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順勝手と逆勝手──空間表現から心理的な表現へ


物語が展開する流れの方向に対して、順(したが)う表現が、「順勝手」。
逆らう表現が、「逆勝手」です。
これらは、一般的には、空間的な表現となります。

たとえば、「行って帰ってくる」という構造の物語。
この構造は、昔話や童話やファンタジーなどに広く見られるものです。
(参照:当ブログ「『行って帰ってくる』物語」

古典的ともいえる絵本、ワンダ・ガアグ作「100まんびきのねこ」(1)も、
「行って帰ってくる」の構造を含んでいます。

年をとったおじいさんとおばあさん。
二人だけではさびしいと、飼う猫を一匹探すため、
おじいさんが丘を越えて谷間を越えて出かけていきます。
「行って帰ってくる」の「行って」の場面です。


「100まんびきのねこ」(1)の部分を模写スケッチ

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この模写スケッチでは割愛しましたが、
上図の左のページには、おじいさんとおばあさんの家、
そしておじいさんの歩いた道が丘や谷間をぬって描かれています。
道は、左下のおじいさんの家を起点として右上へと伸びていきます。
その途中に、右を向いて歩くおじいさんの姿があります。
これは横書きの絵本(左開きの絵本)ですから、展開する方向は右向き。
おじいさんは、順勝手の右方向へ進んでいるわけです。

道とそれを取り巻く畑や森や丘、そして空が、ややS字を描きながら、
左下から、対角線上に右上へと向かい、連なっている。

そして、いちばん右の端の雲はだんだん小さくなって遠く彼方へ続いていき、
さらに、その下の道も、遠く彼方の山へ越えて続いているのがわかります。
手前から遠くへという距離感が、実にうまく描かれている。

これは、人の目線の意識は、左下の手前から右上の奥へ移行するという
「グランス・カーブ理論」にぴったり符合します。
(→参照ページ

おじいさんの歩く道とその周辺の丘や林や空の雲は、グランス・カーブの通り、
左下の手前から、右上の奥へと続いているわけです。

そして、その道をたどる読者の目線もグランス・カーブを描き、
道のその先には、何が待っているのだろうと、
右上の奥の彼方に思いを馳せて、ページをめくることになります。

1946年に没した作者のワンダ・ガアグが、
1950年に発表されたグランス・カーブ理論を知っていたとは思われません。
これは、絵本を読む目線を熟知していた絵本作家がその直感に従って描いた絵が、
理論の通りだったということなのでしょう。

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そうして、猫のいっぱいいる丘にたどりついたおじいさんは、
猫をいっぱい引き連れて、家へ帰ります。
「行って帰ってくる」の「帰ってくる」場面です。

空間の方向としていえば、右へ行って、帰ってくるのですから、
その帰りの方向は、左へ向かわなければなりません。
つまり、「逆勝手」。

だから、帰り道の場面を、逆勝手で描く絵本の作品も多いです。
「かいじゅうたちのいるところ」(2)でも、
かいじゅうたちのいる島から、主人公マックスがヨットで帰ってくる絵は、
逆勝手で描かれていました。
後述しますが、絵本作家ブルーナの作品は、ほとんど、
帰ってくる場面が逆勝手で描かれています。

が、この「100まんびきのねこ」の物語では、帰り道の途中で、
猫たちが水を飲んだり、草を食べたりするというエピソードが
6ページにわたって描かれます。
帰り道であっても、事件やエピソードや、そうした物語の展開がある場合、
意識としてはまだ旅の途中であるでしょう。
この帰り道の6ページは、まだ旅を進んでいるという意識として、
右へ進む「順勝手」で描かれるのが、やはりふさわしいと思います。

また、行く道では、左から、右へと描かれていたのに対し、
帰り道では、左から、右へと描かれます。
丘を下っているのだというイメージが加えられ、
順勝手であっても、帰り道だというニュアンスが伝わってきます。

そうして、ようやく家へとたどり着く場面。
ここで、ようやく
おじいさんと猫たちは、左を向いた「逆勝手」で描かれます。


「100まんびきのねこ」(1)の部分を模写スケッチ

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こちらの模写も、右のページを割愛しました。
見開きで見ると、模写の絵の右に、
おじいさんに付いてきた1兆匹(!)の猫たちが並んでいます。

