分の唯一の持ち物である錫杖(杖)と、托鉢のための鉢を包んだ袋を
アーナンダに託します。
それが、サーラの樹の枝に引っ掛けられているというのです。

手の届かないような高さに掛けられていることを考えれば、
この絵では、前者の説で描かれているといえます。
しかし、袋包みと錫杖がセットになっていることを考えれば、
後者の説で描かれているといえます。
これは、どちらでも解釈できるように描かれているのではないでしょうか。

ひとつの絵から、いろいろな解釈や物語を紡ぎ出し、
いろいろな想像を誘ってくれるのも、「絵解き」の魅力のひとつだと思います。

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そうしてまた、摩耶夫人のもうひとつの物語が語られました。

忉利天で、なぜか悪夢を見続けていた摩耶夫人。
ブッダの入滅を予感します。
そうして、はたしてアヌルッダ(阿那律)が迎えにくる。
いったんは気絶したものの、気をとり直し、
「生まれて7日であちらの世を去り、
この手で抱きしめてあげられなかったことが心残り、
わが息子を抱きしめてあげたい」
と、クシナガラへ向かうのでした。
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かつて、ブッダが、生きとし生けるものすべてに対して慈悲心を持ちなさいと法を説いたとき、
そのたとえとして述べられていたのは、
「母が己(おの)が独り子(ひとりご)を命を賭けて護るように」
という言葉でした(1)
母親が命を賭けて子どもを護るように、他の人や生きものを慈しみなさいというのです。

まさしく、この場面で語られているのは、
母親が子どもを命を賭けて護ろうとする、美しく感動的な姿です。

しかしながら、ここでもまた、わたしたちの耳には、再び、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような日本人的な仏教解釈があるのではないか、
という池上洵一さんの言葉が聞こえてくるように思います(2)

父性的な論理よりも母性的な情緒を好む傾向が、わたしたち日本人にはあって、
それが、摩耶夫人の物語をいくつも語り伝えているのかもしれません。
それは美しいものですが、そこには危うさをはらんでいるとも言えます。

慈悲の愛は尊いものです。
が、しかし執着に過ぎれば、盲目となる。
「子への思いに迷う」こととなる。
愛するものを失った時には執着から離れられず、
時には憎しみとなったり、絶望となったりもする。

駆けつけた摩耶夫人。
が、その時すでにブッダは事切れたあとで、棺の中でした。
その安置された金の棺にすがって、夫人が泣き崩れたときのようすが、
「摩訶摩耶経」という経典に書かれていて、
それが「今昔物語」にも綴られています(3)

それによれば、摩耶夫人の悲しみようは激しく、
遺品の衣と錫杖を右手に持って地面に投げたので、
ガッシャーンとでも響いたのでしょうか、大きな山が崩れるような音がしたといいます。
半狂乱と言ってもいいと思います。

すると、突如、すでに入滅したはずのブッダがその神通力をもって、
棺のふたを開け、身を起こして立ち上がる。
そうして、千の光を放ちながら合掌して夫人に向かい、
嘆き悲しみたまうことなかれ、すべてのことは無常なのだからと
真理を説いたというのです。

生まれたものは必ず滅ぶもの。もろもろのすべては無常である。
それを覆すことはできないものなのだ。
それはこの「涅槃図」の物語の中でブッダがくりかえし語っていたことであり、
入滅の際に弟子たちへ語った最後の言葉でもあります。
その師の言葉をもってアヌルッダは、アーナンダや他の弟子たちを励ましていました。

すると、その言葉を聞いた摩耶夫人の顔が、蓮の花のように和らいでいく。
それを確かめて安心したのか、
ブッダは、再び棺の中に身を隠し、棺のふたは元のようにしまったということです。
この場面は、「釈迦金棺出現図」という絵のモチーフとなっているのだそうです。

愛情と、愛著(執着する愛情)の違いは何なのか、その境がどこにあるのか、
筆者にはなかなかわかりません。
しかし、おそらく摩耶夫人の愛情が、愛著へと変わろうとしていた。
「子への思い」が、「子を思うがゆえの迷い」に陥ろうとしていたのでしょう。
そのとき、ブッダが涅槃の中から出現する。

