小林玲子さんの「涅槃図」の絵解き・8
2012年 02月 08日
そのとき、ブッダの弟子たちは
さて、ブッダの弟子たちの物語が語られます。
ブッダの床のすぐ近く、画面の中央あたりに倒れているのが、
弟子のアーナンダ(阿難:あなん)です。
師を喪うという悲しみの衝撃に直面し、気を失っています。
何とか意識を取り戻させようと、水をふりかけているのが、
同じ弟子のアヌルッダ(阿那律:あなりつ)です。
やっと目を覚ましたアーナンダに、アヌルッダは言ったそうです。
「アーナンダよ。悲しんではいけない。嘆いてはいけない。
尊師はあらかじめ、おっしゃっていたではないか。
すべてのことは無常であり、愛する人とも別れなければならないときがくると。
おまえには、今、しなければならないことがあるのではないか?」
それを聞いたアーナンダは、はっとします。
アーナンダは、ブッダの近くにつかえて、その言葉を誰よりも聞いた人でした。
そのため、弟子の中では、
いちばん多く聞いた──「多聞(たもん)第一」といわれています。
これからブッダ亡き後、その教えを守り、人々に伝え、後世に伝えるためには、
ブッダの言葉を文字に書きとめることが必要です。
その仕事のいちばんの適任者は、「多聞第一」のアーナンダをおいて他にはいないのです。
そこでアーナンダは心を落ち着け、横たわったブッダにたずねます。
「これから、尊師のお言葉を書き残そうと思うのですが、
最初の書き出しは、どう書いたらよいでしょう?」
すると、ブッダは答えたそうです。
「アーナンダよ。まず『如是我聞(にょぜがもん)』と書きなさい」
「如是我聞」──「わたしは、このように聞いた」という意味です。
「わたし」とは、アーナンダのこと。
アーナンダが、「わたしは、お釈迦さまの言葉をこのように聞きましたよ」といって
書きとめたものが、後世の今に残るお経なんですね。
そうして、一般に、お経の最初は「如是我聞」で始まるのだということです。
その後、アーナンダは、ラージャガハの郊外で、
「結集(けつじゅう)」という会議を開き、
他の弟子たちと記憶を確かめ合いながら、相談をし合いながら、お経を編纂したそうです。
そのお経を求めて、中国の玄奘(三蔵法師)たちが、過酷な砂漠やヒマラヤ山脈を越えて
はるばるインド(天竺)を訪ねたり(「西遊記」)、
日本では、空海(弘法大師)たちが海を越えて中国に渡ったりしたんですね。
もっとも、アーナンダの没後に書かれたお経も、
「如是我聞」で始まるという形式を踏襲したりしているそうです。
さて、絵の中、ブッダを前にして膝に顔を伏し、
体をふるわせているように見えるのは、ラーフラ(羅睺羅:らごら)です。
彼は、ブッダの長男。
たった一人の子どもです。
その出生については、いろいろな説があるのですが、
一説には、ラーフラが生まれたその夜、
または、生まれてから7日後、ブッダは修行をするために家を出た──出家したといわれています。
ブッダの床のすぐ近く、画面の中央あたりに倒れているのが、
弟子のアーナンダ(阿難:あなん)です。
師を喪うという悲しみの衝撃に直面し、気を失っています。
何とか意識を取り戻させようと、水をふりかけているのが、
同じ弟子のアヌルッダ(阿那律:あなりつ)です。
やっと目を覚ましたアーナンダに、アヌルッダは言ったそうです。
「アーナンダよ。悲しんではいけない。嘆いてはいけない。
尊師はあらかじめ、おっしゃっていたではないか。
すべてのことは無常であり、愛する人とも別れなければならないときがくると。
おまえには、今、しなければならないことがあるのではないか?」
それを聞いたアーナンダは、はっとします。
アーナンダは、ブッダの近くにつかえて、その言葉を誰よりも聞いた人でした。
そのため、弟子の中では、
いちばん多く聞いた──「多聞(たもん)第一」といわれています。
これからブッダ亡き後、その教えを守り、人々に伝え、後世に伝えるためには、
ブッダの言葉を文字に書きとめることが必要です。
その仕事のいちばんの適任者は、「多聞第一」のアーナンダをおいて他にはいないのです。
そこでアーナンダは心を落ち着け、横たわったブッダにたずねます。
「これから、尊師のお言葉を書き残そうと思うのですが、
最初の書き出しは、どう書いたらよいでしょう?」
すると、ブッダは答えたそうです。
「アーナンダよ。まず『如是我聞(にょぜがもん)』と書きなさい」
「如是我聞」──「わたしは、このように聞いた」という意味です。
「わたし」とは、アーナンダのこと。
アーナンダが、「わたしは、お釈迦さまの言葉をこのように聞きましたよ」といって
書きとめたものが、後世の今に残るお経なんですね。