読者の視線は、やはり、左から右へ。
まず、帰って来たおじいさんと、迎えるおばあさんを見ることになる。
それから、あらあら、こんなにいっぱい付いて来ちゃったのか、
どこまで並んでいるんだろうと、
延々と列をつくる猫たちを、右の方向へながめていくことになります。

帰宅の場面が、逆勝手というのは、物理的な方向の通りなのですが、
心理的・象徴的にも合致することになります。

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左方向は、「内」であり、「ホーム」であり、
外へ旅して、ねこたちを連れてきたおじいさんは、
その「ホーム」へ帰って来たことになります。


これは、絵本を紙芝居化した
高橋五山脚色の「ひゃくまんびきのねこ」(3)でも同じです。

紙芝居は、左向きに展開するメディアですから、
猫を探しにおじいさんは、左へ進み、順勝手の通り、「行き」ます。
そして1兆匹の猫を連れて家へ「帰って」くる9場面は、
おじいさんたちが右へ進む逆勝手で描かれています。

本来のグリュンワルドの象徴図式とは左右が逆になるわけですが、
ここでは、物語が展開する流れに引っぱられ、
左が「外」で、右が「内」になると、筆者は考えます。
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紙芝居に触れましたが、
物語の展開の流れが、右から左へ向かうメディアの場合でも共通です。
紙芝居や絵巻、また、文章が縦書きの絵本(右開きの絵本)などでは、
「行って帰ってくる」の「行って」の順勝手が、左方向となります。

せなけいこ作「うさぎちゃんつきへいく」(4)は、文章が縦書きで、
表紙が右にある絵本。
主人公うさぎちゃんが、宇宙人の円盤に乗って月へ「行く」場面は、
左へ向かう順勝手で描かれます。


「うさぎちゃんつきへいく」(4)の部分を模写スケッチ

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※絵本の原画は、貼り絵の独特な味わいが楽しいものですが、模写では伝えられません。スイマセン。

そして月へ「行って帰ってくる」、その「帰ってくる」場面は、
右の地球へ向かう逆勝手で描かれます。
円盤の向きと、流線がどちらに付いているかで、
飛んでいる方向の右左がわかりやすく描き分けられています。


「うさぎちゃんつきへいく」(4)の部分を模写スケッチ

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さてしかし、この「行って帰ってくる」の「帰ってくる」のところが
逆勝手ではなく、順勝手で描かれる場合もあります。

絵本の「はじめてのおつかい」(5)もそのひとつです。

同名タイトルのテレビ番組もそうですが、
子どもたちの「初めてのおつかい」という体験には、
「行って帰ってくる」冒険の、原初的な、典型的なかたちがあると思います。

その大きな冒険に立ち向かう主人公みいちゃんのドキドキ感が、
絵本には巧みに描かれています。

そうしてみいちゃんが、牛乳を買ってくるという使命をやり遂げた、帰りの場面。
みいちゃんを迎えに家の近くへ出たお母さんの待つ場所へ、
走って向かっているところです。

この場面では、みいちゃんは家に帰り着いて、ホッと安らいでいるわけではありません。
まだ冒険の途中。
ここは、順勝手で描かれるのがふさわしいでしょう。


「はじめてのおつかい」(5)の部分を模写スケッチ

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いわば冒険のゴールである、お母さんの待つ場所は、
象徴的に、「目的」「未来」である右端に位置しています。
しかも、右「上」。

物語の設定では、買い物をするお店は、坂のてっぺんにあり、
みいちゃんの家は坂の下です。
お母さんは坂の下で待っています。
わかりやすく描こうとすれば、お母さんを画面の右「下」に描いたことでしょう。

右「下」は、グリュンワルドの象徴図式では、
「敗北」とか「取り消し」などの意味が与えられている方向でもあります。
もしも、お母さんが右下に描かれていたらと筆者が想像すると、
物語が終息するというイメージが濃くなると思います。