そうして彼が母親にかけたのは、慰めの言葉ではありませんでした。
ではなく、理を説くことによって、夫人の迷いが消えていく。
救われることになる。

ここには、救済を得ようとする情緒的な母性と、
真理を求めようとする論理的な父性とが結合したかたちがあります。
そしてここにおいて、物語が完結を迎えるように、筆者には思われます。

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もしも人の死にざまが、その人の生きざまを写すとするならば、
ブッダの「涅槃」を描いたこの絵と物語は、
ブッダの生きた様(さま)を語っているのでしょう。
そしてそれを語る「絵解き」もまた。

「涅槃(ニルヴァーナ)」とは、
もともとは「火を吹き消す」という意味だそうですね。
そこから、煩悩を吹き消して、安らぎを得る悟りの意味となる。
そこから、命の火を吹き消す意味にもなった。

かくてブッダの命の火は吹き消され、
物語を語り継ぐための燭台の火も吹き消されることとなります。
が、「絵解き」を体験した筆者の胸には、
ほっこり、小さな火が灯っているようなのでした。








f0223055_9301752.gifただ単に「涅槃図」の絵をながめたときには、何が描かれているかもわからず、
大きいなあとか、ゴチャゴチャ描き込んであるなあとしか、正直、思いませんでした。
しかし、「絵解き」を体験した後で、改めて「涅槃図」の絵をながめたとき、
感じ方も、おもしろさも、印象が180°変わりました。
構成にしろ筆致にしろ、実によく描かれているものだという感動になりました。

また、ブッダという人への興味も変わってきたようです。
昔は、こうした「絵解き」を楽しみながら、仏教に親しんだんでしょうね。

いやあー、おそるべし、絵解き。

こちら常保寺の「大涅槃図」は、2月15日まで公開しているそうです。
常保寺のHPは、こちら

小林玲子さんは、この2月、長野や富山での口演を予定されているようです。
くわしくは、こちらのブログへ。

また、関東近辺では、2月15日(13時30分より)、
東京・西多摩郡瑞穂町の圓福寺で口演されるそうです。
圓福寺のHPは、こちら



《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(3)「今昔物語集」巻三第33話「仏入涅槃給後、摩耶夫人下給語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店



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そのとき、ブッダの弟子たちは


さて、ブッダの弟子たちの物語が語られます。

ブッダの床のすぐ近く、画面の中央あたりに倒れているのが、
弟子のアーナンダ(阿難:あなん)です。
師を喪うという悲しみの衝撃に直面し、気を失っています。
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何とか意識を取り戻させようと、水をふりかけているのが、
同じ弟子のアヌルッダ(阿那律:あなりつ)です。

やっと目を覚ましたアーナンダに、アヌルッダは言ったそうです。

「アーナンダよ。悲しんではいけない。嘆いてはいけない。
尊師はあらかじめ、おっしゃっていたではないか。
すべてのことは無常であり、愛する人とも別れなければならないときがくると。
おまえには、今、しなければならないことがあるのではないか?」

それを聞いたアーナンダは、はっとします。

アーナンダは、ブッダの近くにつかえて、その言葉を誰よりも聞いた人でした。
そのため、弟子の中では、
いちばん多く聞いた──「多聞(たもん)第一」といわれています。
これからブッダ亡き後、教えを守り、人々に伝え、後世に伝えるためには、
ブッダの言葉を文字に書きとめることが必要です。
その仕事のいちばんの適任者は、「多聞第一」のアーナンダをおいて他にはいないのです。

そこでアーナンダは心を落ち着け、横たわったブッダにたずねます。
「これから、尊師のお言葉を書き残そうと思うのですが、
最初の書き出しは、どう書いたらよいでしょう?」
すると、ブッダは答えたそうです。

「アーナンダよ。まず『如是我聞(にょぜがもん)』と書きなさい」

「如是我聞」──「わたしは、このように聞いた」という意味です。
「わたし」とは、アーナンダのこと。
アーナンダが、「わたしは、お釈迦さまの言葉をこのように聞きましたよ」といって
書きとめたものが、後世の今に残るお経なんですね。
そうして、一般に、お経の最初は「如是我聞」で始まるのだということです。


その後、アーナンダは、ラージャガハの郊外で、
「結集(けつじゅう)」という会議を開き、
他の弟子たちと記憶を確かめ合いながら、相談をし合いながら、お経を編纂したそうです。

そのお経を求めて、中国の玄奘(三蔵法師)たちが、過酷な砂漠やヒマラヤ山脈を越えて
はるばるインド(天竺)を訪ねたり(「西遊記」)、
日本では、空海(弘法大師)たちが海を越えて中国に渡ったりしたんですね。

もっとも、アーナンダの没後に書かれたお経も、
「如是我聞」で始まるという形式を踏襲したりしているそうです。

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さて、絵の中、ブッダを前にして膝に顔を伏し、
体をふるわせているように見えるのは、ラーフラ(羅睺羅:らごら)です。
彼は、ブッダの長男。
たった一人の子どもです。
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その出生については、いろいろな説があるのですが、
一説には、ラーフラが生まれたその夜、
または、生まれてから7日後、ブッダは出家したといわれています。

幼い子と、母親ヤソーダラー(耶輪陀羅:やしゅだら)を残して出て行った
ブッダの心境はいかばかりだったか。
また、成長して後、自分の父親がブッダであると知った
ラーフラの心境はいかばかりだったか。

──わたしたちにはわかりません。

ただ、少年だったラーフラが、母親(一説には周囲の者たち)に促され、
ブッダに財産の相続を認めてくれるよう、頼みにいったところ、
ブッダはその場では何も答えなかった、と伝えられています。

物質的な財産ではなく、
法の真理こそがわが子に残してあげられるものと考えたブッダは、
弟子のサーリプッタ(舎利弗:しゃりほつ)に託して、
ラーフラを出家に導きます。

そうしてブッダの弟子となったラーフラは、
年若い頃には慢心があって、サーリプッタらの兄弟子を軽んじ、
ブッダに叱られたこともあったようです(1)
が、改心して後には尊敬の念を忘れることなく、また精進して、後世に
「密行第一(細かいことも違わず、綿密な修行にかけてはいちばんである)」
あるいは
「学習第一(よく学ぶことにかけてはいちばんである)」
と謳われるようになりました。

そのラーフラが今、師であり、父であるブッダの死を目の前にしているのです。
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「平安時代に書かれた『今昔物語』には、こんな話があるそうです……。」
と言いおいて、「絵解き」では、「今昔物語」に取り上げられている物語が語られました。

ブッダ入滅の悲しみに耐えきれず、ラーフラはその場を離れ、
神通力で別の世界へ飛び去ります。
が、その世界の仏にさとされて、元の世界へ戻ってくる。
すると、待っていたブッダは、その手を握りしめて、言ったそうです。
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「ラーフラよ。おまえは、わたしの子だ。
十方の仏たちよ。
ラーフラを護りたまえ」
(※「今昔物語」の原文では「哀愍(あいみん)したまえ」と言っています。
「哀愍」とは、悲しみ、あわれむことだそうです。)

「今昔物語」では、この言葉が、ブッダの最後の言葉とされています。

小林玲子さんは、

「このようなお話は、実はお経にはありません。
わたしたち日本人の先祖は、
お釈迦さまも羅睺羅尊者(ラーフラ)も、われわれと同じような
親子の情を持っていたに違いないと思ったのでしょう。」


と、このエピソードをしめくくります。

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「今昔物語」のこの物語のもともとの出典は経典ですが、
経典から派生した説話に拠るところが多く、経典とは違うところがあるようです。
では、もともとの経典の話はどんなものだったのか。

ブッダ入滅のとき、ラーフラ(羅睺羅)は、その場から離れます。
沙羅双樹の林を出て東北に向かい、涙にむせびますが、思い直して帰ってくる。
また別の話では、別世界に行ってそこの仏にさとされ、
さらに上方の別世界に逃げてそこの仏にさとされて帰ってきます。

