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Kamishibai・イズ・コミュニケーション・03

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演じ手と観客はキャッチボールをしている





2、「文章を読む間」について

歌舞伎の名優が、「間(ま)」は「魔」に通じるなんてことを言ったそうです。
確かにそうなのかもしれません。

名優でも何でもないわれわれ凡人が考えても、そうなのかもしれないと思ってしまいます。
お笑いでは、同じネタでも、間のタイミングひとつで、ウケたり、ウケなかったりする。
演劇では、間のとり方によって、芝居が生きたり、死んだりということがあるのでしょう。

文字通り、「間」が人の死を招いたケースもあります。
落語家が「間がとれない」といって悩み、自殺をしてしまった(1)
「間」というやつは、悪魔的な「魔」の顔を持っているのかもしれません。

この歌舞伎の名優というのは、六代目尾上菊五郎さん。
そのエッセイ「藝」の中に、
「おぢさん」と呼ばれる、彼の師でもある九代目市川団十郎の言葉が次のように書かれています。

「踊りの間(ま)と云うものに二種ある。
教えられる間と教えられない間だ。
取分け大切なのは教えられない方の間だけれど、これは天性持って生れて来るものだ。
教えて出来る間(ま)は間(あいだ)と云う字を書く。
教えても出来ない間は魔の字を書く。
私は教えて出来る方の間を教えるから、
それから先きの教えようのない魔の方は、自分の力で索(さぐ)り当てる事が肝腎だ。」
(2)

つまり、口で言えない。
理屈ではない。
他人に言葉では伝えにくい。
そうしたなんともいえない「間」というのがあって、それが「魔」だというんですね。
しかしこの独特の感覚は、確かに観客に伝わるもので、
だからこそ観客は演じ手の「間」に魅了されたりもするわけです。

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こうした踊りや日本の伝統音楽では、「間」の時間の間隔はきっちりと決まっていません。
西洋音楽では、四分休符、八分休符など、休止の長さはある程度定められています。
が、日本の音楽では伸び縮みする。

20数年前、機械的に、正確無比にリズムを刻むデジタルな技術が音楽に使われだしました。
いわゆる“テクノ”と呼ばれる音楽が登場した頃。
当時雑誌の企画で、詩人・評論家の吉本隆明さんが、
デジタル技術を使って作曲をするという試みがありました。

デジタルでは、0.01秒の単位でリズムを構築し、「間」の長さもきっちりと測られる。
そんな中、音楽では素人の吉本隆明さんは、とまどいためらいながら、
自分の間合いを測りながら、音を出していった。
そのようすに、案内役の坂本龍一さんは日本的なものを感じています。

「どっちかというと、日本の音楽というのは、間合いを測って、
呼吸とともにフッと出してやるというのが、ほんとうは確かにあると思うんですね。
そればっかりじゃないけども、そういう特徴があると思うんですね。
どちらかというと、リズムがくっきりした、
……つまり、その場合は出す一つながりがためらいまで含めて、一つの音だと思うんですね。」
(3)

「間」はデジタルで数量的に測れない。
そもそも日本の音楽では、リズムということ自体、変幻自在な柔軟性を持っているらしく、
「間」となると、いよいよ捉えがたい「魔」らしさが伴ってくるようです。

紙芝居でも、この「間」というやつが大事なのだと思います。
といって、筆者は「間」がわかっているわけではありません。
まあ、勉強中の“間”抜けの身ながら、筆者なりに、
“間”違う危険を承知で、
“間”に合わせの思案のままに、
ちょっと考えてみようかと、ま、そう思う次第なわけです。

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で、この「間」というやつ。
これは、呼吸でもあるんだろうなあと筆者は思います。

アジアや中東、オーストラリアなどの民俗楽器の笛には、
息つぎなしにえんえんと演奏する“循環呼吸”というテクニックがあるそうですね 。

タレントの黒柳徹子さんなんかも、息つぎなしでえんえんとしゃべり続けることができる。
もっとも黒柳さんのおしゃべりを機械で調べると、常人では気づかないほどの短さで息を吸っているのだそうですが。

しかし、そうしたスーパー・テクニックの持ち合わせのないわれわれは、語る途中で息を吸わなければならない。
この息を吸うときに「間」ができます。

邦楽の演奏では、この息を吸うポイントを「引き」といって、重視するんだそうです。
浄瑠璃などの語り物なんかでは、特にこの「引き」の間が意味を持ってるそうで、
いよいよ盛り上げるときなど、声を大きく吐くためには、
息を大きく引いて(吸って)「間」をとる。
また、息を止めたり、ためたりなんてことをする。