しかし、絵本画家の感性は、
お母さんというゴールを、画面の右「下」に描くことを拒んだのかもしれません。
アングルを変えることで、まったく自然に、
坂の「下」にいるお母さんが、画面では、右「上」に位置して描かれます。
そしてそのことによって、画面は、グランス・カーブ理論の
「グランス・カーブ」の構図を描くことになりました。

ゴールのお母さんが右上に描かれることによって、
読者の子どもたちは、みいちゃんといっしょにラスト・スパートする高揚感とともに、
やり遂げるという気持ちを共有するのだと思います。

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「行って帰ってくる」の構造を含む物語において、
主人公は、

「行って」→《順勝手の右向き》
「帰ってくる」→《逆勝手の左向き》

──という動きで描かれる(左開きの絵本の場合)。

このことを、絵本作家ブルーナは、
まるでルールのように、非常に律儀に遵守しています。

それには、年齢の小さな子どもたちを対象にしているため、
あくまでもわかりやすくという配慮があるのでしょう。

ミッフィー(うさこちゃん)のシリーズから例をあげれば、
たとえばこんな具合。

「うさこちゃんとゆうえんち」(6)
◎うさこちゃん(ミッフィー)、とうさん、かあさんの3人が自動車に乗って
遊園地に行く→《順勝手の右向き》
◎3人が自動車に乗って、遊園地から帰ってくる→《逆勝手の左向き》

「うさこちゃん ひこうきにのる」(7)
◎うさこちゃんがおじさんに、飛行機に乗せてもらう→《順勝手の右向き》
◎「そろそろ帰ろうか」とおじさんが言って、飛行機で戻ってくる→《逆勝手の左向き》

「うさこちゃんとじてんしゃ」(8)
◎うさこちゃんが、自転車で遊びに出かける→《順勝手の右向き》
◎時間が遅くなってきたので、坂道を下りて帰る→《逆勝手の左向き》
帰る坂道を下りるときに転ぶ→《逆勝手の左向き》
帰り道の途中で雨が降ってくる→《逆勝手の左向き》

ミッフィー(うさこちゃん)のシリーズ以外でも、
ブルーナ作品では、こうしたルールが守られています。
ところが、このルールに反する例外中の例外ともいうべき作品があります。
「こねこのねる」(9)です。

子猫の「ねる」は、
うさこちゃんや、子犬のくんくん(英語名:スナッフィー)、子熊のボリスなど、
ブルーナの他のキャラクターたちが、シンプルな点々な目なのに対し、
いかにも猫らしい猫目をしていて、ちょっと変わった印象です。

その彼女が魚に乗って、インディアンのいる国へ出かけるとき、
逆勝手の左向きに描かれるのです。


「こねこのねる」(9)の部分を模写スケッチ

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彼女の後を追って、3羽の鳥がついていくのですが、
彼らもやはり、逆勝手で左に向かって空を飛んでいます。
インディアンの国は、左方向にあるらしい。
が、インディアンの国から帰ってくるときもまた、逆勝手の左向きに描かれます。

「行って」→《逆勝手の左向き》
「帰ってくる」→《逆勝手の左向き》

となっているわけです。

空間的な整合性に欠けています。
ブルーナの作品に親しんでいる読者であれば、違和感を感じるはずです。
これは、なぜなのでしょう?

物語を見てみると、「こねこのねる」は、その個性的な目だけでなく、
他の作品群と異なっていることがわかります。

ブルーナの作品は、子どもたちの現実に根ざしたモチーフを
扱っていることが多い。
うさぎが服を着て言葉を話すということ自体は、非現実的ですが、
扱っているモチーフは、
「海へ遊びにいく」(10)
「赤ちゃんが生まれてお姉さんになる」(11)
「大事なものをなくしてしまい、探しまわる」(12)などなど、
小さな子どもたちの生活に密着したものです。

「外国人と友だちになる」(13)
「万引きをしてしまう」(14)
「祖母が死ぬ」(15)など、
一般的とは言えないかもしれない特殊なケースもありますが、
現実にあり得ないことではありません。
「異文化交流」「罪」「死」というようなテーマは、
子どもたちの生活や人生を考える上で大切なことであるでしょう。

それらに対し、「ねる」の物語は、
まるっきり非現実的なファンタジーです。
「インディアン」の人々も、ネイティブ・アメリカンとしてではなく、
架空の国のキャラクターとして登場します。

