Kamishibai・イズ・コミュニケーション・10
2010年 12月 10日
呼吸を合わせる「間」
さてところで、前に触れたように、柳家金語楼師は、笑いのコツを
「人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」
と言っておられました。
これはつまり、相手が息を吐いているその最中には、ギャグは言わないということになります。
息を吐いて緩和しているところでギャグを言っても、落差の笑いの効果は半減するでしょう。
わかりやすいのは、たとえば、相手が笑っているときです。
笑うとき、明らかに息を吐くわけですが、その最中に、次のギャグを言っても相殺してしまう。
その最中ではなく、タイミングを少しずらす。
笑いがすうっとおさまり、あるいはおさまりかけ、
息を吸い込んでまた吐こうとするその直前に言うから、
文字通り、再び“吹きだして”しまうことになるんですね。
この笑いが落ち着くのを待つために「間」をとることがあります。
野村雅昭さんが「聴衆の笑いのしずまるのをまつ間」と分類していたものです(1)。
この「間」は、これまで見てきた「緊張を引き延ばす間」「緊張を持ち上げる間」などとは違います。
たとえば、演説や講談などで、観客(聴衆)の拍手が鳴り止むのを待つ「間」にも似ています。
「間」をとることで、じゅうぶんに笑わせる。
「間」をとることで、じゅうぶんに感動させる。
こうした「間」は、いわば「緩和を味わわせる間」であるとも言えるでしょう。
「間」自体が、緩和させるわけではありません。
生じた緩和を、じゅうぶんに味わわせ、受け入れさせる時間。
笑いに限りません。
たとえば、説経では「道行き」、落語や講談では「道中づけ」といわれるくだり。
「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ堀様と鳥居様のお屋敷の前をまッすぐに、筋違(すじかい)御門から大通りへ出まして、神田の須田町へ出まして……」
(五代目古今亭志ん生「黄金餅」(2)
……などと、登場人物が歩いて通った道筋を調子よく延々と並べ立てていきます。
これは、歩いた道の長さや労苦を表現するところ。
観客は地理や内容への興味というよりも、
演じ手の記憶力に支えられた口舌のなめらかさを楽しむことになります。
よくこれだけ覚えたものだと感心しつつ、最後まで言えるだろうかという半ば興味の緊張も続く。
そして言い終わると、観客もほおっとため息をついて緩和する。
このとき、演じ手はすぐに次の段へとは急がずに「間」をとり、その緩和を待つことになります。
もっとも、志ん生師は、ここで、
「……大黒坂をあがって、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺にきたときには、ずいぶんみんなくたびれた……あたしもくたびれた。」(2)
とやって、笑いをとっていました。
「道中づけ」では拍手が来たりすることもあり、
「間」をとることで、そうした笑いや拍手が止むのを待つことにもなるようです。
またたとえば、サスペンスという緊張の連続である事件が一山(ひとやま)越えて解決し、
ふっとひと息ついたようなとき。
あるいはまた、激しいアクションやドタバタの緊張が一段落して、ほっと落ち着いたようなとき。
そうしたとき、すぐに次の展開へは進まないで、「緩和を受け入れさせる間」が使われます。
これは、「余韻の間」と呼ばれるような「間」のはたらきにも通じるでしょう。
これまで落語の噺を例に、笑いを生み出す緊張と緩和の関係を見てきました。
が、これは、笑いばかりではなく、物語やおはなしを構成する大切な要素であると思います。
「昔話では緊張と弛緩が大きな役割を演じている」
というのは、マックス・リューティ「昔話の解釈」(3)の一節でした。
が、昔話に限りません。
昔話には、物語の原型があります。
現代の小説や、マンガ、映画、ドラマ、ゲーム……そして紙芝居を含めた物語に、
昔話の原型的な要素が脈打っていて、
そのすべての物語の中で、「緊張と弛緩が大きな役割を演じている」のです。
物語は、緊張と緩和(弛緩)の大きな波、小さな波が組み合わさって成り立っている
と言っていいと思います。
民俗学者ウラジミール・プロップは、ロシアの魔法昔話を分析して、
そこに共通する機能と構造を見いだしました(4)。
それは世界中の昔話にも共通するといわれ、
北米先住民の昔話を分析したアラン・ダンダスも同様の基本構造を見ています(5)。
そのいちばんおおもとの中核となるのは、「欠乏」と「欠乏の回復」。
「欠乏」または「過剰」によって「不均衡」となった困難な状態を、
「回復」させ「均衡」へ向かわせることが物語の根本にあるというのです。
たとえば、インディアンに伝わるこんな話。
ある日、少年が罠で太陽を捕まえたため、異常な暑さになる(過剰)。
別の場所では、暗闇になる(=日光の欠乏)。
つまり、「不均衡」。
そこでネズミが、罠から太陽を救い出し、異常な暑さは除かれる(過剰の回復)。
別な場所では、光が戻る(欠乏の回復)。
つまり、世界は「均衡」を取り戻す。
……という具合です。
こうした「欠乏」「欠乏の回復」という中心となるモチーフの要素に、
「課題の達成」「禁止」などなどの要素が加わり連鎖して
物語が織り紡がれているというんですね(5)。
こうしたモチーフの要素、物語の機能が、世界中の昔話に見いだせる。
そして昔話だけでなく、いろいろな物語に生きている。
大塚英志さんは、たとえば村上春樹さんの小説、ハリウッド映画、宮崎駿監督のアニメーション、
ゲーム「ドラゴングエスト」などなど、
現代の物語の中にもそうした機能と構造があることを論じています(6)(7)。
この「欠如」というのは、すなわち「緊張」の状態です。
それが「欠如の回復」へ移行することによって、「緩和」する。
「不均衡」はつまり「緊張」であり、それが「均衡」を取り戻すことで「緩和」する。
物語の骨格には、こうした「緊張→緩和」の流れが内在しています。
たとえばプロップが見いだした機能にその流れを見てみると、次のようになります。
【緊張】「加害」を受けての困難や「欠如」 →【緩和】「加害あるいは欠如の回復」
【緊張】「出発」 →【緩和】「帰路」
【緊張】「難題」 →【緩和】「解決」
【緊張】「闘争」 →【緩和】「勝利」による平穏
【緊張】「追跡」を受けての逃亡 →【緩和】追跡からの「脱出」
【緊張】偽の主人公による「偽りの主張」 →【緩和】偽の主人公の「露見」
この他にも、物語をかたちづくる要素の中に、「緊張→緩和」を見ることができます。
【緊張】「スリル」「サスペンス」などの不安→【緩和】不安の解消=安心
【緊張】恐怖 →【緩和】恐怖の解消
【緊張】「ミステリー」の謎 →【緩和】謎解き
【緊張】試練 →【緩和】試練の克服
【緊張】目的 →【緩和】目的の成就
【緊張】過ち、偽りの選択 →【緩和】正しい選択
【緊張】欲求 →【緩和】欲求の充足
大なり小なり、これらの要素が絡み合い、物語の大きな骨格を成しています。
また各場面各場面、あるいは細部の叙述でも、こうした緊張と緩和の流れが物語を展開させ、
牽引していくバネとなっています。
宇宙を舞台にしたSFであれ、日常を舞台にした恋愛ものや青春ものであれ、
激しい葛藤や争いを描いたドラマであれ、穏やかなほのぼのとした物語であれ、
それは変わりません。
また、フィクションではないような、
史実に取材した歴史ものでも、事実に取材したドキュメントの中にも
こうした要素が見いだせます。
というのも、人の世はなべて「緊張」と「緩和」で成り立っているからだと思います。
物語を口頭で伝える落語やストーリーテリングや、そして紙芝居の場合、
ストーリー上の「緊張」と「緩和」をよりいきいきと表現するためのシャベリの技術が
要求されます。
声を駆使することによって「緊張」と「緩和」を演出するのです。
それはたとえば、おおまかな基本として次のように考えられます。
緊張させる
◎テンポ(スピード)が速い
◎声のピッチが高い
◎声が大きい
◎抑揚が激しい
緩和させる
◎テンポ(スピード)が遅い
◎声のピッチが低い
◎声が小さい
◎抑揚に乏しい
(※これはあくまでもおおまかな基本であり、テンポを遅くしたり、声を低くすることで
逆に「緊張」を演出することもあったりします。)
この「緊張」と「緩和」の演出に関わるのが、「間」です。
概して、テンポをゆっくりにして「間」を多用すると、
興奮を鎮めて落ち着かせたり、リラックスさせる効果があります。
緩和させる。
落語では、登場人物として武士やご隠居などを演じる場合、「間」を多用することで、
落ち着いた雰囲気を醸し出すことになります。
けれど「鎮める」ことは同時に、「沈める」ことでもあります。
場合によっては気分を滅入らせる。
鬱病の人の場合、はなしの中で「間」をどれくらいあけて話すかは、
症状を診断する目安のひとつとさえなるそうです(8)。
「間」を多く、長くとるほどに、憂鬱の度は深い。
そうした気分は、聞き手にも伝わるでしょう。
逆に、「間」をあけずにスピードを上げるほど、躁状態。
喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ、感情のポジティヴ・ネガティヴに関わらず、
緊張を盛り上げることになります。
そしてこうした「間」のはたらきとは別に、その放り込むポイントによって、
「間」が緊張を引き延ばしたり、緊張を持ち上げたりする。
あるいは緩和をじゅうぶんに味わわせたりするはたらきがあることは、これまで見てきた通りです。
そのはたらきは、落語だけでなく、口承で物語を伝えるメディアに共通するものです。
松岡亨子さんは、こうした「間」のはたらきには、
「語り手と聞き手の呼吸を共調させる働き」
もあると言っています(9)。
筆者が、アマチュア・バンドをやっていたときのこと。
みんなのリズムを合わせるということがなかなかうまくいかないことがありました。
いや、メンバーは名手ぞろいだったのですが、練習時間も少なく、
おまけに下手くそな筆者が足を引っ張ったのでした。
自分の音を出すのにイッパイイッパイで、仲間の音を聴く余裕がなかったりするんですよね。
すると、ドラムスとベースがしっかりリズムを刻んでいても、
ギターが走りすぎたり、ヴォーカルが暴走したり。
逆に、周りに合わせることばかりを考えると、音が小さくまとまっちゃったり。
ライブで緊張すると、特にリズムがバラバラになりやすいのでした。
そんなとき、曲の中に、全員ミュート(無音)してブレイクする箇所があるとよかったんです。
曲の途中で、楽器もヴォーカルも、一瞬、息つぎするみたいに音をストップさせる。
すると、それまで、みんながどんなにドシャメシャのリズムだったとしても、
そこで全員の呼吸を合わせて持ち直すわけです。
まあ、バンドはリズムをそろえるのがふつうで、
ブレイクでリズムをととのえるなんていうのは、三流どころの証しなのでしょう。
しかし、ブレイクという「間」には、みんなの呼吸を合わせるというはたらきがあったわけです。
こうした音楽とはまったく別物ですが、
口承で物語を伝える紙芝居や落語やストーリーテリングなどの「間」にも、
みんなの呼吸を合わせるはたらきがあります。
もっとも、「間」に限らず、緊張と緩和の演出が、呼吸を左右するのでしょう。
緊張の場面で、息をのむ。
息をとめる。
不安で、息がつまる。
緩和の場面で、ほっと息をつく。
フッと息をもらす。
おおーと感嘆する。
わあーっと歓声をあげる。
プッと吹き出す。
アッハッハと笑う。
演じ手は、物語によって、また声を駆使することによって、緊張と緩和を演出し、
観客の呼吸を演出します。
そうした流れの中で、観客同士、バラバラにしていた呼吸が次第にそろってくる
ということもあるでしょう。
生のライブではこうした観客の呼吸を、演じ手は肌で感じとることが出来るのだと思います。
すると、
「お客さんの呼吸が全部わかって、
指揮者みたいな気持ちになる時があるんですよ。」
と語っていた春風亭昇太師の心境も何だかわかるような気がしてきます。
しかしながら、その心境へと至るには、やはり一朝一夕にはいかないようです。
「人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」
と言っておられました。
これはつまり、相手が息を吐いているその最中には、ギャグは言わないということになります。
息を吐いて緩和しているところでギャグを言っても、落差の笑いの効果は半減するでしょう。
わかりやすいのは、たとえば、相手が笑っているときです。
笑うとき、明らかに息を吐くわけですが、その最中に、次のギャグを言っても相殺してしまう。
その最中ではなく、タイミングを少しずらす。
笑いがすうっとおさまり、あるいはおさまりかけ、
息を吸い込んでまた吐こうとするその直前に言うから、
文字通り、再び“吹きだして”しまうことになるんですね。
この笑いが落ち着くのを待つために「間」をとることがあります。
野村雅昭さんが「聴衆の笑いのしずまるのをまつ間」と分類していたものです(1)。
この「間」は、これまで見てきた「緊張を引き延ばす間」「緊張を持ち上げる間」などとは違います。
たとえば、演説や講談などで、観客(聴衆)の拍手が鳴り止むのを待つ「間」にも似ています。
「間」をとることで、じゅうぶんに笑わせる。
「間」をとることで、じゅうぶんに感動させる。
こうした「間」は、いわば「緩和を味わわせる間」であるとも言えるでしょう。
「間」自体が、緩和させるわけではありません。
生じた緩和を、じゅうぶんに味わわせ、受け入れさせる時間。
笑いに限りません。
たとえば、説経では「道行き」、落語や講談では「道中づけ」といわれるくだり。
「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ堀様と鳥居様のお屋敷の前をまッすぐに、筋違(すじかい)御門から大通りへ出まして、神田の須田町へ出まして……」
(五代目古今亭志ん生「黄金餅」(2)
……などと、登場人物が歩いて通った道筋を調子よく延々と並べ立てていきます。
これは、歩いた道の長さや労苦を表現するところ。
観客は地理や内容への興味というよりも、
演じ手の記憶力に支えられた口舌のなめらかさを楽しむことになります。
よくこれだけ覚えたものだと感心しつつ、最後まで言えるだろうかという半ば興味の緊張も続く。
そして言い終わると、観客もほおっとため息をついて緩和する。
このとき、演じ手はすぐに次の段へとは急がずに「間」をとり、その緩和を待つことになります。
もっとも、志ん生師は、ここで、
「……大黒坂をあがって、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺にきたときには、ずいぶんみんなくたびれた……あたしもくたびれた。」(2)
とやって、笑いをとっていました。
「道中づけ」では拍手が来たりすることもあり、
「間」をとることで、そうした笑いや拍手が止むのを待つことにもなるようです。
またたとえば、サスペンスという緊張の連続である事件が一山(ひとやま)越えて解決し、
ふっとひと息ついたようなとき。
あるいはまた、激しいアクションやドタバタの緊張が一段落して、ほっと落ち着いたようなとき。
そうしたとき、すぐに次の展開へは進まないで、「緩和を受け入れさせる間」が使われます。
これは、「余韻の間」と呼ばれるような「間」のはたらきにも通じるでしょう。
これまで落語の噺を例に、笑いを生み出す緊張と緩和の関係を見てきました。
が、これは、笑いばかりではなく、物語やおはなしを構成する大切な要素であると思います。
「昔話では緊張と弛緩が大きな役割を演じている」
というのは、マックス・リューティ「昔話の解釈」(3)の一節でした。
が、昔話に限りません。
昔話には、物語の原型があります。
現代の小説や、マンガ、映画、ドラマ、ゲーム……そして紙芝居を含めた物語に、
昔話の原型的な要素が脈打っていて、
そのすべての物語の中で、「緊張と弛緩が大きな役割を演じている」のです。
物語は、緊張と緩和(弛緩)の大きな波、小さな波が組み合わさって成り立っている
と言っていいと思います。
民俗学者ウラジミール・プロップは、ロシアの魔法昔話を分析して、
そこに共通する機能と構造を見いだしました(4)。
それは世界中の昔話にも共通するといわれ、
北米先住民の昔話を分析したアラン・ダンダスも同様の基本構造を見ています(5)。
そのいちばんおおもとの中核となるのは、「欠乏」と「欠乏の回復」。
「欠乏」または「過剰」によって「不均衡」となった困難な状態を、
「回復」させ「均衡」へ向かわせることが物語の根本にあるというのです。
たとえば、インディアンに伝わるこんな話。
ある日、少年が罠で太陽を捕まえたため、異常な暑さになる(過剰)。
別の場所では、暗闇になる(=日光の欠乏)。
つまり、「不均衡」。
そこでネズミが、罠から太陽を救い出し、異常な暑さは除かれる(過剰の回復)。
別な場所では、光が戻る(欠乏の回復)。
つまり、世界は「均衡」を取り戻す。
……という具合です。
こうした「欠乏」「欠乏の回復」という中心となるモチーフの要素に、
「課題の達成」「禁止」などなどの要素が加わり連鎖して
物語が織り紡がれているというんですね(5)。
こうしたモチーフの要素、物語の機能が、世界中の昔話に見いだせる。
そして昔話だけでなく、いろいろな物語に生きている。
大塚英志さんは、たとえば村上春樹さんの小説、ハリウッド映画、宮崎駿監督のアニメーション、