邦楽には、テンポやリズム、そして「間」の長さを定める指揮者がいません。

邦楽では、拍子の緩急の度合いは、「程拍子(ほどびょうし)」というそうです。
世阿弥の著書「習道書」によれば、
その「程拍子」を決めてリードするのは、
一座の長であるシテ(=能・狂言の主役)ということになります(4)
浄瑠璃では、「程拍子」を決めてリードするのは、唄を唄う太夫。
共演者、三味線や笛などの演奏者たちは、歌い手に従い、合わせます。
当然、「間」のとり方や長さも、歌い手が決めることになる。
シテや太夫がリードするとは言え、
しかし指揮者のいない邦楽では、
セッションに参加している演者同士の呼吸の合わせ方がことに重要になってきます。

たとえ指揮者がいる西洋のオーケストラであっても、
メンバーの呼吸の合わせ方というのは大切な肝(きも)。
演奏者みんなの呼吸がその場の空気を醸し出し、「間」をつくったり、変えたりもする。

そうしてそれはまた、その空間と時間に参加している聴衆をも巻き込みます。
聴衆の呼吸が場に加わり、聴衆に合わせたような「間」のとり方も生まれてくる。

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たとえば、能楽が開演し、これから舞台が始まるとき。
シテがその第一声を出す瞬間。
客席の隅々まで気を配り、さあ、これから声を出すぞと気構える。
そして観客みんなが、いよいよ始まるぞと待ち構えたその緊張の頂点。
その一瞬間をねらって、声を発するのだと世阿弥はいいます(5)

その瞬間は早くても遅くてもいけない。
その瞬間というのは、
「ただ見物の人の機にあり」
とも書いています。

「機」というのは「気」にも通じる語で、
下腹部のいわゆるヘソ下三寸にある“丹田”というところに力を入れる気合いのようなもの。
これで、息の出入りや緩急──つまり呼吸を調えるのだそうです。

そうした観客の呼吸を感じて、その一瞬の時「機」をとらえ、シテは声を発する。
その瞬間が、その日一日の舞台でいちばん難しく大切な瞬間だと世阿弥は記しています。

昔語りやストーリーテリング、そして紙芝居などの生ライブでは、
こうした聴衆、聞き手との呼吸のやりとりが大きなカギとなると思います。

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ところで、伝統的な昔話の語りでは、聞き手のあいづちというのが重要視されています。
あいづちの仕方が、各地方で決まったスタイルにもなっているそうです。
たとえば、
群馬では、「ふんとこさ」
京都・丹波地方では、「ほーん」
新潟では、「さんすけ」
宮城 では、「げん」
沖永良部島では、「 ふいー」
などなど、定型的なあいづちの仕方が伝えられています(6)

またたとえば佐渡では、「さそ」とあいづちを打ち、
「さそを継ぐ」
という言葉まであって、ふつうの会話でも使われる。
これは、 はなしに身を入れてきくことを意味するのだそうです(7)

語り手がひとこと語っては、「ふんとこさ」とあいづちを打つ。
また、ひとこと、ふたこと語っては、「ふんとこさ」。
また語っては、「ふんとこさ」……。
鍛冶屋さんが鉄を鍛えるときに相棒がくわえる文字通りの“相槌”ですね。

そうしたやりとりは、ちょうどおもちつき。
もちをつく人と、こねる人が、あうんの呼吸で息を合わせて行う共同作業のようです。
語り手と聞き手の共同作業によって、「語り伝える」ということが成立する。

そしてこの聞き手のあいづちは、「なるほど」「そうか」と理解・納得して、
「それで、それで?」「それからどうしたの?」と、語り手のはなしを促すことになります。

青森のある語り婆さは、子どもたちが声をそろえて「はあ」とあいづちを打たないと、
その先を語らなかったそうです。
また、広島のある語り手も、聞き手が「ふん、ふん」というあいづちを忘れると、
よくどやしつけたものだとか。
聞き手はまず、あいづちの仕方やその作法を語り手から教わったといいます(6)

海外の昔語りにも、こうしたあいづちのようなスタイルがあります。
たとえば「クリック・クラック・ストーリーズ」というのは、
語り手が物語の合い間で、「クリック」と呼びかける。
そこで聞き手が「クラック」と返すことで、はなしが進んでいく(7)

また、西アフリカ・モシ族の昔語りの場でも、
「ナーム!(うん)」
という定型的なあいづちの言葉があるそうです。
その他にも、
「ウーム・ヤ!(なるほど)」
「ゲス!(さあ、どうなる)」

といったあいづちのやり方があるといいます。

そこには、あいづちにも名人がいて、
名人級の聞き手がその場にいると、語り手ものってくる。
語りとあいづちの呼吸が合うと、
そのやりとりは文字通り「息の合った」掛け合い漫才のようだということです(8)

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日常の会話でもそうですよね。
相手が「ふん、ふん」「へえー」などとあいづちをしてくれると、話しやすくなる。
興も乗ってくる。
が、タイミングのずれた、間のぬけたあいづちは、話そうとする気を削がれます。