ここまではだいたい同じなのですが、経典では、
戻ってきたラーフラに「嘆くことはない」と言って、ブッダが語ります。

「おまえは父に対してなすべきことをなし、
わたしもおまえに対してなすべきことをなした。
わたしとおまえはいっしょに、一切(すべて)の人々のために勤めた。
わたしは他の人の父親とはならないし、
おまえも他の人の子ではない。
わたしたちは悩ませ合うこともなく、争うこともない。
すべてのことは無常であり、
そこからただ解き逃れること(解脱)を求めなさい」

というようなことを説いたそうです(2)

つまり、父としての役目、子としての役目を果たして、
父ひとり子ひとりのきずなは変わらないとしても、
師と弟子であり、同じ道を求め行く修行者の立場は変わらないということだと思います。

それに対して「今昔物語」では、「絵解き」に語られていたようなドラマ。
描かれているのは、修行者(修行完成者)としてのブッダではなく、
子を想うひとりの親としての、いかにも人間的な姿です。

「今昔物語」の編者はこの話の終わりに、
仏であっても、父子(おやこ)の関係となれば、ふつうの師弟の関係とは違ってくる、
ましてや世の衆生は、子への思いに迷うものだ、と付け加えています(3)


「子への思いに迷う」──それは、仏教の修行においては否定されることでした。
「スッタニパータ」にはこうあります。

「子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。
筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀(サイ)の角のようにただ独り歩め。」
(1)

この箇所だけを引用すると誤解を招くかもしれませんが、
ブッダは子や妻への愛情を否定しているのではなく、
執着することを避けよと言っているのだと思います。

そう考えると、ブッダが経典でラーフラに語った言葉は、また違って響いてきます。
父親として子として相手を認めつつも、
しかし、余計な枝をからませて、まつわりつかせてはいけない、
まつわりついてもいけない。
わたしが死んでからも、
筍のように、犀の角のように、まっすぐに歩めよと促しているように聞こえます。

それが正しい道なのでしょう。

しかしながら、親子のしがらみにからみつかれて、しがらみに流されて、
子への思いに迷い、情に迷ってもしかたがないじゃないか。
人間だもの。
と、「今昔物語」の編者は、入滅というクライマックスの場面に、
経典にはないこうした説話をわざわざ持ち出してきたんですね。

そこには、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような
日本人的な仏教の理解のし方があるのではないかと、
池上洵一さんが述べられています(4)

確かに、小林玲子さんの切々とした語りを聞いていた筆者は、
思わずこの場面でウルッとしそうになりました。

幼い日に父親に捨てられたラーフラは、父親を恨まなかったのでしょうか。
父親と日々を過ごすことになっても、
おそらく肉親としての親しい言葉はかけてもらわなかったのではないか。
晩年でこそ、ブッダの子である自分を「幸運なラーフラ」と呼んでいますが(5)
嫉妬ややっかみや、世間の風当たりもあったでしょう、
偉大なブッダの子であるがゆえの重圧もあったでしょう。
それが最後の最後に、宗教者としては非難されることも甘んじて、
父親としての情を吐露してくれたのです。

ラーフラにとって、これはうれしかったに違いありません。
筆者は、何だか救われた気になったのでした。

まあ、こんなふうに情緒的に単純に考えてしまった筆者も、
端っこのはしくれながら、日本人なのだということなのかもしれませんね。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(3)「今昔物語集」巻三第30話「仏入涅槃給時、遇羅睺羅語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店
(4)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(5)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラーガーター〜」岩波文庫
   山折哲雄「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書
   石井公成「仏教史のなかの今昔物語集」〜小峯和明編「今昔物語集を読む」吉川弘文館・所収
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ネコだって描いてほしいモン


こうして生きものたちは、一説には52類やって来たといわれているそうですが、
おそらくはもっと、何百、何千とやって来ていたのではないでしょうか。

ところが、わたしたちの身近な動物、ネコだけは、この場に描かれませんでした。
いえ、動物がいっぱいすぎて、絵に描ききれなかったというわけではありません。

どうしてネコが描かれなかったのか。
というのも、こんなお話があるそうです……。

と、「絵解き」では、十二支の話が語られます。

確かに「涅槃図」の絵には、十二支の動物たちがそろっています。

子。ネズミ。
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丑。ウシ。
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寅。トラ。
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卯。ウサギ。
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辰。たつ。りゅう。
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巳。ヘビ。
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午。ウマ。
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未。ヒツジ。
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申。サル。
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酉。ニワトリ。
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戌。イヌ。
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亥。イノシシ。
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けれどネコは、ネズミに意地悪をされたために、ブッダの最期に間に合わなかった。
駆けつけた順番で十二支が決まったので、その十二支にも入れなかったという話です。

以来、ネコはネズミを恨んで、姿を見かけるたびに
追いかけ回すようになったとうことです。

この話は、日本に伝えられている昔話にもなっています。
(関敬吾の分類によると「十二支由来」の動物昔話に含まれます。(1)

絵解きの語りは、仏教の経典がもとになっていますが、
そこから派生したインドや中国の仏教説話、
さらに日本の民間伝承や昔話なども取り込まれているようです。

難しい話ばかりでなく、
お寺にあまり馴染みのない筆者のような素人にも
わかりやすく、おもしろく語ってくれるんですね。

小林玲子さんが語り出すと、絵の中の人物や動物たちが
いきいきとした表情を持っているように見えるのが不思議です。

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また一説には、こんな話もあるようです。

後述しますが、このとき、ブッダの生母である摩耶夫人が、天上から降りて来ます。
そして、ブッダを救うための霊薬の入った袋包みを投げ下ろす。
ところが、途中、沙羅双樹の樹の枝に引っかかってしまいます。

そこで、ネズミがスルスルと樹を登って取りにいこうとしたところ、
日頃のクセでしょうか、ネコが追いかけてじゃまをしてしまう。
そのために薬は間に合わず、ブッダが入滅を余儀なくされることとなり、
ネコは「涅槃図」に描いてもらえなくなったというのです。

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さて、ところが、全国にある「涅槃図」の中には、
ネコが描かれているものもあります。
小林玲子さんがよく「絵解き」をされる長野・善光寺世尊院釈迦堂所蔵の「釈迦涅槃図」でも、
ネコが絵に登場しているそうです。

なぜネコが描かれている絵があるのか?
それには、こんなお話があるのだとか。

京都・東福寺には、15m×7.3mという巨大な「涅槃図」があります。
それを描いたのが、吉山明兆(きつさん・みんちょう)というお坊さんの画家です。

彼が、その「涅槃図」の制作中、赤い絵具が足りなくなって困っていたとき、
一匹のネコが、袖を引っぱって裏山の谷へ連れて行く。
そこには絵具の材料となる赤い土があり、感激した明兆が、
ネコの姿を「涅槃図」の中に描き添えてやったというのです。

一説には、裏山の谷からいろいろな染料をくわえてきて手伝った、
お釈迦さまの口紅の色に悩んでいると、ぴったりな色を探して来てくれた
などとも言われているようです。

いずれにしろ、今でも東福寺「涅槃図」の中には、
描いてもらって、ちょっぴりうれしそうなネコが、
しっかりチョコンと座っています。

▼京都・東福寺「涅槃図」(明兆作)部分
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こちら、常保寺の「大涅槃図」にも、
実は、ネコらしき動物が描かれています。
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小林玲子さんは、これはネコではないのではないかしらと
おっしゃっていたのですが、
筆者には、どうもネコのように見える気がしないでもありません。
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こちらの正面を見て口を少し開いている謎の生物は、
はたしてニャアと鳴いているのか、それとも……?

──まあ、ネコであれ、ネコではない動物であれ、
たとえ死に際に駆けつけなかったからといって、
あるいは、薬を飲むのをじゃましたからといって、
お釈迦さまは、生きとし生けるものすべてを
けっして見捨てたりはしないということには変わりがないのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)関敬吾「日本昔話集成 〜第一部・動物昔話〜」角川書店
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駆けつけて来た動物たち


悲報を知って、ブッダのもとへ駆けつけてきたのは、
人間や神々ばかりではありませんでした。
生命あるもの──動物や鳥や虫たちもやって来ます。
魚たちは、もしかしたら、すぐ近くの
ヒラニヤヴァティー河あたりへ来て待機していたかもしれませんね。