ゲーム「ドラゴングエスト」などなど、
現代の物語の中にもそうした機能と構造があることを論じています(6)(7)。
この「欠如」というのは、すなわち「緊張」の状態です。
それが「欠如の回復」へ移行することによって、「緩和」する。
「不均衡」はつまり「緊張」であり、それが「均衡」を取り戻すことで「緩和」する。
物語の骨格には、こうした「緊張→緩和」の流れが内在しています。
たとえばプロップが見いだした機能にその流れを見てみると、次のようになります。
【緊張】「加害」を受けての困難や「欠如」 →【緩和】「加害あるいは欠如の回復」
【緊張】「出発」 →【緩和】「帰路」
【緊張】「難題」 →【緩和】「解決」
【緊張】「闘争」 →【緩和】「勝利」による平穏
【緊張】「追跡」を受けての逃亡 →【緩和】追跡からの「脱出」
【緊張】偽の主人公による「偽りの主張」 →【緩和】偽の主人公の「露見」
この他にも、物語をかたちづくる要素の中に、「緊張→緩和」を見ることができます。
【緊張】「スリル」「サスペンス」などの不安→【緩和】不安の解消=安心
【緊張】恐怖 →【緩和】恐怖の解消
【緊張】「ミステリー」の謎 →【緩和】謎解き
【緊張】試練 →【緩和】試練の克服
【緊張】目的 →【緩和】目的の成就
【緊張】過ち、偽りの選択 →【緩和】正しい選択
【緊張】欲求 →【緩和】欲求の充足
大なり小なり、これらの要素が絡み合い、物語の大きな骨格を成しています。
また各場面各場面、あるいは細部の叙述でも、こうした緊張と緩和の流れが物語を展開させ、
牽引していくバネとなっています。
宇宙を舞台にしたSFであれ、日常を舞台にした恋愛ものや青春ものであれ、
激しい葛藤や争いを描いたドラマであれ、穏やかなほのぼのとした物語であれ、
それは変わりません。
また、フィクションではないような、
史実に取材した歴史ものでも、事実に取材したドキュメントの中にも
こうした要素が見いだせます。
というのも、人の世はなべて「緊張」と「緩和」で成り立っているからだと思います。
物語を口頭で伝える落語やストーリーテリングや、そして紙芝居の場合、
ストーリー上の「緊張」と「緩和」をよりいきいきと表現するためのシャベリの技術が
要求されます。
声を駆使することによって「緊張」と「緩和」を演出するのです。
それはたとえば、おおまかな基本として次のように考えられます。
緊張させる
◎テンポ(スピード)が速い
◎声のピッチが高い
◎声が大きい
◎抑揚が激しい
緩和させる
◎テンポ(スピード)が遅い
◎声のピッチが低い
◎声が小さい
◎抑揚に乏しい
(※これはあくまでもおおまかな基本であり、テンポを遅くしたり、声を低くすることで
逆に「緊張」を演出することもあったりします。)
この「緊張」と「緩和」の演出に関わるのが、「間」です。
概して、テンポをゆっくりにして「間」を多用すると、
興奮を鎮めて落ち着かせたり、リラックスさせる効果があります。
緩和させる。
落語では、登場人物として武士やご隠居などを演じる場合、「間」を多用することで、
落ち着いた雰囲気を醸し出すことになります。
けれど「鎮める」ことは同時に、「沈める」ことでもあります。
場合によっては気分を滅入らせる。
鬱病の人の場合、はなしの中で「間」をどれくらいあけて話すかは、
症状を診断する目安のひとつとさえなるそうです(8)。
「間」を多く、長くとるほどに、憂鬱の度は深い。
そうした気分は、聞き手にも伝わるでしょう。
逆に、「間」をあけずにスピードを上げるほど、躁状態。
喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ、感情のポジティヴ・ネガティヴに関わらず、
緊張を盛り上げることになります。
そしてこうした「間」のはたらきとは別に、その放り込むポイントによって、
「間」が緊張を引き延ばしたり、緊張を持ち上げたりする。
あるいは緩和をじゅうぶんに味わわせたりするはたらきがあることは、これまで見てきた通りです。
そのはたらきは、落語だけでなく、口承で物語を伝えるメディアに共通するものです。
松岡亨子さんは、こうした「間」のはたらきには、
「語り手と聞き手の呼吸を共調させる働き」
もあると言っています(9)。
筆者が、アマチュア・バンドをやっていたときのこと。
みんなのリズムを合わせるということがなかなかうまくいかないことがありました。