そうして、一般に、お経の最初は「如是我聞」で始まるのだということです。
その後、アーナンダは、ラージャガハの郊外で、
「結集(けつじゅう)」という会議を開き、
他の弟子たちと記憶を確かめ合いながら、相談をし合いながら、お経を編纂したそうです。
そのお経を求めて、中国の玄奘(三蔵法師)たちが、過酷な砂漠やヒマラヤ山脈を越えて
はるばるインド(天竺)を訪ねたり(「西遊記」)、
日本では、空海(弘法大師)たちが海を越えて中国に渡ったりしたんですね。
もっとも、アーナンダの没後に書かれたお経も、
「如是我聞」で始まるという形式を踏襲したりしているそうです。
さて、絵の中、ブッダを前にして膝に顔を伏し、
体をふるわせているように見えるのは、ラーフラ(羅睺羅:らごら)です。
彼は、ブッダの長男。
たった一人の子どもです。
その出生については、いろいろな説があるのですが、
一説には、ラーフラが生まれたその夜、
または、生まれてから7日後、ブッダは修行をするために家を出た──出家したといわれています。
幼い子と、母親ヤソーダラー(耶輪陀羅:やしゅだら)を残して出て行った
ブッダの心境はいかばかりだったか。
また、成長して後、自分の父親がブッダであると知った
ラーフラの心境はいかばかりだったか。
──わたしたちにはわかりません。
ただ、少年だったラーフラが、母親(一説には周囲の者たち)に促され、
ブッダに財産の相続を認めてくれるよう、頼みにいったところ、
ブッダはその場では何も答えなかった、と伝えられています。
物質的な財産ではなく、
法の真理こそがわが子に残してあげられるものと考えたブッダは、
弟子のサーリプッタ(舎利弗:しゃりほつ)に託して、
ラーフラを出家に導きます。
そうしてブッダの弟子となったラーフラは、
年若い頃には慢心があって、サーリプッタらの兄弟子を軽んじ、
ブッダに叱られたこともあったようです(1)。
が、改心して後には尊敬の念を忘れることなく、また精進して、後世に
「密行第一(細かいことも違わず、綿密な修行にかけてはいちばんである)」
あるいは
「学習第一(よく学ぶことにかけてはいちばんである)」
と謳われるようになりました。
そのラーフラが今、師であり、父であるブッダの死を目の前にしているのです。
「平安時代に書かれた『今昔物語』には、こんな話があるそうです……。」
と言いおいて、「絵解き」では、「今昔物語」に取り上げられている物語が語られました。
ブッダ入滅の悲しみに耐えきれず、ラーフラはその場を離れ、
神通力で別の世界へ飛び去ります。
が、その世界の仏にさとされて、元の世界へ戻ってくる。
すると、待っていたブッダは、その手を握りしめて、言ったそうです。
「ラーフラよ。おまえは、わたしの子だ。
十方の仏たちよ。
ラーフラを護りたまえ」
(※「今昔物語」の原文では「哀愍(あいみん)したまえ」と言っています。
「哀愍」とは、悲しみ、あわれむことだそうです。)
「今昔物語」では、この言葉が、ブッダの最後の言葉とされています。
小林玲子さんは、
「このようなお話は、実はお経にはありません。
わたしたち日本人の先祖は、
お釈迦さまも羅睺羅尊者(ラーフラ)も、われわれと同じような
親子の情を持っていたに違いないと思ったのでしょう。」
と、このエピソードをしめくくります。
「今昔物語」のこの物語のもともとの出典は経典ですが、
経典から派生した説話に拠るところが多く、経典とは違うところがあるようです。
では、もともとの経典の話はどんなものだったのか。
ブッダ入滅のとき、ラーフラ(羅睺羅)は、その場から離れます。
沙羅双樹の林を出て東北に向かい、涙にむせびますが、思い直して帰ってくる。
また別の話では、別世界に行ってそこの仏にさとされ、
さらに上方の別世界に逃げてそこの仏にさとされて帰ってきます。
ここまではだいたい同じなのですが、経典では、
戻ってきたラーフラに「嘆くことはない」と言って、ブッダが語ります。
「おまえは父に対してなすべきことをなし、
わたしもおまえに対してなすべきことをなした。
わたしとおまえはいっしょに、一切(すべて)の人々のために勤めた。
わたしは他の人の父親とはならないし、
おまえも他の人の子ではない。
わたしたちは悩ませ合うこともなく、争うこともない。
すべてのことは無常であり、
そこからただ解き逃れること(解脱)を求めなさい」
というようなことを説いたそうです(2)。
つまり、父としての役目、子としての役目を果たして、
父ひとり子ひとりのきずなは変わらないとしても、
師と弟子であり、同じ道を求め行く修行者の立場は変わらないということだと思います。
それに対して「今昔物語」では、「絵解き」に語られていたようなドラマ。
描かれているのは、修行者(修行完成者)としてのブッダではなく、
子を想うひとりの親としての、いかにも人間的な姿です。
「今昔物語」の編者はこの話の終わりに、
仏であっても、父子(おやこ)の関係となれば、ふつうの師弟の関係とは違ってくる、
ましてや世の衆生は、子への思いに迷うものだ、と付け加えています(3)。
「子への思いに迷う」──それは、仏教の修行においては否定されることでした。
「スッタニパータ」にはこうあります。
「子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。
筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀(サイ)の角のようにただ独り歩め。」(1)
この箇所だけを引用すると誤解を招くかもしれませんが、
ブッダは子や妻への愛情を否定しているのではなく、
執着することを避けよと言っているのだと思います。
そう考えると、ブッダが経典でラーフラに語った言葉は、また違って響いてきます。
父親として子として相手を認めつつも、
しかし、余計な枝をからませて、まつわりつかせてはいけない、
まつわりついてもいけない。
わたしが死んでからも、
筍のように、犀の角のように、まっすぐに歩めよと促しているように聞こえます。
それが正しい道なのでしょう。
しかしながら、親子のしがらみにからみつかれて、しがらみに流されて、
子への思いに迷い、情に迷ってもしかたがないじゃないか。
人間だもの。
と、「今昔物語」の編者は、入滅というクライマックスの場面に、
経典にはないこうした説話をわざわざ持ち出してきたんですね。
そこには、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような
日本人的な仏教の理解のし方があるのではないかと、
池上洵一さんが述べられています(4)。
確かに、小林玲子さんの切々とした語りを聞いていた筆者は、
思わずこの場面でウルッとしそうになりました。
幼い日に父親に捨てられたラーフラは、父親を恨まなかったのでしょうか。
父親と日々を過ごすことになっても、
おそらく肉親としての親しい言葉はかけてもらわなかったのではないか。
晩年でこそ、ブッダの子である自分を「幸運なラーフラ」と呼んでいますが(5)、
嫉妬ややっかみや、世間の風当たりもあったでしょう、
偉大なブッダの子であるがゆえの重圧もあったでしょう。
それが最後の最後に、宗教者としては非難されることも甘んじて、
父親としての情を吐露してくれたのです。
ラーフラにとって、これはうれしかったに違いありません。
筆者は、何だか救われた気になったのでした。
まあ、こんなふうに情緒的に単純に考えてしまった筆者も、
端っこのはしくれながら、日本人なのだということなのかもしれませんね。
《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(3)「今昔物語集」巻三第30話「仏入涅槃給時、遇羅睺羅語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店
(4)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(5)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラーガーター〜」岩波文庫
山折哲雄「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書
石井公成「仏教史のなかの今昔物語集」〜小峯和明編「今昔物語集を読む」吉川弘文館・所収
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(3)「今昔物語集」巻三第30話「仏入涅槃給時、遇羅睺羅語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店
(4)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(5)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラーガーター〜」岩波文庫
山折哲雄「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書
石井公成「仏教史のなかの今昔物語集」〜小峯和明編「今昔物語集を読む」吉川弘文館・所収
by kamishibaiya
| 2012-02-08 00:00
| 絵を見せて語るメディア