ゾウは、悲しみの衝撃に打たれて、
「阿」の形の仁王さまと同じように、地に倒れ、のたうちまわっています。
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龍も、茫然自失のようすで空を仰ぎ、途方に暮れているようです。
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百獣の王・獅子(ライオン)もうつむいて、うずくまっている。
伝説では中国に住むといわれる麒麟(キリン)も、はるばるインドまでやって来たのでしょう、
沈痛な面持ちで、一点を見つめています。
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クマや、ネズミや、カエルたち。
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ツルや、クジャク、ニワトリ、オシドリなどの鳥に混じって、
迦陵頻伽(かりょうびんが)の姿もあります。
迦陵頻伽は、上半身が人間、下半身が鳥で、極楽浄土に住み、
非常に美しい声で鳴くそうです。
彼女が手にしているのは、もしかしたら
マンダーラヴァ華(曼荼羅華、デイコ)の花でしょうか?
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カメや、スッポン、海辺や川辺の貝たちも上陸してここまでやって来たようです。
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チョウや、ガも、ここまで飛んで来ています。
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この他、ラクダやカラス、ムカデに至るまで、
多くの生きものが、ここクシナガラのサーラの林にやって来て、
偉大なる死を悼んだのでした。

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駆けつけて来た神々


さて人々がクシナガラへ駆けつけて来たとき、
実はその時すでに、ふつうの人間の目には見えないものの、
世界中の神霊たちがこの地へやって来ていました。

沙羅双樹の林の周囲12ヨージャナ(由旬)=約86km四方を取り囲み、
うさぎの毛の隙き間もないほどにひしめき合っていたそうです(1)

そのようすが、「涅槃図」に描かれています。
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よく知られている仏教関連の神々が登場していて、
さながらオールスターズ総出演。

「涅槃図」の中には名前を書き込んでいるものもあるのですが、
大半は、こちらの「大涅槃図」のように名前が書いてないため、誰が誰だかわかりませんね。
梵天や帝釈天といった天部の神々もいらっしゃると思います。

仏法を守護する八部衆の姿も見えます。
あくまでも筆者の推定でみていくと、
蛇を頭に載せて嘆いているのは、
摩睺羅伽(まこらが)〈=摩睺羅(まごら)ともいう〉だと思われます。
三面六臂(3つの顔に6本の腕)の真っ赤な姿は阿修羅でしょう。
象の冠をつけている青い肌は、五部浄(ごぶじょう)。
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下の絵の部分、鳥の顔をしているのは、迦楼羅(かるら)、
獅子の冠をつけて涙をぬぐっているのは、乾闥婆(けんだつば)、
額に縦の目をつけて3つの目を持ち、頭に角をはやして合掌しているのは、
おそらく緊那羅(きんなら)かと思われます。
緊那羅は、頭の中央に角が1本なのだそうですが、この絵では2本にも見えるので
違うかもしれません。
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下の絵の部分は、同じく、仏法を守護する金剛力士。
よくお寺の入口でお寺を守っていらっしゃる仁王さまです。
口を結んだ「吽(うん)」の形の金剛力士は、
全体画面の右がわにおわします。
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口を開いた「阿(あ)」の形の金剛力士は、
悲嘆のあまり、全体画面の左がわで地面を転げています。
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また、もちろん、文殊菩薩や普賢菩薩らの菩薩たちもやって来ていました。
ブッダの床の近くにおられるのが、地蔵菩薩です。

「絵解き」では、涅槃に入りゆくブッダが、地蔵菩薩に語ります。

自分の死後、56億7000万年後、
この世界を救うため、弥勒菩薩が出現する。
それまでおまえは、
如来(修行完成者)とはならずに、
菩薩(修行者)のままで、
苦しむ衆生(しゅじょう=生命あるすべてのもの)を救いさない、と。
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そうしてブッダから託された地蔵菩薩は、
どこにでもいて、わたしたち衆生を助けてくれるのだそうです。

もしも不幸にして、将来、地獄の方へ滞在しなければならないようなことになったら、
あちらでわたしたちを助けてくれるのもお地蔵さまです。

地蔵菩薩は、超越者とはならずに、
低俗な問題で悩んだり、いじけたりもする
愚かなわたしたちのそばに寄り添ってくれる存在なんですね。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダ最後の旅 〜大パリニッバーナ経〜」岩波文庫
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