ブルーナ作品では、「空想」も大事なテーマですが、
「ねる」以外の作品群では、「空想」そのものよりも、
「空想する」という子どもの行為が主眼となっています。
たとえば、
「魔法が使えたらなあ」(16)
「おかしの国へ行けたらなあ」(17)
と、想い描いて空想する子どもの姿が描かれる。
“空想好き”という特性をもつ子どもたちの現実が描かれるわけです。

対して「ねる」が抱いた望みというのは、
インディアンのおじさんに会いたいという、幻想へのあこがれです。
彼女が今まで会ったことのない人物──「今、ここ」には存在しない人物へのあこがれ。
その幻想への道行きが、逆勝手に描かれるんですね。

ここには、猫が魚に乗って行くというような、チグハグさを楽しむ、
ナンセンスのおもしろさもあります。
そのために、わざと逆さまの方向である左へ向かわせたと考えられなくもありません。

が、ここで作者は、逆勝手に描くことで、空間的な整合性をあえて破り、
心理的な表現を意図したと考えることも出来るように思うのです。
逆勝手の方向である左は、内なる方向であり、
内なる無意識へ沈潜した向こう側に、幻想があります。
その方向へ、子猫のねるは、「行く」わけです。

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幻想という点では、ちょっと似たような表現を、たとえば、
絵本「ちいちゃんのかげおくり」(18)に見ることが出来ます。

この絵本は、文章が縦書きなので、左向きに展開します。
仲のよい4人家族。
けれど、戦争のために、父は戦場に送られ、
残った母、兄と、幼いちいちゃんは空襲に見舞われます。
混乱の中、ちいちゃんは母や兄とはぐれた末に、
近所のおばさんに連れられ、今は廃墟と化している家のあった場所へ帰ってくる。
が、そこでひとり、1日待っても、2日待っても、
母も兄も帰って来ないところをみると、もう亡くなっているのでしょう。
そして朝、ちいちゃんは空のいろの花畑に立っている。
──と、ここまでが基本的に、左向きの順勝手で描かれます。

そして、はるか向こうに父、母、兄の姿を見つけて、
ちいちゃんが花畑の中を駆け出す。
この場面のちいちゃんが、右方向へ向かう、逆勝手で描かれるのです。

空いろの花畑に立っている時点で、ちいちゃんは幻想の中にいるのかもしれません。
が、離ればなれになった家族と再会できる安らぎでもあり、
それは“死”でもある幻想の最奥部の場面で、
ちいちゃんは、逆勝手に走り出すんですね。

ここは、逆勝手に描かれなければならなかったと思います。

そうして次のページ──
「小さな女の子のいのちが、空にきえました。」という場面には、
廃墟の中、ちいちゃんが左向きの順勝手に突っ伏している現実の姿があります。

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順勝手に描くか。
逆勝手に描くか。
──は、基本的に空間的な表現としてあるわけですが、
そこに、主人公の気持ちや、作者の意図をあらわす心理的な「表現」を
読み取ることが出来ます。

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《引用・参考文献》
(1)ワンダ・ガアグ文/絵、いしいももこ訳「100まんびきのねこ」福音館書店
(2)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(3)ガァグ原作、高橋五山脚色、川本哲夫絵「ひゃくまんびきのねこ」童心社
(4)せなけいこ「うさぎちゃんつきへいく」金の星社
(5)筒井頼子作、林明子絵「はじめてのおつかい」福音館書店
(6)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「うさこちゃんとゆうえんち」福音館書店
(7)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「うさこちゃんひこうきにのる」福音館書店
(8)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんとじてんしゃ」福音館書店
(9)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「こねこのねる」福音館書店
(10)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「うさこちゃんとうみ」福音館書店
(11)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんとあかちゃん」福音館書店
(12)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんのさがしもの」福音館書店
(13)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんとにーなちゃん」福音館書店
(14)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんときゃらめる」福音館書店
(15)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん」福音館書店
(16)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんまほうをつかう」福音館書店
(17)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「おかしのくにのうさこちゃん」福音館書店
(18)あまんきみこ作、上野紀子絵「ちいちゃんのかげおくり」あかね書房

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