対談番組の黒柳徹子さんを見ていると、あの方は単なる早口のおしゃべりではなく、
実は聞き上手、あいづち上手であることがわかります。
時に驚いてみせたり、感心してみせたり、しかし、ごく自然な、あのあいづちでもって、
ゲストの話しをうまく引き出している。

そのあいづちのタイミングは、話の中でちょっとした「間」が出来るところでもあります。

聞き手は、のべつまくなしに「ふんふん」「へえへえ」とあいづちを打つわけではありません。
話の文章と文章の間(あいだ)、言葉と言葉の間(あいだ)で息つぎをする切れ目。
あるいは、息を切ったり、ためたりして間をあけるところ。
その間隙をついて、あいづちを入れる。
そのあいづちは、相手の言葉を受け取ったという合図でもあるんですね。

一方、語り手の方では、相手のあいづちを促すために間をあけるようなこともします。
間をあけて、相手のあいづちを待つ。
それはちょうど、話しの区切りで
「そうでしょう? ね?」
「そうだろ? な? な?」
などときくのに似ています。
そうしたあいづちを求める言葉は口には出さずに、
けれど、間をあけることによって、あいづちを求めるわけです。

このような呼吸のやりとりは、わたしたちが、ふだんの会話の中で別に意識することもなく、
ふつうに行っていること、つちかっていることでもあるでしょう。

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越後の昔語りでは、「さんすけ」というあいづちがあるそうです。
が、たとえば語り手がはなしを端折ったり、肝心な言葉を間違えたりすると、
聞き手の子どもたちは、
「さんすけばさ、へこいた」
と言って、もう1回やり直してくれるように求めるのだとか(6)

厳しいです。
目の前の聞き手にダメ出しをされるわけです。
が、これほどわかりやすく、当を得たダメ出しはないでしょう。

先ほどの「クリック・クラック・ストーリーズ」では、
聞き手の子どもたちが「クラック」と返事をしなくなると、おはなしはそこでおしまいになります。
この場合は、幼い子どもたちが、そろそろ寝る時間であるのを告げることにもなります。
だんだん、こっくり、こくりと舟をこぎだすと、「クラック」の返事もままならなくなる。
それが、おはなし終了の合図ともなるわけです。

理解できなかったり、つまらない話しだったら、あいづちも滞ります。
「クラック」と返す口も重くなり、話しに身が入らず、
つまり「さそを継ぐ」ことが出来なくなります。
が、逆に、あいづちを返してくれることは、語り手の励みとなる。

語り手があいづちを聞くことは、いわばフィードバック。
聞き手が言葉を飲み込んだというその確認を受けとること。
そうして物語のイメージがお互いの心の中にふくらんでいくのを
確かめながら、確かめながら、語り継いでいくんですね。

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日本の古来からの話芸に、「説経」というのがあります。
もともとは、仏教の寺院などで仏の教えやご本尊のいわれを説いていたのが、
その話芸の魅力で人気を集め、俗世の道端や辻へと飛び出し、芸能としても発達していった。
それが、「山椒大夫」や「小栗判官」などの「説経節」「説経浄瑠璃」となり、
あるいは「説経祭文」となり、後の語り物芸能に大きな影響を与えました。
今も一部で行われたりする「節談説教」は、
もともと寺院で行われていた説教(説経)の流れをくむもの。

その「説談説教」には、“受け念仏”というのがあるんだそうです。
聴衆が、説教に納得したり共感したりすると、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、あいづち、拍手の代わりに念仏を唱えて応じる。
昔話では「ふんとこさ」と応えるところを、
節談説教では「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と応えるんですね。

大衆芸能についての体験的な著作でも知られる俳優の小沢昭一さんが、
この説教にチャレンジして行ったときのことを書かれています(10)

得心がいくはなしをしなければ、聴衆からは受け念仏が出てこない。
だから説教者は、聴衆を納得させるよう、受けるようにと、必死になるのだそうです。
そうして受け念仏が聴衆からかえってくると、それは説教者を励まし、ノセることになる。

小沢昭一さんが説教を行ったとき、
「ナンマンダブ、ナンマンダブ……」
と会場一体となってわきおこってくる受け念仏に陶然となったそうです。
受け念仏は、演者と聴衆の一体化を促すんですね。

あいづちというのも、そうしたはたらきがあるのだと思います。

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しかしながら、紙芝居の場で、観客があいづちを打つことは少ない──
というより、まずありません。
観客にあいづちを求める作法も習慣もありません。
しかし、あいづちを打たないから、聞いていないということではない。
実は、観客は、声には出さないけれど、あいづちを打っているのではないでしょうか。

前回、紙芝居では、演じ手と観客の間で、
言葉にならないキャッチボールを交わしていると書きました。
それは、うなづくなどの仕草や表情かもしれません。
でも、もしかしたら、そうした目には見えない何か、
耳にも聞こえない何か、呼吸のようなものなのかもしれないとも思うのです。

