「涼宮ハルヒの憂鬱」──面白きこともなき世を面白く

f0223055_04191785.gif「涼宮ハルヒの憂鬱」(1)という10年前のアニメを持ち出すなんて、
いくらなんでも流行遅れにも程がありますね。
が、最近「You Tube」でちょっと見かけたら、
面白いかも…と思いだし、
ついにはラノベ(ライトノベル)に手を出してしまったので、
感想を書いてみます。

で、思ったのは、涼宮ハルヒは、
バスチアン・バルタザール・ブックスである、ということでした。

「バスチアン・バルタザール・ブックス」というのは、
ミヒャエル・エンデのファンタジー「はてしない物語」(2)の主人公の少年です。
容姿や性格にコンプレックスをもち、いじめにあっている少年が、
古本屋で万引きした本を夢中になって読んでいくうちに、
本の中の異界へ入り込んでいくというストーリー。
この前半の部分を描いた映画「ネバー・エンディング・ストーリー」を
ご存知の方もいるかもしれません。

しかし、この物語のほんとうに面白い真価の部分は、映画では描かれなかった後半部、
バスチアンが異界の「救い主」の英雄となって、やりたい放題をやり、
しかし挫折して、現実へ帰る道を探すところにあると筆者は思っています。
その後半部分のバスチアンが、涼宮ハルヒと重なるのです。

岡田斗司夫さんは、
ヒロイン涼宮ハルヒは象徴的に、アニメ製作者が作る「アニメそのもの」であり、
語り手である“キョン”は「視聴者そのもの」であると語っていて(3)
なるほどと思いました。

が、筆者は、ハルヒもキョンも、視聴者であると思います。
ハルヒは、異界(アニメ)の中の住人として生きる視聴者の分身。
キョンは、現実に主軸の足を残しながらも、異界(アニメ)と現実を
行ったり来たりする視聴者の実際──あるいは視聴者の意識。
どちらも視聴者であることに変わりなく、その意味では製作者も視聴者も同じ立場で、
境目がなくなっている──ように思いました。
(岡田斗司夫説と、言い方が違うだけかもしれませんが。)
同人誌やニコ生動画などで、多くのパロディが再生産された背景には、
製作者と視聴者の立場がボーダーレスになっているということもあったように思います。

登場人物のひとりである古泉一樹は、
「人間が観測するからこそ、観測される宇宙が存在する」という人間原理を持ち出して、
涼宮ハルヒがいるからこそ、この世界が存在するという推論を語ります。
それを聞いたキョンは、おおいに疑義をさしはさみますが、
物語は古泉一樹の説を裏づけるように、涼宮ハルヒを中心に展開していきます。

しかし、アニメ作品という虚構が、涼宮ハルヒを主人公とする異界であるとしたら、
それは当然です。
基本的にフィクションの作品世界は、
作者のイマジネーションが生み出した産物以外の何者でもありません。
その作品世界=異界がどんなに荒唐無稽で、あり得ない世界だったとしても、
緻密に構築されていたり、魅力的であれば、読者は世界を共有し、
虚構と知りながらもリアルに感じるという錯覚を楽しみ、
その異界に遊ぶことになります。

それを、この世界はある人物の夢だった、ある人物の造り出した芝居や幻想に過ぎなかったなどと
楽屋落ちのように語ったり、オチに使ったりする、ファンタジーやSFやゲームがあります。
いわゆる“メタ”フィクション。
作り手側の方から、それがまったくの虚構であるとバラされると、
その作品世界に浸っていた読者にとっては興ざめのこともありますね。
そうした構造を明確に語らないで表現するメタ作品もあります。

何かを想像して楽しむという行為は、人間の本質的なことなのでしょう。
その想像世界では、すべてのことが可能です。
絵本「かいじゅうたちのいるところ」(4)のマックスが、異界を支配して王さまとなり、
怪獣ダンスを踊って暴れ回るみたいに騒いだように、
バスチアン・バルタザール・ブックスが、英雄となり、帝王を目指して活躍したように、
誰でも自分の描く想像の中では、王であり、創造主であり、すべて思うがままです。

「胡蝶の夢」で、蝶々となった夢をみた荘子は、ふと目覚めて考えます。
人間である自分が蝶となった夢をみたのか、
それとも、蝶である自分が、人間となってこの世界の夢をみているのだろうか。
蝶が人間となって、その作り出した世界を夢みる、それが現実となるように、
視聴者(読者)が涼宮ハルヒとなって、その作り出した世界を夢みる、それが現実となる。
その世界の現実が、つまりこの作品という虚構であるように思います。

そしてそんな涼宮ハルヒに惹かれつつ、愛着を感じつつ、巻き込まれつつも、
けれど客観的にながめ、日常の温度感から離れずにツッコミを入れるのが、キョンです。
彼は、視聴者(読者)の立場に寄り添っている。

アニメやマンガ、小説、映画、TV、絵本、紙芝居などなど、フィクションの異界からみれば、
この世界の現実の日常は、味気ない灰色に見えたりするでしょう。
そんなフツーな日常に比べ、フィクションの異界は「ドキドキ」や「ワクワク」に満ちています。

ラノベ「涼宮ハルヒの憂鬱」(1)のプロローグで、
語り手であるキョンは、小さい頃から宇宙人や未来人や超能力者が活躍する話にあこがれ、
そんな世界が実現することを望んでいたと書き記します。
そして超能力などの引き出しのない自分は、
悪と戦うメインのヒーローではなく、そのフォロー役になりたいというのです。
はたしてキョンは、入学した高校で涼宮ハルヒと出逢い、その世界を実現させます。
ヒーローではなく、ハルヒというヒロインのフォロー役として。

涼宮ハルヒは、キョンが望んでいた存在であるともいえるでしょう。
キョンは作者の分身でもあり、そしてこのとき作者は、
視聴者(読者)の気持ちや期待を代弁する、いわば視聴者の代表であるといえます。

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幕末という混乱と血の時代を生きた高杉晋作は、死ぬ間際に、
「面白き事もなき世を面白く」
という辞世の句を残しました。
彼のいう「面白き事もなき世」がどんな世の中か、
平和の時代の私たちには、いまいち理解出来かねるように思いますが、
「面白くなければ面白くしようぜ」精神は、いつの時代でも真理でしょう。
それは単に「退屈だから、何か暇つぶしをしようか」とは違うもののように思えます。

そこで、実はキョンが小さい頃から願っていた空想であり、
しかし高校1年生となった彼にとっては、冗談としか思えないベタな願望を、
涼宮ハルヒは入学早々の挨拶で、堂々と真剣に言い放つことになります。

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、
あたしのところに来なさい。以上」(1)

「そんなアホな」と呆れて、正常な普通の高校生らしい常識的な態度をとっていた──
つまりは猫をかぶっていたキョンも、しだいに彼女に巻き込まれて、物語が転がりだします。

たまたま部室探しの物件に居合わせたおとなしい文芸部員の眼鏡っ子。
物語には「萌え」を体現する美少女キャラが必要だというお約束のために
拉致(スカウト)された、ロリ顔で巨乳の先輩女子高生。
この時期の転校にはきっと秘密があると決めつけられた「謎の」転校生。
──彼らが実は、宇宙人(が造ったヒューマノイド・インターフェース)、
未来人、超能力者であったのです。

ハルヒとキョンと、そんな彼らが結成したのが、SOS団。
「世界(Sekai)を大いに(Ooini)盛り上げるための涼宮(Suzumiya)ハルヒの団」
の略だといいますが、これは、そのまま、
「視聴者(読者)を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒというコンテンツ」だと思います。

しかし、物語を展開させるバネとなるのは、多くの場合、何らかの欠落や障害です。
村が、野武士たちに襲われて困っている。
地球が、惑星に衝突されそうで困っている。
主人公が、呪われた弟の運命の謎を克服しようとする。
主人公にコンプレックスや欠点があって、悩んでいる。
──何らかの困難が目の前に立ちはだかることによって、ストーリーが動き始めます。
ところが、物語の舞台は、ごく一般的なふつうの高校です。
涼宮ハルヒは、ルックスはよく、勉強も優秀で苦手科目がなく、スポーツは万能で料理も上手く、
クラスから浮いていても独立独歩で、いじめにあうことはなく、
教師や学校や社会から直接的な圧迫を受けることもありません。
(バニーガール姿をして校門で入部勧誘をしたり、学校の屋上で花火や爆竹を鳴らしたりは、
さすがに教師から弾圧されましたが。)
だから何も事件は起こりません。

小さな頃のキョンは、悪を倒すヒーローを想い描いていました。
出現したのはヒロインでしたが、けれどもここには戦うべき悪がいません。
ホームレスをリンチする少年たちや、一般人を食いものにするヤクザなど、
探せばいるのかもしれませんが、悪という存在が見えにくい。
「怒れる世代」でもなく、
「みんなで距離をとりながらうまくやって行けばいいじゃん」という風潮の昨今では、
戦うべき巨悪も見えにくい。
正義を主張することもない涼宮ハルヒは、何もやることがありません。

また、「海賊王に、おれはなる」というような夢や目的を
今はまだ持っていない涼宮ハルヒは、何もやることがありません。

けれど、私たちの日常というのは、たいていそうですよね。
今も世界のどこかで事件は起こっていて、悲報を伝えるニュースは年中無休ですが、
私たちの身近にそうそう事件や不思議が起きるわけではありません。
ハルヒたちは、何か事件に遭遇しないかと、まる一日、駅前あたりをぶらぶらしますが、
それで何かに遭遇するというのは、たぶん
渋谷でアマミノクロウサギを発見するくらいの難易度です。

しかし、それは「ドキドキ」や「ワクワク」の枯渇を意味することになります。
涼宮ハルヒの唯一の悩みは「世界は普通すぎる」ことです(5)
視聴者(読者)を大いに盛り上げなければいけない彼女は、憂鬱におちいりざるを得ません。
憂鬱となった涼宮ハルヒは、
何か最近つまんねえなー。何かおもしろいことはないのかよ……と
ブチブチ言いながら日常を生きている私たち視聴者(読者)の姿でもあります。

そこで、涼宮ハルヒは3年前、「私はここにいる」と校庭に謎の文字を落書きし、
しかし、そうした不思議や事件を待っているだけではだめだと考え、
高校入学早々にぶっとんだ挨拶をかまして宣言し、SOS団の結成に至るわけです。

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涼宮「ハルヒ」というネーミングが、どういう発想で生まれたのかわかりませんが、
エンディングテーマの「ハレ晴レユカイ」(作詞:畑亜貴)を持ち出すまでもなく、
「晴れ」という語感とイメージを連想させます。
日本に古来からある「ハレ」と「ケ」の概念の「ハレ」というやつですね。
作者・谷川流さんは、文化祭が終わった「祭りのあと」の場面のところで、
語り手・キョンにこう言わせています。
──文化祭の「ハレ」の時期が過ぎて、「ケ」の日常が戻ってくる。
けれど「ケ」の時期になってもテンションが高い涼宮ハルヒは
「年がら年中ハレ真っ盛りのハルヒ」なのだと(6)