いや、メンバーは名手ぞろいだったのですが、練習時間も少なく、
おまけに下手くそな筆者が足を引っ張ったのでした。
自分の音を出すのにイッパイイッパイで、仲間の音を聴く余裕がなかったりするんですよね。
すると、ドラムスとベースがしっかりリズムを刻んでいても、
ギターが走りすぎたり、ヴォーカルが暴走したり。
逆に、周りに合わせることばかりを考えると、音が小さくまとまっちゃったり。
ライブで緊張すると、特にリズムがバラバラになりやすいのでした。
そんなとき、曲の中に、全員ミュート(無音)してブレイクする箇所があるとよかったんです。
曲の途中で、楽器もヴォーカルも、一瞬、息つぎするみたいに音をストップさせる。
すると、それまで、みんながどんなにドシャメシャのリズムだったとしても、
そこで全員の呼吸を合わせて持ち直すわけです。
まあ、バンドはリズムをそろえるのがふつうで、
ブレイクでリズムをととのえるなんていうのは、三流どころの証しなのでしょう。
しかし、ブレイクという「間」には、みんなの呼吸を合わせるというはたらきがあったわけです。
こうした音楽とはまったく別物ですが、
口承で物語を伝える紙芝居や落語やストーリーテリングなどの「間」にも、
みんなの呼吸を合わせるはたらきがあります。
もっとも、「間」に限らず、緊張と緩和の演出が、呼吸を左右するのでしょう。
緊張の場面で、息をのむ。
息をとめる。
不安で、息がつまる。
緩和の場面で、ほっと息をつく。
フッと息をもらす。
おおーと感嘆する。
わあーっと歓声をあげる。
プッと吹き出す。
アッハッハと笑う。
演じ手は、物語によって、また声を駆使することによって、緊張と緩和を演出し、
観客の呼吸を演出します。
そうした流れの中で、観客同士、バラバラにしていた呼吸が次第にそろってくる
ということもあるでしょう。
生のライブではこうした観客の呼吸を、演じ手は肌で感じとることが出来るのだと思います。
すると、
「お客さんの呼吸が全部わかって、
指揮者みたいな気持ちになる時があるんですよ。」
と語っていた春風亭昇太師の心境も何だかわかるような気がしてきます。
しかしながら、その心境へと至るには、やはり一朝一夕にはいかないようです。
《引用・参考文献》
(1)野村雅昭「落語の話術」平凡社
(2)五代目古今亭志ん生、飯島友治編「古典落語~志ん生集」ちくま文庫
(3)マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の解釈」ちくま学芸文庫/
マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の本質と解釈」福音館書店
(4)ウラジミール・プロップ、北岡誠司・福田美智代訳「昔話の形態学」水声社
(5)アラン・ダンダス、池上嘉彦訳、池谷清美・田沢千鶴子・友田由美子・日景敏夫・前田和子・山田眞史共訳「民話の構造ーアメリカ・インディアンの民話の形態論」大修館書店
(6)大塚英志「キャラクター小説の作り方」講談社現代新書
(7)大塚英志「ストーリーメーカー」アスキー新書
(8)アン・カープ、横山あゆみ訳「『声』の秘密」草思社
(9)松岡亨子「たのしいお話・お話を語る」日本エディタースクール出版部
(1)野村雅昭「落語の話術」平凡社
(2)五代目古今亭志ん生、飯島友治編「古典落語~志ん生集」ちくま文庫
(3)マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の解釈」ちくま学芸文庫/
マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の本質と解釈」福音館書店
(4)ウラジミール・プロップ、北岡誠司・福田美智代訳「昔話の形態学」水声社
(5)アラン・ダンダス、池上嘉彦訳、池谷清美・田沢千鶴子・友田由美子・日景敏夫・前田和子・山田眞史共訳「民話の構造ーアメリカ・インディアンの民話の形態論」大修館書店
(6)大塚英志「キャラクター小説の作り方」講談社現代新書
(7)大塚英志「ストーリーメーカー」アスキー新書
(8)アン・カープ、横山あゆみ訳「『声』の秘密」草思社
(9)松岡亨子「たのしいお話・お話を語る」日本エディタースクール出版部
by kamishibaiya
| 2010-12-10 20:04
| 紙芝居/演じるとき