「わたしを離さないで」──“クローン人間は殺されていいのか”問題が突きつけるもの・その2

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 別に作者がノーベル賞を穫ったからといっておもしろいとは限らないぞ。
 と思いながら読み進めていったわけです。

 だいたいが、話題作、ヒット作と銘打って世間が騒いでいても、
 すぐに飛びつくのをやせ我慢する気質(たち)でして、
それでいて、だいぶ落ち着いてから、遅ればせに手を出してやっと感心したりする。
まあ、それが流行遅れの理由であるとは自分でも自覚しているのですが…。

それが今回、テーマにクローンを扱っているというのを聞いて、
再版されて書店に並んだばかりのカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」(1)
買い求めたのでした。
しかし、10年以上も前に出版され、イギリスで映画化され、去年日本でTVドラマ化もされ、
しかも、ノーベル賞受賞のニュースから2ヶ月くらいも経ってから、
こんなふうな文章をアップするというのは、いやはや流行遅れもいいところですね。

で、これが案に違えておもしろく、じわりじわりと引き込まれ、
まあ、ラストでは涙腺崩壊というありさまでした。

最近、涙腺が弱くなったと感じているのですが、もともと弱かったのかもしれません。
涙もろい……と言えば聞こえはいいのですが、
要するに、泣き虫毛虫で挟んで棄てろ、というやつです。
学生時代、ダニエル・キース「アルジャーノンに花束を」に夢中になり、
真夜中過ぎ、読みながらかなりの音量の嗚咽の声をもらして泣いている自分にふと気づき、
これは隣り近所の迷惑だったかと心配したことがありました。
するとそれを聞いた友人は言ったもんです。
「泣きゃあいいってもんじゃないだろ。
その裏にあるものを読み取らなけりゃ、何にもなんないじゃん」

確かにその通りでした。
感傷「主義」(センチメンタリズム)というより、感傷「趣味」に走りがちな筆者に、
友人は半ばうんざりしていたかもしれません。
「泣く」という行為にはカタルシスがあり、ストレス解消の効果があります。
泣くとなぜか気分がスッキリして、それだけで満足してしまうことがある。

でも、満足しただけじゃダメなんですよね。
それで、ちょっと考えてみようと…。

──というわけで、以下、ネタばれを多数含みますので、未読の方はご注意下さい。

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作品の印象としてまず感じたのは、抑制のきいた表現ということでした。

その昔、「ムーミン」が日本でアニメ化されたとき、
それを観た原作者トーベ・ヤンソンは、言ったそうです。

「エキサイティング!」

必ずしもいい意味ではありません。
トーベ・ヤンソンがこだわり築いた作品世界と、アニメの世界観にはズレがあったようで、
いろいろとクレームがあったといいます。
当時、ロボットの破壊やスポ根ブームのモーレツで賑わっていた日本のアニメの中で、
「ムーミン」は優等生的で、おとなしく、平和的と思われていました。
しかし、それでも、原作者からすればエキサイティング過ぎた。

「わたしを離さないで」には、好き嫌いの是非はともかく、
その「エキサイティング」が欠けています。

それには、主人公であるキャシーが物語を語るという一人称話法のせいもあるでしょう。
passionate(激情的)とはいえない、まあ、優等生的でもある彼女の品性を備えた視点で、
穏やかに物語が語られる。

主要キャラであるトミーは、少年時代、癇癪持ちとして描かれます。
癇癪を起こす直接の要因は、いじめや自身の性格にあったのですが、その背景には、
彼らクローンが背負った葛藤があったのではないかとラストで示唆されます。
そのラストで、運命の秘密が明らかになったとき、トミーは再び悲痛な激情を爆発させますが、
そうした場面でも、キャシーに語られることによって、
「エキサイティング」がたぶん60%くらいは抑えられています。

キャシーが語り手であるため、
彼女自身が気づいていない無意識の問題や葛藤も、文章としては語られません。
また、彼女が意識して隠そうとしている問題も、語られません。
いえ、彼女は嘘をついているわけではありません。
むしろ率直です。
性のことについても、品性を失わない程度に率直に語っています。

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キャシーやトミーたちは、18歳まで「ヘールシャム」という寄宿舎付きの学校で学び、生活しました。
そこを卒業すると、めいめいが小グループに分かれ、コテージ(1軒家の宿泊施設)で
過ごすことになります。
そのコテージ滞在を終える時期については、各自の自由な自主的判断に任されているようですが、
2年以内という期限は決まっています。
そして、コテージを離れてからの行く先の進路は、全員が決められています。
彼らは臓器提供という目的のために生み出されたクローンなのです。
老化のために臓器が疲弊していてはうまくないため、若いうちに提供することが求められる。
コテージで過ごす最長で2年間は、それまでの猶予期間ということになります。

そのコテージで、キャシーは、捨てられたポルノ雑誌を漁って拾い集めます。
筆者にもそのような経験の心当たりが、え~と……、その……、実は、ありまして、
思春期の男の子ならば、それほどには、あの……、言うほどには奇異なことではないと思います。
ところが、キャシーは、20歳前の女性であり、
友人にからかわれるのを承知で、そのテの雑誌を集めてきては山と積んでながめる。
これは、やはり不自然です。
刺激が欲しくて……とキャシーは釈明しているのですが、
その語り口の性格から思えば、違和感がある。

そんな彼女を偶然見かけたトミーも違和感を感じていることを言います。
キャシーの姿は、刺激が欲しくてながめているようには見えなかった、
次々にページをめくるその姿は、
「悲しげっていうか、怖がってるっていうか……」だったと証言します。
しかし、キャシーはここで多くを語りません。
その場をごまかして、トミーに対しても、そして読者に対しても、うやむやのままにします。
そのため、その理由はある種の小さなミステリーとなって、
読者は奥歯にものがはさまったような謎と違和感を抱えたまま、読み進めることになります。

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そして、ずっと後で、ノーフォークへの小旅行の場面にきたとき、やっと理由が語られます。
この小旅行は、キャシーの親友であるルースの「ポシブル」を探す旅。
「ポシブル」というのは、クローンである彼らにDNAを提供したオリジナルの人物のことです。
TVドラマ版では、「ルーツ」と呼んでいましたね。
面差しがルースにそっくりな、そこそこ年配の女性をノーフォークで見かけたという話があり、
もしかしたらポシブルではないかと、その女性を確かめに彼らは出掛けたのでした。

こぎれいなオフィスで働くその女性は、窓の外の遠くから見たら確かに似ていたものの、
結果的に別人だったことがわかる。
ポシブル探しなど別にたいした問題ではないと平静な態度を保っていたルースが、
このとき、感情を爆発させて言います。
──どうせ私たちのポシブルは、ヤク中やアル中や犯罪者や浮浪者や売春婦などで、
こんなオフィスで働くような普通の人ではないことは、始めからわかっていたのだと。

以前、コテージの周囲の道端に、霜と泥にまみれて捨てられていた新聞のチラシ。
そこにはこぎれいなオフィスの写真が載っていて、それを拾ったルースが、
「これこそ働きがいのある職場ってものだわ」
と、うっとり見つめながらつぶやいていました。
ひょっとしたら、臓器提供という運命をまぬがれて、普通にオフィス・レディとして
働くという選択肢も可能なのではないか?
誇り高く活発でアクティヴな彼女が、OLとしてバリバリ働く姿は、読者も容易に想像出来ました。
そんな普通の、ごくありふれた普通の望みも、しかし幻想に過ぎないのだと、
このとき、ルースは思い知らされたのだと思います。

そしてこのとき、読者は、クローンのためのDNA提供の事情の一端を知らされます。
臓器は、本人のクローンから移植されるのではないかと、筆者は勝手に思い込んでいました。
他人の臓器を移植すると、免疫機能が働いて拒絶反応を起こすので、
臓器を受ける患者本人のDNAが提供されてクローンが作られるのではないかと。
──しかし、ちょっと考えるとわかることでしたね。
だとしたら、提供して生み出された子が、移植可能になるまで成長するのに18年以上はかかるわけで、
患者はそれまで待っていられない。
免疫抑制剤を使えば、他人同士の移植でも問題はありません。
臓器提供をするキャシーたちには、たぶん提供先の人物に関する情報は知らされることなく、
だから物語の語り手であるキャシーは、そうしたことについてはいっさい語りません。

さらにこのとき読者は、DNAは、
普通ではない最下層の人々から提供されるような事情があるということを知ります。
(もちろん、フィクションであるこの作品においての設定ですが。)
日本でもその昔、献血をすると報酬をもらえるので、
貧乏をすると献血に行ったものだという話があったそうですが、
それに似たようなことが、DNAの提供にもあるということでしょうか。
臓器売買が貧困層の間で行われるというような事情ともつながりがありそうです。

そして読者は、ルースたちクローンが、日頃は口にも顔にも出さないけれど、
しかし胸の底に秘めた、ポシブル──母親ともいえる存在への複雑な想いを知ることになります。

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キャシーにもその複雑な想いがあったのでした。
彼女は、なぜ打ち捨てられたポルノ雑誌を拾い集め、ながめていたか?

彼女は自分の中に性欲がわき起こったとき、それが普通ではないのではないかと感じました。
思春期にはありがちな感覚だと思いますが、優等生である彼女には、
人格とは関係なくそうした衝動に駆られることがショックだったのかもしれません。
しかし彼女は、(彼女の感覚では普通以上に)性衝動を感じるのは、
自分のDNAの中に好色な性質があるからではないかと考えます。
そして、だとすれば、ポシブルも好色であり、ポルノ女優かなにかで、
ひょっとすると、そのテの雑誌のグラビアに出演しているのではないかと考えたのです。
そこで彼女は、自分に似た容貌をもつ女性の面影を雑誌のグラビアに探していた。

突拍子もない発想に思われるのですが、
そんなフワフワした考えに走らずにはいられない彼女の心情が、
裂け目からこぼれ落ちるように、ここで吐露されます。

最終的にキャシーはトミーに告白することになるのですが、
当初、それに勘づいたトミーから指摘されたときには、否定して、
「理由なんてない。ただ、なんとなく(ポルノ雑誌漁りを)やってるだけ」
としらばっくれながら、けれど目からは涙があふれます。
その涙を、キャシーはトミーに気づかれないかと心配し、隠そうとしたのでした。
そうした気持ちが、彼女の語りにも反映されます。

つまり、語り手であるキャシーが、意識的・無意識的に関わらず、隠して語らないことが、
一種のミステリーとなるのです。
そしてまた、クローンを育てる学校の運営やシステムについては、
クローンの当事者であるキャシーも知らないこと、または知らされていないことが多く、
キャシーは何とか知ろうと情報を集め、こと細かに観察しているのですが、
それがこの作品に、一種のミステリー小説の趣きを与えています。
そうしてミステリーが解き明かされたとき、
クローン・システムの非人間性が鮮烈に浮かび上がってくるという仕掛けなんですね。

けれど、ミステリー仕立てといっても、
手に汗握るサスペンス調だとか、おどろおどろしいホラー風味であるわけではありません。
たとえばキャシーたちが育ったいかにも英国風な学校の子ども時代の回想は牧歌的に描かれます。
私たちの現実と地続きのようなそんな日常のところどころに、
しかし、ミステリーの謎がぽっかりと落とし穴のように配されていて、
ときどき、その穴の向こうの闇が、ぼんやりと覗けて、ぞっとするのです。

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そうやってちりばめられたミステリーの謎という伏線が、
ラストまでにすべて回収されるわけではありません。
最後まで謎のままとされて残ることもあります。
キャシーが持っていた音楽カセット・テープが紛失した件も、そのひとつです。

ジュディ・ブリッジウォーター「夜に聞く歌(Songs after dark)」。
1956年にレコーディングされ、当初はLPだったのがカセット版となったもの。

この年、チャック・ベリーやジーン・ヴィンセントらがアメリカを席巻し、
イギリスのチャートにも、エルビス・プレスリー「ハート・ブレイク・ホテル」が登場し、
ビートルズ結成前の若きジョンやポールが、リバプールでそんなロックンロールに夢中になっていた頃です。
が、「夜に聞く歌」は、そうした流行の波とは関係なく、
夜の魅力の歌姫ジュディが歌ういぶし銀のバラード……。
その曲調は、「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」と、キャシーは説明しています。

アルバム「夜に聞く歌」に収録された「Never Let Me Go」という歌のタイトルは、
この小説「Never Let Me Go(わたしを離さないで)」のタイトルにも使われています。
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……って、いえいえ、これは歌手も曲も、すべてフィクションです。
上のカセットのジャケットは、小説が映画化されるにあたって作られた架空のもの。
このとき、いかにも’50〜’60年代のオールディーズ風に擬した曲も作られています。

しかし残念なことに、どういうわけか、
こちらの歌詞には「baby, baby」のリフレインがありません。

日本のTVドラマ「わたしを離さないで」のために書かれた挿入歌は、
ドラマの舞台は日本で、時代設定も異なっているため、
サウンドは今風で、歌詞は単純なラブソングではなく、ドラマのテーマが織り込まれたものです。
が、「baby, baby」のリフレインはきっちり入っています。


キャシーたちヘールシャムの生徒は基本的に外出禁止で、自由に買い物は出来ません。
そんな彼らのもとへ、月に一度、洋服や日常品などを積んだバンが訪れて「販売会」が開かれます。
彼らはお小遣いもお金も持たされませんが、学内で利用できる「交換切符」が配布され、
それを使って、販売会でちょっとしたショッピングを楽しむことが出来る。
キャシーが手に入れたカセットは、
この販売会のたぶんガラクタのように積まれた品物の山の中にあったのでしょう、
手に入れた1980年代当時にはもう、そうとうな懐メロの類いだったと思われます。

外界と隔絶された彼らが流行に疎いとはいえ、
薄暗い酒場のカウンターでそこそこの年齢の女性が煙草をくゆらせながら歌うようなそんな歌を、
当時、日本でいうところの小学生の学年だったキャシーが気に入るとは思えません。

では、なぜキャシーはこの歌に惹かれ、何度も繰り返して聴いたのか?
その理由は、「Baby, Baby, Never let me go」というリフレインにありました。

英語の会話では、恋人やパートナー、あるいは自分の子どもといった親しい人に呼びかけるとき、
愛称(terms of endearment)をよく使います。

Baby(赤ちゃん)」
Darling(最愛の人)」
My precious(私の大切な宝物)」
Sugar(お砂糖ちゃん)」
Honey(蜂蜜さん)」
Pumpkin(かぼちゃさん)」
Sweetheart(いとしい人)」……などなど。

これらは、歌の歌詞にもよく登場しますよね。
上に掲げた映画版の方の歌詞にもDarlingが使われています。
中でも、Babyは代表的ともいえる愛称です。

「そりゃないぜ、ベイベッ!」といえばロックンローラーの専売特許のようになっていますが、
ロックンロール曲に限らず、「Baby」はいろいろな曲で使われます。
そしてこの「Never Let Me Go」にも使われていたのでした。

ところが、恋人に呼びかけるラブソングのこの言葉を、当時小さかったキャシーは、
そのまま「赤ちゃん」に呼びかけたのだと解釈します。
他の歌詞の内容とはちぐはぐで、たぶん解釈が違っているとわかっていながらも、
そう考えようとする。

このとき、キャシーは、こんな物語を頭に想い描いたといいます。
赤ちゃんを生むことは出来ないとされていた女性が、奇跡的に赤ん坊を授かる。
そこで母親となった女性は、喜びのあまり赤ちゃんを抱きながら歌う。
しかし、病気とか、何らかの理由があって赤ちゃんと別れなければならなくなったら
どうしようかという一抹の不安があって、
「Baby, Baby, Never let me go」と呼びかけるように歌っているのだと想像するのです。

そしてある日、部屋にひとりきりなのをいいことに、キャシーはこの歌を聴きながら、
枕を赤ちゃんに見立てて抱いて、あやすように、踊るように体を揺らしていた。
そんな姿を、偶然通りかかった「マダム」と呼ばれる学校の外部の女性に目撃されます。
彼女はキャシーの姿を見ると、涙ぐんで立ち去る。
──という事件のようなことが起こります。

クローンは、性行為は出来ても、赤ちゃんは出来ないといいます。
生殖の機能が失われているのか、それとも禁じられているのかは不明ですが、
クローンの女性は、一生赤ちゃんを生むことが出来ないとされる。
ずっと子どもの頃、その情報を小耳にはさみ、意識はしなかったものの頭のどこかにあって、
それで無意識的に、母親と赤ちゃんを想像したのではないか?
そしてそれを知っているマダムは、可哀想に思って泣いたのではないか?
──と、後になって、キャシー自身は推理しています。
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「Never let me go」を直訳すると、「けっして私を行かせないようにして下さい」で、
つまり、「私を離さないで」「私をつなぎとめて」ということになります。
しかし、もしも母親が自分の赤ん坊に投げかける言葉だとすると、

「Never let me go.=私は離れていこうとするけれど、私を離さないでほしい」

とは言わないような気がします。
母親には、自分がわが子を置いて「go(行く/離れる)」という行動の発想がない。
もしも病気や何かで別れ別れになるとしたら、

「Never let me leave.=あなたは離れていこうとするけれど、私を置いていかないでほしい」

ではないでしょうか。
「行かないで」「行っちゃだめ」というニュアンス。

いや、実際にはどっちでもいいのでしょう。意訳すれば、どちらも成り立つと思います。
しかし、まだ子どもで女性の意識にも目覚めていなかったキャシーが、たとえ無意識であっても、
子どもが産めないことの運命を悲観していたとは考えにくいし、
それが母子の姿を空想させたということも考えにくい。

もしかしたら彼女は、顔すらも感触すらもわからない誰かの腕に抱かれることを
無意識的にイメージしていたのではないでしょうか。
母親を演じながらも、むしろ自分は、抱きしめた枕の側──赤ん坊の立場で。

赤ちゃんが、母親に対して「私を離さないで(Never let me go)」と言うのなら
しっくり来るのです。

幼い子が、赤ちゃん人形を抱いてごっこ遊びをするとき、子どもはたいてい母親役となり、
自分がしている日頃の生活や行動を、人形に再現させます。
そして自分は、世話を焼いたり叱ったりあやしたりする母親の立場でその行動をまねしたりする。
キャシーは、そのモデルとなるひとの顔もしぐさもわからないのですが。

けれどこのとき子どもは母親を演じて、「Baby, baby」と呼びかけたとしても、
意識の半分は人形側の立場にあって、
母親から、こうしてもらいたい、ああしてもらえたらいいな、ということを
再現することもあるように思います。
たとえばその腕に抱かれ、歌に合わせて揺らしてもらいたいというような……。

キャシー自身が想像した通り、ジュディ・ブリッジウォーターが母親の立場で
「Baby, baby(赤ちゃん、赤ちゃん)」と呼びかけたとしても、
「Never let me go(私を離さないで)」と歌うそのとき、
歌を聴くキャシーの中では主客が曖昧になっていた。
心の半分は、無意識的に母親に抱かれる赤ちゃんの側にあって、
「ねえ、お母さん、わたしを離さないで」
と呼びかける自分の気持ちを、歌に重ねていたのではないでしょうか。

母親は、命を与えてくれる存在であり、
乳によって食べ物を与えてくれる存在であり、
「だいじょうぶ。おまえはこの世界に生きていっていいんだよ」
という自己肯定感やこの世界への信頼を、微笑みによって最初に与えてくれる存在です。
いわば、エリクソンがいう「基本的信頼」を与えてくれる存在(2)

クローンの子どもたちはDNAによって命を与えられましたが、
この世界に生まれ落ちたとき、そこに母親はいませんでした。
「おまえを愛する人間が、ほら、ここにいる。おまえはこの世界から愛されている」
と、基本的な信頼を与えてくれる存在はいませんでした。
そして彼らは、母親の匂いも、抱かれた感触も、叱られた記憶もないままに育ってきたのでしょう。
普段は意識しなくても、彼らの胸の奥底には、母親を希求する根源的な想いがある。

だからそれは、B級ともいえるような大人向けの古い流行歌でしたが、
キャシーは、そのリフレインのフレーズの中に母親のイメージのかけらを見いだし、
愛着を感じたのだと思います。

それから数年後、成長したキャシーは、母親ともいえるポシブルの面影を
低俗なポルノ雑誌の中に探そうとしました。
それは突拍子もない発想に思えますが、
不安と怖れを感じながらも、彼女はそうせざるを得なかったのでしょう。
真夜中のバーで煙草をくゆらすジュディ・ブリッジウォーターのイメージは、
何らかの事情でDNAを提供することとなった年のいったポルノ女優のイメージと
そうそう遠くはないように思われます。
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マダムの件があってから2~3ヶ月後、その「夜に聞く歌」のカセットテープが紛失します。

学校では、喫煙を徹底して厳しく禁止していました。
喫煙は、臓器提供の支障となるからです。
カセットには煙草を吸っているジャケットが描かれているため、
それが秘密裡に没収されることになったのではないかという可能性も匂わされますが、
ほんとのところはわかりません。
盗難なのか、紛失なのかもわからず、結局、未解決なミステリーの謎となります。

たとえ意識にのぼることはなかったとしても、
母と子を連想させてくれるそのカセットを失うことは、
キャシーにとって象徴的な意味を持っていたのではないでしょうか。
いかに大切にしていたかというその心情は友人たちに隠しながらも、寮や学校を必死で探しまわる。

しかしその後、キャシーの必死さに気づいたルースが、その欠落を埋めてくれることになります。
販売会で手に入れたカセットをプレゼントしてくれるのです。
(プレゼントの理由は別にあったのですが)。
でも、お目当ての「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」収録のカセットは探しても見つからず、
それは「ダンス曲20選」という音楽カセットでした。
けれどキャシーにとっては、ルースのその気持ちがうれしかった。

さらにずっと後になって、トミーが、その欠落を埋めてくれることになります。
ノーフォークへの小旅行のときにも、幼い頃のその思い出を忘れずに覚えていてくれて、
古道具屋をいっしょに探し回って買ってくれたのです。
中古カセットの箱から見つけ出したのは、キャシー自身でしたが。

二人は、理由はわからなかったけれど、キャシーがそのカセットに愛着を持ち、
必死に探していたことをずっと気にかけていたのです。
もしもキャシーが死んだら、涙を流してくれる存在だったと思います。

「基本的信頼」というのは、たとえ乳児のときに母親から得ることが出来なかったとしても、
周囲の人々や後々の人生の出会いによって、その欠落を埋めることが可能であるとされます。
キャシーにとって、その出会いは、ルースであり、トミーであったのでしょう。

カセット紛失の謎は、物語の最後までわからないままですが、
キャシーの心の中では、それでもかまわなかったのだと思います。

そしてエリクソンは、人間には、「基本的信頼」によって導かれる
「永続的産物」があるのだと言いました(2)


──それは、「希望」です。
だいじょうぶ、自分はこの世界で生きていっていい存在なんだという自己肯定感、
この世界は自分が生きていっていいところなんだという信頼感、があるからこそ生まれる希望です。

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物語を語るキャシーによって、死が直接的に生々しく語られることはありません。
(ルースの臨終の場面は語られますが。)
いえ、死というのは、婉曲的に、間接的に語られるべきものなのかもしれませんね。
しかしこの物語では──キャシーたちクローンにとっては、
言葉としては語られない死というものが、視野の中でそびえるように厳然と見えています。

もちろん、臓器提供=死、というわけではありません。
患者の家族など、生体移植によって臓器を提供した方は、その後も元気に生活していらっしゃいます。
しかしキャシーたちクローンは、2回、3回と手術を重ねる。
それはつまり、肺、肝臓、膵臓、腎臓、小腸のうちの2個~3個を提供するということになります。
ルースの最初の提供手術は「ひどかった」と語られ、2度目の提供後、使命を終えます。
(キャシーの語りでは、死ぬことを「使命を終える」と表現します。)
それだけリスクのある手術もあるということでしょう。
相当な苦痛と消耗に襲われようとも、4回目の提供を行う人も多い。
彼らには、事切れる最期まで臓器を提供し続けるという、ルールみたいな使命があるようなのです。

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そんな使命を課せられた彼らは、何の疑問も持たなかったのか?
抗おうとはしなかったのでしょうか?
──日本で翻案されたTVドラマ版では、反抗を示すようにわざと煙草を吸う姿や、
あるいは、非人道的なシステムに反対する外部の支援団体、
そうした活動と呼応し、街宣で訴えるも警察に追われ、間違いを犯して自決する女性などが
ドラマチックに描かれます。
しかし原作には、そうした「エキサイティング」はありません。

優等生的である語り手キャシーの視界の中に、
そうした面が映っていなかったために語られなかったということでしょうか?
それとも、幼い頃から寄宿学校で学んだ彼らは、
洗脳ともいえるような教育を施されたということでしょうか?

臓器提供という使命については、子ども時代の彼らに秘密にされていたというわけではありません。
かといって、積極的に教えられたわけでもなく、ごくさりげなく知らされたといいます。
13歳の頃にはわかっているものの、やっぱり他人事で、
体のジッパーを開けて内臓を取り出すというようなジョークが流行ったりしています。

しかし、ある時、たわいのない雑談の中で、一人の生徒が言いました。
「将来、映画スターになれたらいいな」。
ごく普通にありがちな、淡いあこがれのような夢です。
すると、保護官のひとり、ルーシー先生(保護官は授業も教え、先生と呼ばれます)が、
たまたまその一言を耳にして、けれど意を決したように告げます。
──あなたたちは、映画スターにはなれない。スーパーの店員にもなれない。
将来は臓器提供という使命が決まっている。無益な空想はやめた方がいい、と。

ルーシー先生の生徒たちへの誠実さと、それゆえに抱えざるを得なかった葛藤は生徒たちにも伝わります。
キャシーは注意深く彼女を見守ります。
が、突然、消えるように彼女は学校を去っていき、それが謎のひとつとなります。

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キャシーたちは、しかし卒業しても、何か仕事につけるチャンスがあるのではないかという
淡い期待を捨て去ることが出来ませんでした。
だからルースはひそかにOLに憧れたりしたわけです。
しかしそれは幻想であることを思い知らされる。
そんな彼らのあいだにまことしやかに流れる噂がありました。
ほんとうに愛し合う恋人は、臓器提供へ移行する前に数年の猶予が与えられるというのです。

そこにトミーは、作品の展示館の件を結びつけます。
ヘールシャムの学校では、生徒たちに、絵や彫刻や詩やエッセイなどの作品を作るようにと、
熱心に声をかけ、奨励していました。
年に4回、交換会があり、作品を提出するともらえる交換切符で、
友だちの作品を「買う」ことが出来る。
つまり、生徒同士で作った作品を交換し合うのです。
そこへ、不定期ですが、「マダム」と呼ばれる外部の婦人がやってきて、
出来のいい優秀と思われる作品を選んで車に積んでどこかへ持っていきます。
「マダム」が、枕を抱いて踊るキャシーの姿を見かけて涙したのは、
そうして学校を訪れたときの1コマでした。)
その作品が運ばれる先には、マダムの展示館があるのではないかと
生徒は想像して、噂し合っていました。

トミーは、とある件で絵を描くことに劣等感を覚え、交換会に何も出品しようとしなくなります。
それがきっかけとなって癇癪を起こすようになり、仲間はずれとなり、いじめにあいました。
しかしルーシー先生から、たとえ絵が描けなくても、作品を作れなくても、
あなたがいい生徒だということを、私は知っているからねと励まされます。
才能や能力とかではなく、存在そのものを認めてくれた。
トミーにとってそれは、「基本的信頼」を得ることの出来た出会いのひとつだったと思います。
以来、彼は感情をコントロール出来るようになり、いじめもなくなりました。

ところが、それから何年か後、ルーシー先生がトミーに言います。
自分の言ったことは間違いだった。絵が下手なのはよくない。絵は重要だった。
今からでも遅くないから、絵が達者になるよう、励んでほしい、と。

また、校長のような存在である主任保護官のエミリー先生が、
ぽろりと言った言葉をトミーは覚えていました。
──絵や詩は、作った人の内部を写す。
作った人の魂を見せる。

そこでトミーは、こう考えます。
ほんとうに愛し合う恋人たちには、死へ至る臓器移植を延期するという特例がある。
しかし、命を長らえるために恋人同士を偽装するなどというような不正もあるだろう。
それを防ぐため、ほんとうに愛し合っているか、心が正直であるかを判断するために、
魂を写し出すという絵や彫刻や詩などの作品を参考にするのだと。

そしてトミーは、独自にユニークな絵を描きはじめます。

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キャシー、ルース、トミーの三人は、いわゆる三角関係となります。
が、TVドラマ版で彼らに相当する、恭子、美和、友彦が繰り広げた
どろどろの三角関係に比べると、あっさりめに描かれています。

いえ、語り手であるキャシーがすべてを語っていないのかもしれませんね。
ルースとトミーは学生時代からつきあい始めます。
それが原因だとはいっさい書かれていませんが(いっさい書かれていないところがミソだと思います)、
キャシーは、恋愛感情はなしに他の男の子に声をかけて肉体の関係を持ったりします。
二人が仲違いをすると、キャシーは動揺したりもします。
しかしルースに修復役を頼まれると、その役を買って出て二人の仲を取り持とうとする。
(そこにはルースの思惑があったのかもしれませんね。)

ノーフォークへの小旅行でトミーと2人きりになったときなどには、
キャシーの恋愛的なせつない感情が、しみじみ切々と描写されますが、
しかし、はっきりと恋愛として語られるわけではありません。
友情か恋愛かという葛藤が、キャシーの中にあったのかもしれませんが、
それにはいっさい触れられません。

しかしルースは、自分の使命の終わりが近づいていることを感じとったとき、
彼女はキャシーに告白し、謝ります。
自分の最悪の過ちは、キャシーとトミーの恋路に割り込んで邪魔をし、
トミーを奪い続けたことだったと。
そして、今からでも遅くはない、二人はほんとうに愛し合っている恋人として
マダムの元へ訴え出るべきだと言い、自分で調べたマダムの住所を渡します。
それがルースの遺言のようになるのです。

キャシーは、「介護人」という進路を選択していました。
提供者は、2回、3回と手術を重ねていくごとに体力的にも精神的にも疲弊していきます。
そんな提供者に寄り添い、世話をするのが介護人の役目で、
それには同じクローンの立場にある者が適任とされるわけです。
トミーも最初は介護人をしていましたが、しばらくして提供者となる通告を受けました。
キャシーは、介護人として優秀な仕事ぶりが認められ、まだ通告を受けずにいて、
小説の冒頭で、この手記を書いている時点では、介護人を11年続けていると記しています。

ルースの死後1年が経ったとき、キャシーはトミーの介護人となります。
そうしてルースの遺言ともいえる言伝ての通り、
キャシーとトミーの2人は、マダムの元を訪ねていくことになります。
はたして2人は、恋人として真実の愛を認められることになるのか……?

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──万が一、もしもまだ小説を未読の方が、ここまでこの稿を読まれているとしたら、
申し訳ありません、まったくのネタばれです。
今すぐ他のサイトに移るか、パソコンを止めて、小説を読んでみて下さい。

それでここにネタばれを書いてしまうのですが、
結果、噂は、根も葉もない茶番のようなうわさ話に過ぎないことがわかります。
真実に愛し合う恋人が猶予を与えられるという話は、物語としては考えられても、
制度としては考えにくい。
子どもの絵などの作品が心を写し出すとして、児童心理学が研究する例はあるとしても、
成人した人物の正直さや心をそれのみで判断出来るとはまず考えられません。

が、そんな噂であっても、彼らが信じようとした裏には、必死さがあったのだと思います。

危機的な状況に陥ったとき、私たちは、何らかの奇跡が起きて救ってくれないかと願います。
誰か英雄のような人が、誰か救い主のような人が出現して救ってくれる。
運命の鍵を握る神様の采配によって救われる……。
そんな奇跡にすがりつきたいという願望が、神話や昔話の物語に反映されているのでしょう。
真実の愛のキスによって、100年の眠りから目覚めたり、死んだ姫が生き返るという展開は
昔話の定番だったりします。
正直者や心の清らかな者が救われるという展開もまた、昔話ではおなじみです。

愛する者、魂の正直な者が救われないというのは、おかしいではないか。
死は免れ得ないとしても、猶予を与えてもらえるのではないか。
それが甘い観測だとわかっていても、愛によって、魂の真実によって救われるという噂は、
彼らが思わず手を伸ばしてすがりついてしまう「希望」だったのだと思います。

第二次大戦中のアウシュヴィッツ収容所。
1944年のクリスマスから新年にかけて、囚人たちがかつてないほど大量に死亡したそうです。
過酷な労働と深刻な栄養不足。悲惨な環境とそれに伴う病気の蔓延。
彼らはいつ命を失ってもおかしくない状況でした。
が、この時期にそれほど大量の死を迎えることは説明がつかない。
そこで収容所の医長はこう考えたといいます。

囚人たちは、クリスマスには家に帰れるだろうという素朴な「希望」を持っていた。
それは噂となって、彼らのあいだでささやかれたことでしょう。
しかしクリスマスが近づいても状況は、一向に好転する気配さえ見せなかった。
その現実は、過酷な毎日の中で彼らが頼りにしていた唯一の「希望」を「絶望」に変えました。
その失望と落胆が、抵抗力と体力を奪い、多くの者を死へ追いやったのだろうというのです。

──その収容所で囚人として暮らしていたV.H.フランクルが記しているエピソードです(3)

しかしこれは、言い換えれば、
理由も知れない裏付けも何もないただのインチキな噂に過ぎないけれど、
そこに素朴な「希望」があったからこそ、悲惨な状況でも多くの人々が生き延びることが出来た。
「希望」のおかげで、確かにクリスマスまでは生き延びることが出来たのだ、といえます。

マダム(彼女はマリ・クロードといいました)との会見で、
キャシーとトミーは、その「希望」をくつがえされたのでした。

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そして、マダムの元には、主任保護官だったエミリー先生がいて、
二人の話によって、クローンのおかれた状況が明らかにされます。

クローンは、いわば実験動物でした。
「試験管の中のえたいの知れない存在」という偏見と、そういう扱いを受けていた。
臓器提供によって、今まで不治とされていた病気が治り、人々に貢献することになっても、
人々は、その活躍の裏の彼らの人格と人生には思い至らない。
今も、多くのクローンの子どもたちが、政府によって作られた「ホーム」という施設で、
ひどい扱いを受けているといいます。

TVドラマ版では、学園が閉鎖されて後に作られた施設で、満足に食事も与えられず、
家畜のように育てられる子どもたちの悲惨が描かれていました。
「ホーム」は、そうした状況ということなのでしょう。

そんな中、エミリー先生やマダムたちは、人道的な活動として、
クローンの子どもでも、文化的な環境できちんと教育を受けさせれば、
感受性を備えた理知的な人間になれるのだという理念を掲げ、
ヘールシャムという寄宿学校の施設を起ち上げたのだといいます。
そして運動を支持し、寄付をしてくれる支援者たちに、
子どもたちがこうした作品を作れることをアピールし、
つまりクローンの子どもたちにも魂があるのだということを証明するために、
絵や彫刻や詩やエッセイを熱心に作らせたというのでした。

そこでキャシーが無邪気に尋ねます。
「でも、なぜそんな証明が必要なのですか、先生。魂がないとでも、誰か思っていたのでしょうか」

キャシーの質問はもっともです。
ここまで、彼女の手記を読んできた読者は、
この文章を書いた人物に魂がないとは夢にも思いません。
しかし、クローンは人間ではない、クローンには魂がないとする偏見が、
現在でも世間にはいまだにあふれているのだといいます。

人道的な看板を掲げて活動しているはずのエミリー先生やマダムたちでさえ、
いざキャシーたちクローンの子どもたちと実際に接するときには、
どこかしら腫れものを触るような、どこかしらモノとして扱うような距離感がありました。
ことにマダムは、クローンの子どもたちに対してどこかしら恐怖を抱いているような描写が見られます。

そしてキャシーたちが卒業して数年後、キャシーは知りませんでしたが、
モーニングデール・スキャンダルという事件が起こります。
モーニングデールという科学者が、おそらくは遺伝子操作によって、
知力や運動能力を特別に強化したクローンを開発したというのです。
現在、「ゲノム編集」など、遺伝子操作の技術が日々進歩を重ねていますが、
いかにもありそうな話です。
が、モーニングデールの研究は法律に触れたため、摘発され、計画は中止される。
しかし、そのニュースのインパクトは、世間の風向きを変えます。

──臓器提供に役立つ存在だけであるなら、認めてもいい。
けれど、知能や運動に優れるクローンだとすると、「良貨は悪貨を駆逐する」ように、
一般の人間を駆逐し、取って代わるのではないか。
そんな怖れが、人々の心に刻まれ、世間のあいだに広がっていく。
その逆風はクローン教育運動にも及び、支援者が次々に手を引いていきました。
そしてついには、学校経営も成り立たなくなり、ヘールシャムは閉鎖となって、
エミリー先生もマダムも借金を抱えたまま、引きこもり状態となる。
そこへ、キャシーとトミーが訪ねてきたというわけなのでした。

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その帰り道、キャシーが運転する車で夜の裏道を走る途中、
「ちょっと停めてくれ」とトミーが言い、車を停めると、彼は真っ暗闇の原っぱへ出て行きます。
キャシーが車中で待っていると、叫び声が聞こえる。
癇癪を起こしてわめき叫んでいた子ども時代を再現するかのように、
トミーがひとり咆哮していたのでした。
キャシーは車から飛び出て、暗闇の中のトミーの元へ走ります。

「わたしは、トミーが振り回している腕に飛びつき、しっかりと抱きかかえました。トミーはわたしを振りほどこうとしましたが、わたしは必死でしがみつき、やがてトミーの叫びがやみ、体から力が抜けていきました。トミーもわたしの体に腕を回してきました。野原のてっぺんで、二人はそうやって抱き合い、どれほど立っていたでしょうか。何もしゃべらず、ただすがり合っていました。烈風が吹きつづけ、わたしたちの服をはためかせます。抱き合っている二人を傍(はた)から見たら、闇の中に吹き飛ばされそうで、それを防ぐためにしがみつき合っているように見えたかもしれません。」(1)

真っ暗闇の世界に、ただ二人ぼっち、大風に叩かれ、絶望へ体を持っていかれそうになるところを
互いに支え合い、しがみつき合い、耐え忍ぶ。
行動の描写をしながら、けれど二人の姿を象徴的に語っていて、巧い表現だなあと思いました。
そして、せつないなあと思いました。
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子どもたちが夢中になって描いた絵。
おそらくは手を傷だらけにして彫った彫刻。
机にかじりついて書き上げた詩……。
それは拙く、粗も目立つ作品であったりするのでしょう。
しかしそれはまぎれもなく、子どもたちの心を写したものであるのでしょう。
そんな作品の数々は、かつては支援者に見せるために展示されもしたわけですが、
今は数も減らされ、マダムの家にただしまわれているのだといいます。
それらは、今となってはまったくの無駄で、価値のないものなのでしょうか?

子ども時代には絵を描くのが下手くそだったトミーが、練習して描き上げた風変わりな動物の絵。
キャシーやルースからは、評価を得られなかったようですが、
しかし、残された生命を込めるように、懸命に描き上げた絵。
絵を描いても無駄だと知らされたマダムとの会見以降も、
死ぬまでずっと描き続けられたというその絵は、価値のないものなのでしょうか?

筆者はそうは思いません。
それは、死までの猶予を得るというような希望には役に立たなかったかもしれません。
また、万人の鑑賞にたえるものであるとか、経済的な価値があるというわけでもないでしょう。
けれどもそれは、子どもたち、そしてトミー自身に作る喜びを与えてくれた。
出来がどうあれ、彼らが没頭して取り組んだ時間は、
芸術を通して自己表現することで癒されるというアートセラピーに通じるものがあるかもしれません。
そしてそれは、魂をもった彼らがこの世界に存在したことの証しであり、
その創造的な時間、その思い出は、
彼らの人生の中で、何事にも代え難い価値のあるものだったと思うのです。
だからこそトミーは、命を終えるその日まで、作品を描き続けたのではないでしょうか。

詩ではありませんが、キャシーが書き綴ったこの手記もそんな作品のひとつです。
卒業後、だいぶ経ってから書かれた彼女の作品は、マダムの展示館行きとなることはありませんでした。
が、「私を離さないで」というタイトルで出版され、多くの人々に読まれることになりました。
イギリス国内だけでなく、翻訳され、こうして日本にも届いているわけです。
彼女の作品が、カズオ・イシグロ氏のノーベル賞受賞に多大な影響を与えたことは確かで、
だとすれば、
クローンが魂を持っていることを世界に証明したいという、エミリー先生とマダムの目論みは、
成功したといえるでしょう。

Never let me go. わたしを離さないで……。

それは古い流行歌のフレーズでしたが、
あらかじめ母親の失われた幼子(おさなご)が、母親に呼びかける言葉のようで、
私たちのこの世界そのものに呼びかける言葉のようで、
ささやくような、しかし必死に訴えかけるその声が、読者の涙腺を崩壊させるのでした。


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《参考・引用文献》
(1)カズオ・イシグロ、土屋政雄訳「わたしを離さないで」ハヤカワepi文庫/早川書房
(2)E.H.エリクソン、仁科弥生訳「幼児期と社会Ⅰ」みすず書房
(3)V.E.フランクル、霜山徳爾訳「夜と霧」みすず書房
















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by kamishibaiya | 2017-11-29 08:50 | よんだり、みたり、きいたり | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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