「ケ(褻)」は、日常的なふだんの状態。
昔、普段着のことは、「褻着(けぎ)」と呼ばれていました。
「褻」という字は、もともと普段着や下着を意味する字でした。
しかし、毎日毎日同じ肌着を身につけていれば、小さな垢汚れも積み重なり、
エントロピーも増大して汚くなっていく。
日々の営みも、繰り返しているうちに、行き詰まり、息が詰まってくることになります。

そこで、節目節目で、「ハレ(晴れ)」を呼び込むんですね。
そのときには、「晴れ着」を着る。
ふだんの慎ましい食事ではないちょっと贅沢なご馳走を楽しむ。
たとえば祭りでも、その日は仕事の苦労を忘れて、煩雑な日常も忘れて、
みんなで楽しみ合い、欲望を発散させます。
喧嘩をしたり、公然と暴れ回るのもOKだったりする祭りもあります。
「ハレ」の日に、「ケ」で汚れた魂の洗濯をする。
みんなで弾けて、ガス抜きをしたりする。

涼宮ハルヒは、日常の「ケ」の中に、「ハレ」を呼び込もうとします。
「面白き事もなき世」を面白くしようとする。

物語では、ときどきハルヒのいない日常の場面が描かれます。
長門有希(宇宙人)が読書にいそしみ、
メイド姿の朝比奈みくる(未来人)がお茶を供し、
古泉一樹(超能力者)とキョンが暇つぶしのオセロに興じるというような、
なんの目的もなく部室でまったりと過ごす平和な日常。
そこにハルヒはいません。
しかし、それでは物語にならないわけで、
そこへハルヒがけたたましく「どかんッ!」とドアを蹴り飛ばすいきおいで登場し、
訳のわからない思いつきを号令して
大騒ぎがわちゃわちゃと始まることになるわけです。

草野球大会に参加してみたり、ゲーム団体戦で勝負したり。
ふつうの旅行合宿では飽き足らず、
推理小説仕立ての離島ツアーや雪山ツアーで探偵を気取ってみたり。
彼女はお祭り好きで、イベント大好きです。
七夕祭り。クリスマスイブ。年越しカウントダウン合宿。節分。バレンタインデー。
そして夏休みには、プール遊びや盆踊り、蝉とりなど定番のイベントごとを、すべてを制覇する。
体育祭に割かれたページはあっさりでしたが、ハルヒはノリノリで大活躍だったそうで、
「狂乱の」体育祭だったと伝えられます。
文化祭では映画を製作し、急遽バンドに参加してステージに上がったりする。

全能とも見間違うような強大なチカラを手にした鉄雄(「アキラ」)や
獅子神皓(「いぬやしき」)が殺戮に走り、
世界の破壊へと向かって暴走したのに比べると、穏やかで平和的です。
(彼女が自分のチカラに無自覚であるということもあるのですが。)

ハルヒは小学6年生の頃に出かけた野球場のスタジアムで、あまりの人の多さに驚き、
自分がちっぽけな存在であることに気づいたといいます。
歯をみがいて寝て、朝起きて朝食を食べる……そんな日常(ケ)が色あせて見え、
フツーではない面白い人生を開拓しようと思いつく。
「ハレ」を持ち込もうとする。
それが中学3年生のときの校庭落書き事件へとつながるわけですが、
彼女自身の世界観はむしろ常識的で、フツーの日常の枠組みからはみ出すわけではありません。
校庭の落書きはエキセントリックですが、
世界を脅かすような破天荒な事件をやらかすわけではありません。
また「UMA捜索隊」を組織して海外遠征をするなど、広い世界へ飛び出そうという
発想も野望もありません。
舞台は、色あせて見えたその小さな日常を離れない。
事件(?)が起きるのも、ほとんど彼女の生活圏の半径30㎞範囲内(推定)に限られます。
アニメの背景画が、実在する兵庫県西宮市でロケハンした風景そのままを
ほぼ忠実に描いているのも、日常のリアルの演出に一役買っているでしょう。

彼女がすることは、視聴者(読者)にとってはリアルで、
実際に手が届きそうなことばかりです。
そんな立ち位置でスーパーを発揮する彼女は、
視聴者(読者)のささやかな夢の体現者でもあるわけです。

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昭和のはじめ(1931年)、柳田国男が「明治大正史世相篇」(7)で、
ハレについてチラッと述べています。
明治大正の頃にはすでに、かつてあったハレとケの区別があいまいになっていました。
昔はハレの日にしか飲まなかったような酒を、日常の日でも飲む機会が多くなる。
「世の中はほとんど毎日の晴であった」といいます。
現在では、酒の習慣に限らずその傾向が進み、
区別がほとんどなくなっていると言っていいのではないでしょうか。

儀式的な「ハレ」と「ケ」は残っています。
しかしたとえば、「ハロウィーン」という文化が外国から輸入されて急速に広がりましたが、
その儀式としての祭りの本来の意義は消えてしまいました。
ただ、ふだんでは考えられないコスプレをして馬鹿騒ぎをする、
その「ハレ」を楽しもうとするきっかけだけが取り上げられます。

「ハレ」を日常の中に区別なく持ち込もうとする、「日常(ケ)のハレ化現象」は、
たとえば「インスタ映え」という言葉にも、その尻尾が見えるかもしれません。
SNSでは、日常の日々の中でふと出会った美しい情景や、心動かされた物事を、
写真や文章で日記のように綴っていき、
それを発表することで誰かと共感し合ったり、話題を交換し合ったりします。
しかしそれが、美しい場面だけを切り取ることで、
自分の日常を何か現実とは違う虚構のように思う錯覚が生まれます。
一時話題になった、セレブやリッチになりすます「キラキラ女子」ほどではなくても、
その虚構を楽しむような感覚と、ちょっとした作為と演出が
「インスタ映え」にあるような気がするのです。

「五風十雨」は、天下泰平を意味する言葉です。
が、天下が平和に流れる穏やかで順調なその気候でさえ、
五日に1度は風が吹き、十日に1度は雨が降るわけです。
365日、年中「晴れ」というわけにはいきません。
現実の日常では、だいたいが曇りで、強風の日もあれば、どしゃ降りの日もある。
昔、シェイクスピア劇のおしまいで道化が謡ったもんです。

「ヘイ、ホウ、風と雨
来る日も来る日も雨は降る。」(抜粋)[註1](8)

そんな現実を打ち消して「ハレ」ばかりだと考える人生観も、アリだと思います。
灰色の色あせた日常をちょっとでも明るくしようとする欲求を否定するわけではありません。

「禍福はあざなえる縄のごとし」。
人生は、福というワラの束と、禍(わざわい)というワラの束をより合わせた縄のように、
幸福と不幸は表裏一体で、からまるように交互にやってくるといいます。
が、その意味を作家の向田邦子さんから教えられた黒柳徹子さんは、
「幸福の縄だけでよってるっていうのはないんですか?」
と、きいたそうです。
向田邦子さんはこの時は「ないの」と答えたものの、
このエピソードに基づくドラマ(「トットてれび」(9))では、
「徹子さんの縄は、幸福ばっかりであざなってあるのかもしれない」
と言っていました。
もちろん、誰の人生にも明と暗があるものです。
実際には黒柳徹子さんにも、いろいろな「禍」が、多々あったことは、
彼女の半生を描いたドラマを観ずとも明らかです。
とはいえ、「暗」を「明」に変えてしまうような楽天的な黒柳さんの人生観のせいでしょうか、
幸福ばかりの「明」に彩られているように映る縄もあるのかもしれません。

しかしながら、曇りや雨という「暗」がなければ世界は成り立たず、
そんな現実にきちんと向き合うことも大切だと思われます。

涼宮ハルヒが巻き起こすドラマでは当然、ハレの場面が描かれるわけですが、
だんだんその区別がなくなってきます。
ハレの「日常(ケ)化現象」が起こってくる。
「ハレ」が過剰に繰り返されることで、「ハレ」のインフレーションが起こり、
逆に「ワクワク」や「ドキドキ」が失われていきます。
「ワクワク」や「ドキドキ」を感じなければいけないというような、
強迫観念さえ覚えるようになります。
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このあたりの涼宮ハルヒが、
「はてしない物語」のバスチアン・バルタザール・ブックスの姿とダブって見えるのです。

虚無に浸食され、滅亡寸前となった異界を救ったバスチアンは、
「救い主」の英雄として大活躍します。
彼は、現実世界ではコンプレックスをもっていた容貌やスタイルも大変身して、
この世界ではイケメンとして生まれ変わります。
競技会に参加しては、無敵の力と技と胆力を発揮します。
慈善を施し、徳の高い人といわれます。
知恵ある高僧が何十年と考えても解決出来なかった問いに答えをもたらし、
悟りをひらかせます。
想像の世界では、誰でも、思うがままの望みが可能となる。

涼宮ハルヒの物語の舞台は異界ではなく、現実の日常という設定ですが、
彼女もまた「大」活躍とはいかないまでも活躍します。
団のパソコンを調達したりなどは、彼女の強引なキャラの勝利ですが、
宇宙人・長門有希の細工だとはいえ、バッターボックスに立ってはホームランを量産し、
球技大会のバレーボールでは豪腕の名アタッカーとなり、
すべてお膳立てされたフェイクの事件だとはいえ、名探偵ぶりを発揮し、
急遽バンドに加わってステージに上がっては
見事に演奏とヴォーカルをこなして喝采を浴びます。

バスチアンは、でたらめな物語を自分で作って「あるところに竜がいて…」と話せば、
実際にそんな竜が出現しました。
でまかせに語った伝説もその通りになります。
涼宮ハルヒは、脚本も書かずに思いついたでまかせのような映画を完成させました。
(でたらめの辻褄合わせは、「朝比奈ミクルの冒険 Episode 00」(10)にまとめられていますが。)
彼女が望めば、グレーの鳩は純白の鳩に変わり、猫はしゃべりだし、秋なのに桜満開となり、
ただのコンタクトレンズから殺人ビームが飛び出します。

バスチアンの場合、彼の活躍はすべて自分のためのものでした。
無償で他人を救ったりもしますが、それは「いい人」に見られたいという
利己的な目的があってのことです。
コンプレックスに悩んでいた彼には、人に認められたい、
人から愛される人間になりたいという本質的な欲求があったのだと思います。
しかし自分のことしか見えなくなっていた彼は、
彼のためを思って忠告してくれる友人の友情さえ信じられなくなり、自滅していきます。
そのドン底の孤独の場所から彼は、自分から人を愛するという、
ほんとうの望みを見つけていくことになるのですが。

すべて自分の思いのままになることで利己的になり、自分の欲求しか見えなくなってしまう。
その傾向は、涼宮ハルヒにも見られます。
もっとも彼女は自分のチカラには気づいていないので意識しているわけではなく、
そのわがままさは、彼女のキャラクターにもよるものです。

彼女の目的は「世界(視聴者/読者)」を大いに盛り上げたいというもので、
その望み自体は利己的ではありません。
が、彼女は、視聴者(読者)の「カッコいいことをしたい」
「『ワクワク』『ドキドキ』を味わいたい」という望みの体現者であるわけで、
それが暴走すると、しばしば他人を省みなくなります。

いちばんの犠牲者となるのが朝比奈みくるです。
彼女はいじられキャラで、涼宮ハルヒから、恥ずかしいコスプレを強制させられるなど、
二人でじゃれ合っているうちはいいのですが、
映画づくりの際には、往年の黒沢明監督のような鬼ぶりで、「緑色に濁った池」へ飛び込ませ、
未成年なのにテキーラを飲ませて酔わせ、ポカポカ叩いてオモチャにする悪ふざけとなると、
キョンならずとも「待った」をかけたくなります。

そして彼女を取り巻くSOS団には、イエスマンしかいないという状況があります。
どころか、彼女の望みがどんな気まぐれな望みであれ、陰になり日向になり、
その準備をし、フォローし、後始末をするのは、すべて団員メンバーの仕事です。

彼女が自分のチカラを知って意識することになるのは、この世界にとってリスクが大きすぎるとして、
宇宙人、未来人、超能力者たちメンバーは、彼女に事実を悟らせないよう画策します。

というのも、涼宮ハルヒがストレスをためて、ちょっとした鬱状態になると、
彼女の無意識が作用して、世界のどこかに時空間の断列が起こり、閉鎖空間が出現します。
そこには「イドの怪物」ならぬ「神人」と呼ばれる巨人が出現して暴れまくり、街を破壊する。
その神人を倒すために古泉一樹らの勢力が超能力を発揮するのですが、
彼が言うには、この神人を倒して閉鎖空間を消滅しないでおくと、
閉鎖空間は増殖してこの世界をのみ込むかもしれないのだそうです。
そのため、彼らは世界に破滅を招かぬよう、
すなわち涼宮ハルヒが機嫌を損ねずに、常に「ハレ」気分の状態でいられるよう、
たえず彼女の顔をうかがい、涙ぐましい努力をしなければならないわけです。

この作品は、ヒロイン涼宮ハルヒを大いに盛り上げようとする、
そんな彼らを描いた物語であるともいえるでしょう。

視聴者(読者)も気まぐれですよね。
気に入らなければTVのチャンネルを替える、あるいはページを閉じればいいだけで、
そうなれば視聴者(読者)とつながった世界は消失します。
そんな視聴者(読者)が涼宮ハルヒと重なり、
彼女の機嫌を損ねないように頑張るSOS団が、製作スタッフと重なるような気もします。

結果、涼宮ハルヒは女王様ポジションということになります。
美少女ゆえに許されてしまうところもありますが、
とはいえ、そのわがままと横暴さの裏に、変に利己的な邪念のないところが魅力だったりするのでしょう。

彼女に「NO」を言えるのは、唯一キョンのみですが、
彼はたえずブツブツと文句や愚痴を心の中でつぶやきながらも、
それを口に出して、真っ向から異を唱えることはそれほどにはありません。
それは、彼が寛容だからとか、チキンだからとかいうことではなく、
けっして彼は言葉にして語りませんが、
涼宮ハルヒが表面のわがままの裏に、仲間への想いや情にあつい心をもっていること、
「ワクワク」や「ドキドキ」に無邪気に目を輝かせるひとりの少女であることを
理解しているためだと思われます。
そのあたりの可愛らしさは、視聴者(読者)にも伝わってきます。

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以前、「ほぼ日刊イトイ新聞」の冒頭のコラムで、糸井重里さんが、
食事には「満腹感」よりも「満足感」が大事なんだろうと書かれていました(11)
「これでいいや」と、やっつけですませた食事は、満腹はしても、満足感がない。
胃袋は満たされても、何かもの足りない気分が残り、
食後、余計なお菓子などについ手をのばしてしまうというんですね。
「満足」は、量や品数に関係なく、たとえ質素でも満足するときは満足する。
たとえば、「食べたい」と思って自分で手間ひまかけて作ったものは、
たとえ安易なインスタントラーメンであったとしても「満足感」があるというわけです。

「ご馳走」という言葉の語源は、客をもてなすため、馬を走らせ、人間も走り回って
食材を探し、集めることなんだそうです。
それだけ手間と時間をかけて作ったものは、どんなに質素であっても「ご馳走」になる。
そうして作ってもてなしてもらったものは、すべて「ご馳走」で、
だから食後の挨拶には、そんな手間と時間への感謝の意を込めた「ご馳走さま」を言うのでしょう。
そこには、たぶん「満足感」があります。

涼宮ハルヒは、即席のチームを作って、草野球大会に勝利します。
が、手にマメを作りながらも素振りに励んだり、
レギュラーにはなれずベンチで応援する者もいたりする相手チームのような手間と時間を、
彼女はかけていません。

キョンは、文化祭のバンド演奏大会に参加する一般のバンドについて述べ、
ありがちで、コピーバンドだったりするけれど、
「たぶん俺が映画作製にかけた百倍くらいの情熱と努力の結実がそこにあるだろう」
と評価します(12)
涼宮ハルヒは、即席でバンドに加わってステージに上がって、やんやの喝采を受けます。
それは他の一般のバンドよりも爆発的にウケる結果となりましたが、
メンバーとケンカしたり肩を叩き合いながらひとつの楽曲を作り上げる……
そんな「情熱と努力」の過程を経たわけではありません。
結果オーライで満足出来たとしても、
手間と時間の過程を省いた彼女には、充実した「満足感」がなかったのではないでしょうか。

たとえば、アニメ化もされた「響け! ユーフォニアム」(13)では、
部員同士の葛藤や、指導者への不信などというバラバラ状態を経て、
そこから互いの信頼を獲得していく過程やら……が、描かれます。
古典的といえば古典的です。
昔から少年ジャンプの編集部が掲げている「友情・努力・勝利」。
これはもう使い古されているように思われるテーマですが、そこに普遍性があるからこそ、
今もくりかえし語られる王道であるのでしょう。
そうした諸々(もろもろ)の「情熱と努力」のドラマの過程が、もしも何も描かれないとしたら、
ただコンクールで賞をとる演奏の「勝利」の場面だけを見せられても、面白くないでしょう。
そこに「友情・努力」の過程が描かれているからこそ、その結果がたとえ銅賞であっても、
そこに感動があります。
充実した「満足感」があります。

涼宮ハルヒは監督として、情熱をもって映画を作り上げます。
もちろん彼女も懸命に努力しました。
その強引さで団員を引っぱり回し、盛り上げ、リーダーとしても頑張りました。
が、上映の前日まで撮影するという超ハード・スケジュールの中で、
キョンをはじめとする団員たちも頑張りました。
そうした陰の仕事や雑事をこなす彼らがいなかったら、映画は完成しなかったでしょう。


TVの食べ歩き番組で、店を訪れたリポーターが注文すると、
料理は1秒もたたないうちに運ばれてきます。
実際には、リポーターが来る前に作りおいていたか、
あるいは2~30分、料理が出来上がるのを待っている時間があって後(のち)に
運ばれてくるのでしょう。
けれど、放映する際には、リポーターがぽかんと待っているだけ、雑談で暇をつぶすだけの
地味で面白くない無駄な時間は、当然カットされます。
TVは現実を写していても、やっぱり虚構で、
現実のつまらない時間や陰の努力の部分は映しません。
いいとこ取りです。
つまり「ハレ」ばかり。
けれどそうした「曇り」や「雨」の場面を切り捨てる編集がなければ、
番組は冗漫で退屈になるだけです。

しかしながら、そうした陰の、わずらわしく面倒で
つまらなかったり辛かったりする部分がなければ、現実の物事は成り立ちません。
そして実は、そんな手間と時間をかけたり、困難さを乗り越えてこそ、
ほんとうの「満足感」をかみしめられるような気がします。
もちろん「棚からボタもち」式の成功でも、うれしいにはうれしい。
そりゃあうれしいもんですが、充実した満足感とはちょっと違います。

涼宮ハルヒは、そうした過程を省いて、あるいは仲間に押しつけて、
結果だけの「いいとこ取り」で、カッコイイことを次々に実現させていきます。
まるでバスチアン・バルタザール・ブックスのように。

それは、視聴者(読者)の望みの体現でもあります。
しかし、必ずしも充実した満足感を得られない。
そこには、飢餓感みたいなものさえあるように感じます。

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そんな飢餓感と、「ハレ」のインフレーションを感じたのが、
「エンドレスエイト」(14)でした。

涼宮ハルヒは、夏休みを充実させようと、定番のイベントごとをリストアップします。
プール遊び。昆虫採集。盆踊り。金魚すくい。花火。アルバイト……。
アルバイトを除けば、どれも小学生の頃には誰もがワクワクして遊んだ夏休みのイベントです。
SOS団は、計画通りにすべてを消化してやり遂げ、
夏休み最後の8月31日。ハルヒは喫茶店の会合でも満足したと言って帰っていくのですが、
どうやら彼女の無意識のところでは、満足出来ない心残りがあるらしい。
そのために世界は、8月31日のところで時間を逆行させ、8月17日へと立ち返って
繰り返すことになります。
8月17日の時点では、記憶もすべてリセットされているので、
誰も繰り返していることに気がつきません。
ただ、ぼんやりとしたデジャヴ(既視感)を感じる。
その繰り返しに最初から気づいている宇宙人、長門有希によると、キョンが知ったときには
1万5千何百回も延々と繰り返していたといいます。

アニメの放送では、その繰り返されたうちの8回を、そのまま8話にわたって放映したそうで、
当時、筆者は知りませんでしたが、賛否両論を呼んだそうですね。
(どちらかといえば否定意見が多かったとか。)
いや、番組の30分間、ほとんど同じ内容を、2ヶ月にわたって8回繰り返すだなんて
ずいぶん無茶したなあと思います。
その繰り返しを改めて観て感じたのは(観たのはほとんど早回しでしたが)、
「ハレ」も過剰になって繰り返されると、日常(ケ)になっていくということでした。
「ワクワク」も「ドキドキ」も消え失せていく。
退屈になっていく。

私たちの経験の中には、二度と味わいたくない、辛くしんどい思い出もあります。
が、楽しい経験だったら、何度でも繰り返し味わいたい。
時間を逆行して、もう一度あのときに戻れたら……という思い出もありますよね。
しかしどんなに楽しい経験も、1万5千何百回も繰り返されたら楽しめないでしょう。

バンドのGRAYに「100万回のkiss」という曲があります。
倉木麻衣さんは、さらにその上を行く「1000万回のkiss」を歌っていますが、
こちらもなかなかに大変そうです。
まあ、しかし、100万回、1000万回、1億回と重ねたkissであっても、
たった1度のkissにかなわないということもあると思います。
至福の時間というのはたぶん一瞬で、あっという間に過ぎ去るはかないものであるがゆえに、
美しく大切に思えるのではないでしょうか。
そんな瞬間は、哲学者のキルケゴールが言っていたように、永遠となる。

夏休みは楽しく過ごさねばならないというような、半ば強迫的な目標で夏を過ごしたハルヒたちが、
ほんとうに実のある時間を過ごしたかはわかりませんが、彼女は満足したと言います。
しかし彼女が、何度も繰り返すループの異常事態をひき起こしたのは、
「満足した」と言葉では言いながらも、無意識のうちに心残りがあったからです。
そのために夏が終わらない。
ハルヒのその心残りというのは何なのか?
キョンたちSOS団と、そして視聴者(読者)は考えさせられることになります。
そしてアニメでは、2ヶ月間、8回のループを繰り返した後に、答えがもたらされます。
それは、ごく納得のいくものでした。
──それは、夏休みの宿題だったというのです。

絵本「かいじゅうたちがいるところ」(4)で、異界に行き、夢中になって遊んでいたマックスのもとへ
「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう夕食の匂いが漂ってきます。
それが、マックスが現実世界へと帰るきっかけとなり、道しるべとなりました。
誰だって、腹が減っては戦(いくさ)も出来なければ、冒険も出来ない。
生きものは何かを食べなければ生きていけないというのは、みんなが知っている現実原則です。
「汝の義務とは何か? ──日々の要求である」とゲーテが言っていた「日々の要求」です。
現実の日々の要求によって、マックスは異界から現実へ帰ってくる。

学生であるハルヒやキョンたちにとって、現実の日々の要求は、宿題でした。
彼らは、宿題という要求に応えることによって、ループする異常事態から現実へ帰ってくるのです。

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そしてマックスが現実へ帰ってくるきっかけのもうひとつのポイントは、
その夕食を作ってくれた「自分を最も愛してくれるだれかさん」──母親の存在ですね。
バスチアン・バルタザール・ブックスが現実へ帰ってくるきっかけは、
坑道の奥深く、夢のかけらの地層の中に埋まっていた、自分を愛してくれる父親の肖像画でした。
想像ではなく、現実の愛が、現実を前向きに生きるきっかけとなるわけです。

涼宮ハルヒが、自らの無意識が生み出した閉鎖空間に囚われたとき、
彼女が無意識の底で、いっしょにいたいと願ったのは、キョンでした。
そして真実の愛によるkissが、白雪姫や眠り姫(いばら姫)の呪いを解いたように、
キョンと涼宮ハルヒは、kissによって現実へと帰ることが出来ます。
そのkissが真実の愛によるものなのかは、本人たちも甚だ疑問でしょうが、
そのkissによって、ハルヒが閉鎖空間を解消させるという展開はわかる気がします。
そうしたかたちの愛もまた、現実を前向きに生きるためのきっかけとなる。

「あたしはね、キョン。恋愛感情なんて病気の一種だと思ってるけど」(15)

とハルヒは宣言します。
不眠の格闘の末に作り上げたバレンタイン・チョコをあくまでも義理チョコだと言い張ります。
が、キョンが恋愛小説を書くはめになったのは(「編集長★一直線」(16))、
ハルヒのせいではないかという疑惑もあったり、彼女の意識はしていない、ほのかな恋心が匂わされます。
いわゆるツンデレですね。
語り手であるキョンは、可憐な朝比奈みくるを絶賛する美辞麗句を惜しまず、
寡黙で怜悧な長門有希が、時折ふと垣間見せる人間っぽさに惹かれていくものの、
ハルヒに対しては罵詈雑言雨あられなわけです。
が、その裏の感情が行間に淡く語られたりするのがミソだと思います。
つまり、この作品は、SF仕立てではあるけれど、
典型的な「Boy meets girl」──恋愛物語としても読み取れるのです。
「ひとめぼれLOVER」(15)というエピソードなどは、完全にラブコメですね。

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「ハレ」がマンネリズムと化して、日常(ケ)となっていったとき、
その一方で、視聴者(読者)のあいだでキャラクターが
いきいきと成長していったように思われます。
キャラたちや、その関係性のマンネリズムな日常が、視聴者(読者)に愛されるようになる。
そしてこのとき、恋愛物語という要素が拡大化されていったように思います。

筆者は、その辺の事情に疎いのですが、
当時、同人誌やコミケでパロディとして取り上げられた涼宮ハルヒには、
「ハレ」としての役割やイメージが抜け落ちていたのではないでしょうか。
その後、公式パロディとなったスピンオフ作品「長門有希ちゃんの喪失」(17)では、
「ハレ」が見当たりません。
長門有希たちは、宇宙人でも未来人でも超能力者でもない、ただの高校生です。
涼宮ハルヒもただの高校生で、他校の生徒として登場するサブキャラです。
途中、交通事故による記憶喪失と二重人格の出現という大きな事件はあるのですが、
それは、恋愛物語を盛り上げるための小道具のような扱いに見えます。
その他には事件らしい事件もなく、
いかにもラブコメらしい、ハルヒのいない部室のようなまったりした日常が繰り返されます。
そうした物語もアリなのでしょう。
そんな日常のまったり感は、当時放映された「らきすた」などの世界に通じるかもしれません。

しかし、「長門有希ちゃんの喪失」は、
「涼宮ハルヒの喪失」(18)の中でキョンが二者択一を迫られたとき、
彼が選択しなかった方の世界の物語なんですね。

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映画にもなった「涼宮ハルヒの喪失」は、解散総選挙のようだと思いました。

支持率が不安定で、野党からの追求や反対が盛り上がるとき、
政権を担当する保守党はしばしば、いったん議会を解散して選挙を行います。
「民意を問う」と言って、国民にどちらかを選んでほしいと、その選択を委ねるのです。
しかし実際には、選挙には、焦点となる問題以外にも複雑な要素がからみ合っているのですが、
いったん選挙で勝利が決まると、「国民が支持してくれた」という結果だけが明確となり、
数々の汚点や疑惑を帳消しにしたり、野党からの追求をかわすことが出来たりします。

「涼宮ハルヒの消失」では、ある日突然に、涼宮ハルヒという存在が「消失」します。
クラスメートの記憶からも消え去り、SOS団もなかったことになります。
メンバーの長門有希と朝比奈みくるは学校に在籍していますが、
宇宙人や未来人でもなく普通の生徒で、ハルヒやキョンとの記憶もありません。
無くなって初めてその大切さがわかる──ということがありますが、
キョンはひとりで必死に涼宮ハルヒを探し求めることになります。
結果、そんなふうに世界を改変した犯人は、身近な人物だったのですが、
その人物は、キョンに選択を委ねます。

(A)宇宙人も未来人も超能力者も、何の不思議も存在しない常識的な世界。
宇宙をも破壊しかねない涼宮ハルヒのわがままな無茶に振り回されることのない平穏な世界。
つまり、日常(ケ)が淡々と繰り返されるフツーな世界。

(B)それとも、「ワクワク」「ドキドキ」しながら、ハレに翻弄される世界。
涼宮ハルヒの非常識な嵐に巻き込まれるシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)な世界。

──あなたはどちらが幸せですか? どちらを選びますか?
……と、キョンは迫られるのですが、彼は同じ質問を読者にも問いかけます。

「ここで質問だ。キミならどちらを選ぶ? 答えは明らかなはずだろう? 
それとも俺一人がそう思っているだけか?」(18)

いえ、読者の支持率が減少したとか、読者から追求があったとかでは、もちろんありません。
しかし、読者の代表であり、作者の分身でもあるキョンが、
読者に選択を問いかける──「民意を問う」ところが、いかにもこの作品らしく、
この質問の後で改めて世界を構築し直すところが、ちょっと解散総選挙に似ているなと思ったのでした。

そもそも涼宮ハルヒというハレの存在を生み出し、日常へ持ち込もうとした作者(キョン)が、
後者(B)を選択するのは明らかです。
「消失」以後も、その世界はシリーズとして書き継がれていきました。
が、前者(A)を選択した読者もいて、
「長門有希ちゃんの喪失」という作品が生み出されたのは興味深いところです。

およそ10年後にこの作品を読んだ、遅れてきた一読者は、両方ともアリで、
両方を選択したいと思いました。
だって、世界は「ハレ」と「ケ」の両方で成り立っているのですから。

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上述の「面白き事もなき世を面白く」という高杉晋作の句には、下の句があります。
彼自身が作っていたという説もあり、
彼を看病し、その最期を看取った、勤王家でもあり歌人でもあった野村望東尼(もとに)が
続けて詠んだという説もあります。
いわく、

「面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり」

面白くもないこの世界を、つまらないと思うのも面白くするのも、自分の心次第ということでしょう。
そんな心のありようを、涼宮ハルヒというひとりの少女が見せてくれた気がします。

筆者は、そんな彼女を面白いと思いました。

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《参考・引用文献》
(1)谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」角川スニーカー文庫
(2)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(3)岡田斗司夫「ニコ生・岡田斗司夫ゼミ特別編『岡田、ハルヒ観たってよ~涼宮ハルヒの憂鬱からエンドレスエイトまで~』」2013年5月20日収録、ニコニコ生放送
(4)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(5)谷川流「涼宮ハルヒの溜息」角川スニーカー文庫
(6)谷川流「射手座の日」~「涼宮ハルヒの暴走」所収、角川スニーカー文庫
(7)柳田國男「明治大正史世相篇」~「柳田國男全集・26」所収、ちくま文庫
(8)シェイクスピア、松岡和子訳「十二夜」ちくま文庫
(9)ドラマ「トットてれび」原作:黒柳徹子、脚本:中園ミホ、NHK
(10)谷川流「朝比奈ミクルの冒険 Episode 00」~「涼宮ハルヒの動揺」所収、角川スニーカー文庫
(11)糸井重里「今日のダーリン」〜「ほぼ日刊イトイ新聞」※すいません、何年何月何日のコラムだったか、わかりません。
(12)谷川流「ライブアライブ」~「涼宮ハルヒの動揺」所収、角川スニーカー文庫
(13)アニメ「響け! ユーフォニアム」監督:石原立也、原作:武田綾乃、京都アニメーション
(14)谷川流「エンドレスエイト」~「涼宮ハルヒの暴走」所収、角川スニーカー文庫
(15)谷川流「ひとめぼれLOVER」~「涼宮ハルヒの動揺」所収、角川スニーカー文庫
(16)谷川流「編集長★一直線」~「涼宮ハルヒの憤慨」所収、角川スニーカー文庫
(17)マンガ:ぷよ「長門有希ちゃんの喪失」原作:谷川流、キャタクター原案:いとうのいぢ、角川書店
    アニメ:「長門有希ちゃんの喪失」監督:和田純一、原作:谷川流、サテライト
(18)谷川流「涼宮ハルヒの消失」角川スニーカー文庫



[註1]
道化が「十二夜」の閉幕のときに謡う俗謡で、詩はこんな風です。

「小っちゃな子供の時分には
ヘイ、ホウ、風と雨
悪さも大目にみてくれた
来る日も来る日も雨は降る。」(8)

子どもの頃……、大人になってから……、女房をもらってからも、
人生ってのは「来る日も来る日も雨は降る」もんだと続きます。

ちなみに、「はてしない物語」にこんな場面があります。
バスチアンが入り込んだ本の中の異界の国ファンタージエンに、
「シェクスピールとか、それに似た名前の人」が大昔、訪れて、
こんな歌をつくり、それが今に伝わり歌われているというのです。

「むかし おいらが小僧っ子だったころは、
雨風ついて ユプハイサ……」(2)

明示されているわけではありませんが、これは「十二夜」の中のこの俗謡だと思われます。
シェイクスピアは、ファンタージエン国を訪れて現実へ帰っていった旅人のひとり
──つまり、バスチアンの大先輩だったというんですね。












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by kamishibaiya | 2017-12-17 04:59 | よんだり、みたり、きいたり | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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