「怖い話」を考えてみる・01

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  ビビるのは、悪いことなのか?





「知らない横丁を曲がってみる、それが旅です」

と、故・永六輔さんはおっしゃいました。
好奇心が旅へ誘い、日常の見慣れた場所から離れるその経験が人生をおもしろくする。
味わい深くする。
けれど、「知らない横丁」には、危険が待ち受けていることもあります。

知らない横丁の曲がり角を曲がったら、ライオンに出くわした。
──なんてことは、私たちが暮らす日本では、そうそう起こることではありません。
が、もしもライオンに出くわしたら……。
という企画を、以前、TV番組でやっていました。
私たち人間ではなく、犬たちを試す企画です。

「犬のお散歩中にいきなり百獣の王ライオンが現れたとき、 一番勇敢な犬は何か」

という模擬実験のような企画の番組でした(1)
犬と飼い主がふつうに散歩コースを歩いていくと、曲がり角の向こうに
檻に入った本物のライオンが鎮座しておわしますというシチュエーション。
そのとき、犬たちがどう反応するかを見るものです。

ラブラドールレトリバーやドーベルマンは、ライオンに気づくと警戒し、
檻に近づくも、後退りしました。
シベリアンハスキーは、なんとか対峙するも、そこから動こうとしませんでした。
野性の血をひくオオカミ犬は、遠くから察知してすぐにUターン。
ブルドックは平常心に近く、闘犬として知られる土佐犬は敵意をむき出しに。

それらに対し、小型のトイプードルやポメラニアンは、
威嚇しようとキャンキャンとけたたましく吠えて立ち向かっていく勢いでした。

そのVTRを見たスタジオのタレントさんたちは、土佐犬の迫力を認め、
小さいからだでありながら、大きなライオンに向かっていく小型犬を褒めそやし、
結果、ポメラニアンたちが、「勇敢な犬」とされました。

が、しかし。
これがもしも、檻もなく、つながれてもいない自然な状況で、
ライオンも腹をすかせているという場合であったならどうでしょう?

キャンキャンと威嚇したところで、ライオンが退散することはありません。
安易に近づいたら、ひとたまりもないでしょう。

生きものが、自分を狙ってくるかもしれない捕食者と出くわしたときには、
闘争(トウソウ)か逃走(トウソウ)かのどちらかを選ばなければなりません。

犬たちにとって、ライオンという生きものは、
それまで出会ったことのない未知の生物だったでしょう。
けれど、今まで相対したことのない相手であっても、
その体格や攻撃力を見定めなければならない。
相手に食欲や敵意があるのかどうかを判断しなければならない。
もしも闘争を選ぶとしたら、勝てる可能性はあるのかを探らなければならない。
それでも仲間や人間を守るためには戦わなければいけないのかという決断を
瞬時にしなければならないわけです。

土佐犬が「闘争」を選んで戦いを挑んだとしたらどうなるか、
勝負の行方はわかりませんが、無傷というわけにはいかないでしょう。
むしろ甚大な被害を受けるのは必至と思われます。

自然の中で生きるための野性を血の中に残しているオオカミ犬が、
遠い距離からライオンを危険と見なし、
即座に「逃走」を選びコースアウトしたのは、ひとつの正しい判断だといえます。
彼ならば、たとえ追われたとしても逃げ切ることができるかもしれません。

対して、四六時中、冷暖房完備の座敷で飼われ、
人間社会にどっぷりと適応している小型犬は、
生き残るための自然の本能を忘れてしまっていると言えるかもしれません。

オオカミ犬や中・大型犬は、恐怖を知っていた。ビビっていた。
ポメラニアンらの小型犬は、恐怖を知らなかった。
ビビらずに敵へ向かっていくのは勇敢かもしれませんが、
それはほんとうの勇気とはちょっと違うような気もします。

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昔話には、恐怖を知らないという男(または男の子)が登場します。

グリム童話の「こわがることを習いに、旅に出た、男の話」(2)
二人兄弟の弟の少年は、愚鈍で、
子どもの頃から「ゾッとする」という思いをしたことがありません。
それで、ゾッとするような、怖がることを習いに旅へ出る。
その途中、呪いをかけられた城の話を耳にします。
城には世にも恐ろしい悪魔たちがいて、宝を見張っている。
その城で、三晩眠らずに夜通し過ごすことができたなら、
王さまがお姫さまと結婚させるというのです。
そこで少年がチャレンジすると、大きな黒い猫やら、体が半分の幽霊やら、
起き上がる死人やらが出てきます。
しかし怖がることを知らない少年は、逆に悪魔たちをやっつけて三晩を過ごし、
お姫さまを嫁にもらうことになります。

これにはオチがあって、ベッドで寝ているところへ頭から水をかけられたら、
生まれて初めて「ゾッとした」ということになっています。

同じような話は、ヨーロッパ各地に伝わっています。
フランスの「悪魔の庭」(3)。こちらでは主人公は兵士。
スイスの「こわさを知らないハンス」(4)
イタリアの「ゆうかんな靴直し」(5)。こちらでは主人公は靴直し職人。
アイスランドの「こわさを知らない少年」(6)などなど。

この中でも、グリム童話やスイス、アイスランドの話では、前半に、
牧師や番人といった教会関係の人々が主人公に「怖さ」を教えようとしますが、
教えることはできません。
どころか、逆にひどい目にあうことになったりします。
それで主人公は叱られ、村から追われるように旅へ出ることになる。
つまり、主人公が怖がらないのは悪魔やお化けの類いだけではなく、
教会という神聖なる権威も怖がらないというわけです。
ちょっと反社会的。

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日本では、「化物寺」「化物問答」などの昔話に
こうした趣向が取り入れられる例があります。

ある侍が旅の途中、化け物が出るという古寺に、一夜、宿泊することになります。
はたして真夜中過ぎ、「とうやのばず」と名乗るお化けが訪ねてきます。
次には「さいちくりんのいちがんけい」、
さらには「なんちのぎょじょ」というお化けが訪ねてくる。
しかし訪ねてはきたものの、
侍は怯まず、怖がらず、化け物たちをじっとにらみつけるので、
「今夜はやめておこう」などと言って、すごすごと帰ってしまいます。
朝になって、侍はきっと化け物に食われてしまったにちがいないと思って村人たちが
やってくると、まるで何事もなかったように、ピンピンしています。
化け物の正体は、
「東屋(とうや)の馬頭(ばず)」……東の草原に転がっていた馬の遺骸で、
体が腐って頭が残っていたもの。
「西竹林(さいちくりん)の一眼鶏(いちがんけい)」……西の竹林にいた
片目がつぶれたニワトリ。
「南池(なんち)の魚女(ぎょじょ)」……南の池にすんでいた人魚。
──でした。
そこで村人たちがこれらを供養すると、寺の不思議はなくなったということです。
岡山県・旧御津郡今村(現岡山市)に伝わる昔話(7)です。

類話では、登場する化け物は「下駄の化け物」だったり、
「古蓑、古笠、古太鼓」だったりします。
古道具が年数を経て妖怪になる、いわゆる付喪神(つくもがみ)ですね。
いずれにしろ、人間を襲う凶悪な化け物というわけではなく、
不思議を起こして驚かせたりするもののけであるようです。

対する主人公は、類話では、旅の僧だったり六部だったりします。
また、「村の暴れ者」(新潟県・旧佐渡郡西三川村、現佐渡市)だったり、
親に勘当された「不孝者」(岡山県・旧後月郡芳井町、現井原市)だったりと、
どちらかといえば、常識にとらわれない、
社会からはみだした存在である傾向があるようです。

そして主人公は、化け物を退治するというよりは、
たとえ何をするわけでなくても、怖がらないという態度の方に主眼がおかれます。
つまり、「怖さを知らない」というキャラクターであるわけで、
そのあたりはヨーロッパの一連の昔話と共通します。

この「化物寺」などの昔話は、落語の「化け物使い」にも似ているように、
ちょっとユーモラスな物語として語られる場合が多いようです。
ヨーロッパの昔話も、スリルとサスペンスをねらった怖い話というよりは、
ユーモアをまじえて語られる、機知に富んだ物語。

そして、常識をひっくりかえします。
悪魔や幽霊や化け物は怖いものだという社会常識のレッテルをはがしてみれば、
それほど恐るるに足りるものではなかったりする。
過剰に怖がるような感情を排して、ありのままの事実をながめれば、
ビビることなく対峙できるものだったりするわけです。

「恐怖を知らない」というよりは、「過剰に恐怖にとらわれない」ということですね。

ただしかし、「虎の威を借る狐」が相手であれば、
こうした昔話の主人公たちのやり方も有効であるでしょう。
けれど、もしも本物の「虎」だったら、もしもそのトラが腹をすかせていたとしたら、
「恐怖を知らない」彼らの運命がどうなっていたかはわかりません。
ビビることを知らずに、
安易にライオンへ近づいていくポメラニアンの運命と同じように。

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人間は、恐怖を、脳の側頭葉の内側──脳の奥の方にある「扁桃体」というところで
感じるのだといいます。
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これは人間に近いサルの例ですが、扁桃体を含んだ側頭葉を損傷したとき、
実験者である人間を怖がるということがなくなって、
何か物体に対しても、生物、無生物の区別なく、
まったく警戒なしに近づくようになったそうです。

そしてこれは人間の例(8)
アメリカの当時44歳の女性は、ウルバッハ・ヴィーデ病という非常に稀な遺伝疾患のため、
扁桃体が石灰化し、機能していないという状態でした。
彼女は、主婦として、三児の母親として、不自由なく暮らし、
喜怒哀楽の感情に問題はないのですが、ただ恐怖を感じないのだといいます。
アイオワ大学の心理学者に協力して行われた研究では、
「クモやヘビは嫌い」と言っていたにも関わらず、ペットショップに行くと、
クモやヘビを平気で触りにいく彼女の姿が報告されています。
また、自宅近くで大きなヘビが発見されたときも、
怖がることなく、ヘビを持ち上げたりしたのだとか。

何があってもビビらない。
恐怖を知らないということは、勇敢ですばらしいことのように思われるのですが、
しかしたとえば、30歳のときにこんなことがあったそうです。

明らかに薬物をやっていると思われるような男と遭遇してしまい、
「殺すぞ」とナイフを突きつけられ、脅される。
が、怖がることを知らない彼女は、あわてふためくことなく、
ちょうど近所の教会で、聖歌隊が賛美歌を合唱しているのを耳にし、
「わたしを殺すなら、天使たちが黙っていないわ」と言い放ちます。

かよわい女性が、脅えることなく毅然と言い放ったその様子に驚いたのでしょうか、
男は何もせずに立ち去ったそうです。
さぞ怖がるだろうと思って脅かしたら、案に違えて少年が平然としているので
気持ちをくじかれた、昔話の悪魔たちと
もしかしたら同じような感じだったかもしれません。

彼女は、怖さを知らなかったから助かることができたのでしょうか?
しかし、もしも彼女が怖さを知っていたなら、
そもそも薬物中毒のような男には出会わなかったかもしれません。
物騒な通りを歩くのは避ける。
暗い夜道をひとりで歩かないようにする。
……など、恐怖を知っていたとしたら、危険を敏感に察知して
そうした状況を回避しようとします。
目つきや様子がおかしな男を見かけたら、近寄ろうとはしないでしょう。
けれど彼女は警戒心なく、無防備で、ヘビにも、そしておかしな男にも近づいてしまう。

たとえ「天使が黙っていないわ」ときっぱり言い放ったとしても、
もしも金品の強奪や暴行が目的だったとすれば、その一言であきらめるとは思えません。
ましてや、まともな判断力もおぼつかない薬物中毒者です。
彼女は、運がよかったのだと思います。

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子どもたちは、怖がりなくせに、怖い話が大好きです。
物語の中の幽霊やお化けや悪漢の登場に驚き、追われてビビってしまう気持ち。
彼らに立ち向かっていくものの、ハラハラ、ドキドキと手に汗握る気持ち。
そうした恐怖は、野獣に襲われていたサルだった頃の大昔から
私たちが持っていた本能に根ざすものなのかもしれません。
生きていくために必要不可欠な本能。

子どもたちにとってこの世界は「知らない横丁」に満ちています。
その曲がり角を曲がって、やがては親の手を離れて「旅」をしなければならない。
その先には、危険が待っていることもあります。
不安や恐怖が待っている。
恐怖を過剰に感じ過ぎて、恐怖にとらわれてもいけませんが、
恐怖を知ることは、危険を知り、危険に対する術(すべ)を考えることでもあります。

「怖い話」にビビることは、そうした恐怖を教えてくれる。
子どもたちに恐怖を訓練させてくれるものでもあります。
そんな「怖い話」について、考えてみたいと思います。
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(1)TV番組「おーい! ひろいき村」(CX)2016年02月06日放送 出演:有吉弘行、加藤綾子ほか。
(2)「こわがることを習いに、旅に出た、男の話」~高橋健二訳「完訳グリム童話集1」小学館・所収
(3)「悪魔の庭」~新倉朗子編訳「フランス民話集」岩波文庫・所収
(4)「こわさを知らないハンス」~小沢俊夫編訳「山のグートブラント アルプス地方のはなし」ぎょうせい・所収
(5)「ゆうかんな靴直し」~剣持弘子訳・再話、平田美恵子再話協力「子どもに語るイタリアの昔話」こぐま社・所収
(6)「こわいもの知らずの少年」~山室静編著「新編世界むかし話集3ー北欧・バルト編」教養文庫(社会思想社)・所収
(7)関敬吾「日本昔話集成・第二部本格昔話3」角川書店






















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by kamishibaiya | 2018-01-31 10:45 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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