演じ手は、物語を語り、言葉を投げかける。
その合い間、合い間の「間」で、演じ手は観客から、
声にならないあいづちという返球を受け取るのではないか。
少なくとも、その声にならない声を、演じ手は聞こうと努める必要があるのではないか。

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「お話」活動の語り部としても著名な松岡享子さんは、「たのしいお話・お話を語る」(11)で、
「間」のはたらきの多様さと豊かさについて書かれています。
その中で「間」のはたらきのひとつは、

「語ったことを、聞き手に受けいれさせる」

ことだと松岡さんは言います。

ひとつひとつの言葉を子どもたちの心にしみこませる時間。
子どもたちが言葉を受け止め、飲み込み、そのイメージを広げ、味わう時間。
それは、ほんの一瞬ともいえるような時間かもしれませんが、
その「間」を通して、語り手と聞き手が交流してるんですね。
こうした「間」のはたらきやタイミングは、
聞き手のあいづちのはたらきやタイミングと重なるんじゃないかと思います。

いわば“あいづちを促す間”と言ったらいいでしょうか。

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また、松岡亨子さんは、別の本でこんなふうにも書いています(12)

お話を語っているとき松岡さんは、
言葉をひとつひとつ、積み木か何かのように、聞き手へ手渡している感じがするというのです。
手渡される聞き手は、それをひとつひとつ受け取りながら、
その積み木で建物を築くようにイメージをかたちづくっていく。

松岡さんは、それをイギリスの昔話「三びきの子ブタ」で、
子ブタがレンガを手渡されながら家をつくっていくのにたとえています。
たとえば、
「あるところに、ひとりのおばあさんが犬を飼っていました。」
と語れば、その言葉のレンガを渡された聞き手は、
(ふうん、おばあさんが犬を飼ってたんだ)
と、そのイマジネーションのレンガを心に置いていく。
おばあさんと犬を想像してレンガを置き、それは物語という家の土台になるわけです。

語り手が「はい、これ」とレンガを渡し、聞き手が「ふーん、これかあ。よいしょ」と置く。
語りが展開するに従い、だんだん積み重ねていく。
そうして、
(次のこのレンガは大事だから、よく聞いてね。物語の大切な柱になるから)
(へえ、そうか。ここに柱のレンガ……と。次は?」
(次はこのレンガ。おもしろいでしょ?)
(うん、うん、ハハハハ。それで、それで?)……
というように、いわば語り手と聞き手が共同作業のように対話しながら、
物語の家を構築していくわけです。

その対話は、あいづちによって、あるいは「間」によってやりとりされるんですね。

だから、 想像するのに慣れてない小さい子にはなすときには、
特に子どもたちがイメージをかたちづくるためのたっぷりの「間」が必要になります。
たっぷりの間をとりながらはなし、子どもたちの中にその言葉がしみわたり、
レンガが置かれていくのを待ってあげる。
自然にテンポもゆっくりとなるでしょう。

また、最初におはなしを始めるとき、土台(設定や舞台)をかたちづくろうとするときにも、
イマジネーションが広げられるよう、
じゅうぶんな「間」をとってあげる必要があるわけです。

これは、絵のある紙芝居でも同じなのではないかと思います。
絵があるので、イメージを心に描く「間」など必要ないのではないか──
というとそうではないんですね。

イメージを描くこと、想像を広げることは、味わったり、察したり、考えたり、
つまり楽しむということでもある。
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《引用・参考文献》
(1)蒲生郷昭「日本音楽の間」~南博編「間の研究」講談社・所収
(2)六代目尾上菊五郎「藝」改造社
※この本は絶版となっており、筆者は東京・神田神保町の古本屋さんでみつけました。
(3)吉本隆明、坂本龍一「音楽機械論」ちくま学芸文庫
(4)世阿弥「習道書」〜世阿弥、小西甚一・編訳「世阿弥能楽論集」たちばな出版・所収
(5)世阿弥「花鏡」~世阿弥、田中裕・校注「世阿弥芸術論集」新潮日本古典集成・新潮社・所収
(6)稲田浩二「昔話は生きている」ちくま学芸文庫
(7)柳田國男「昔話覚書」「柳田國男全集8」ちくま文庫・所収
(8)川田順造「口頭伝承論」平凡社ライブラリー
(9)小沢昭一「放浪芸雑録」白水社
(10)小沢昭一「私のための芸能野史」新潮文庫/ちくま文庫
(11)松岡享子「たのしいお話・お話を語る」日本エディタースクール出版部
(12)松岡享子「たのしいお話・お話を子どもに」日本エディタースクール出版部













by kamishibaiya | 2010-12-06 14:44 | 紙芝居/演じるとき

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya