「怖い話」を考えてみる・02

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  わからない(未知、不可知)、
      だからビビってしまう




放射能の研究で知られる“キュリー夫人”こと
マリア・スクウォドフスカ=キュリーが言ったそうです。

There is also one of nothing to fear during a life.

Everything is understood.

And our fear is when I deepen more understanding now as it’ll be smaller.

人生の中で恐れるものなど一つもありません。
すべては理解されるものです。
そして今、もっと理解を深めることで、私たちの恐怖はより小さくなるのです。[註1]

彼女と夫のピエールが発見し研究したラジウムは、直接触れれば、
皮膚細胞を破壊するものでした。
彼女自身も、放射線に被曝して健康を害していたと伝えられています。
目には見えない放射線を発して人体に危険を及ぼすラジウムは、
人々の恐怖の対象でした。

しかし、危険なラジウムであっても、その物質の性質をよく「理解」し、
扱い方さえ誤らなければ、排除し廃棄しなければならないようなものではありません。
恐怖して遠ざけるのではなく、理解してうまく付き合えば役に立つ。
そうして有効利用の道が拓かれた放射線は、今では私たちの暮らしに欠かせません。
レントゲン撮影は病気やケガの治療に必須のアイテムです。

骨に巣食った腫瘍を放射線の照射で取り除いてもらい、
痛みが嘘のようになくなったとき、筆者は、
マダム・キュリーをはじめとする研究者たちの功績のすばらしさを
実感せずにいられませんでした。
彼らももしかしたら恐怖していたのかもしれませんが、
研究して理解を深めることで恐怖を小さなものにして取り組み、
後世の私たちに大きな恩恵をもたらしてくれたのです。

そして、理解をすることで恐怖が減じるというのは、
科学の分野だけでなく、
恐怖ということを考える上で示唆に富む真理であるように思います。

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「怖い」ものといえば、昔から、
「地震(ジシン)雷(カミナリ)火事(カジ)親父(オヤジ)」といわれます。
その語呂のよさで、広く世間に浸透している言葉ですが、
怖いものベスト4を並べているようでいて、
最後に「親父」がランクインしているのには違和感があります。
「親父」が怖かったのは、
強い父親が君臨していた家父長制の時代のことだというのですが、
むしろ「親父」の権威が失墜した今の時代で
揶揄的、あるいは自嘲的に使われる言葉であるような気がします。

何はともあれ、地震、雷、火事が恐怖の対象であることには異論がありません。
さらには、台風、津波、大水、火山噴火などの自然災害、
また、病気や事故などの災難も、怖いものに数えられるでしょう。
大昔には、ライオンやオオカミなどの獣も上位にランキングされていたはずです。
いずれも、私たちの肉体や健康や暮らしを奪いかねないもの、
私たちの生命を脅かすものです。
だから、怖い。
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ところが、こうした実体のある危険に対して、
劇中で、おれは「平生は怖いものなし」と豪語する勇猛な将軍マクベスが言います。

「目に見える危険など、心に描く恐ろしさにくらべれば、高が知れている」
──シェイクスピア「マクベス」(1)

実体があって目に見える危険よりも、
「心に描く」──心の中で想像する、目に見えない恐ろしさの方が
ずっと怖いというのです。

私たちの心の中にある想像力が、実際にある危険に、危険度を「盛って」、
より強大な恐怖を感じてしまうということもあるでしょう。
怖いとビビって危険を予想し、想像することで、より怖さが増してしまう。
イメージが恐怖を増長させるのです。
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たとえば、地面に置かれた横幅30センチの板の上を歩けと言われれば、
私たちはふつうに歩くことが出来ます。
ところが、その板が、
地上200メートルの高層ビルから突き出たものだとしたらどうでしょう?

パスカルは、想像力の刺激が理性を揺るがせるとして、次のように語っています。

「世の最大の哲学者が、身を置くに十分すぎるくらいの板の上に乗って、その下に断崖をひかえているとしたら、いかに彼の理性が身の安全を保証したとしても、彼は想像にうちまかされてしまうであろう。たいていの人はそれを考えただけでも、色を失い、冷汗をもよおさずにはいられない。」(2)

そんな恐怖を、
VR(ヴァーチャル・リアリティ)をとり入れたアトラクションが味あわせてくれます(3)
体験者はゴーグルをかぶります。
そのゴーグルの映像の中で、体験者はエレベーターに乗り、高層階へと昇っていく。
扉が開かれると、地上200メートルの景色が広がります。
そして仕掛けによって風を感じます。
そこから突き出た板の先端に猫がいて、体験者は板の上を歩いて猫を救わなければなりません。
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現実には、床に置かれたただの板の上を歩くだけです。
VRの中の猫の代わりには、猫ほどの大きさの毛むくじゃらの物体が置かれています。
それを拾いに行くという動作自体は、難易度0といえるでしょう。
ところが、それが地上200メートルという視覚情報が与えられ、VRによって錯覚させられると、
一歩踏みまちがえれば真っ逆さま、命はないだろうという想像が働き、
実際的な動作の難易度は変わらないとしても、緊張度はたぶんレベル110くらいに跳ね上がります。
その緊張と不安によってビビってしまい、ふつうの簡単な動作さえままならなくなる。
その恐怖は、自己保存の本能に根ざすもなのでしょう。

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そうした恐怖を、映画監督のヒッチコックはうまく使っていました。
単なる追いかけっこや格闘アクションも、地上数百メートルの高さの、
落下すれば一巻の終わりという場所で行われると、スリルが倍増するのです。

映画「逃走迷路」(4)のクライマックスでは、
ニューヨークの自由の女神像のたいまつ(トーチ)の上がアクションの舞台でした。
有名な女神像ですから、その高さが想像しやすいわけです。
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映画「北北西に進路を取れ」(5)では、サウスダコタ州ブラックヒルズのラシュモア山。
4人の歴代大統領の顔の巨大彫刻が刻まれたモニュメントで知られている岩山です。
このシーンは、実際には、スタジオ内のセットで撮影されたそうです。
スタジオの中で安全に撮られたアクション・シーンも、
地上数十メートルの高さで行われているという想像が映画作品として具現化されることで、
手に汗握る恐怖が生み出されました。
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映画「めまい」(6)では、主人公のスコティが、高所恐怖症という設定です。
ただでさえ怖いのに、病的に怖いという彼の視点が、より恐怖を高めていました。
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落下するかもしれないと想像させ、観客の本能に訴える演出はシンプル。
が、シンプルであるがゆえに効果的です。
クラシック(古典的)ともいえるヒッチコック作品以降も、こうした手法は、
シルベスター・スタローンの「クリフハンガー」やジャッキー・チェンのアクションなどなど、
歴代の作品から現在までさまざまな場面で使われ、スリルの恐怖を盛り上げています。

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漫画家の浦沢直樹さんが、医師が主人公の「MONSTER」という作品を描いたとき、
医学生ら専門家が見るような、内臓などの資料写真をそろえたそうです。
人体解剖図のような生々しい写真に、当初、「うわー、きついな」と閉口した。
怖かったんですね。
しかし、不思議なことに、じーっと見ていると平気になったそうです。
見慣れたということもあるかもしれません。
が、浦沢さんは、「ちらっ」とだけ見えたようなものが恐怖を生むのであって、
「恐怖を克服するには、一回じーっと見ることなんだよね」
と語っていました。
漫画家の方たちの仕事の現場を撮影し、それを見ながら対談するという
「漫勉」(7)というTV番組での一コマです。

番組のその回に出演したのは、恐怖漫画で知られる伊藤潤二さん。
伊藤さんは、「闇の怖さ」みたいのがあると語っていました。
暗くてよく見えない。
あそこに何かある。
あるみたいだけど、よくわからない。
いったい何なんだろうという不安をかきたてる。
闇は、そういう不安を演出するもので、そこに恐怖があるというのです。

お二人は、同じことを言っているのだと思います。
「ちらっ」とだけしか見えない。
闇の中で薄ぼんやりとしか見えない。
その実体のわからなさが恐怖を生みます。

だから、恐怖を減じるためには、
その姿かたちや構造をじーっとながめて実体を把握する。
闇の中から明るみにさらし、その正体を見極める。
つまり、キュリー夫人が言ったように、
対象物を知って「理解」をすることで、恐怖を小さくできるんですね。

そして実体がわからないということは、想像を働かせる契機となります。
わからないから、こうではないか、ああではないかと、いろいろ想像して考えることになる。

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わからない。未知であることが、想像を生む。
そしてその想像は、しばしば恐怖につながります。

中世以前のヨーロッパの人々の間では、世界は平らという説が有力でした。
海の向こうの未知の場所には怪物がいて、海の果てには、海水が流れ落ちる巨大な滝があり、
船が到達したとしてもそこから流れ落ちて壊れてしまうと想像しました。

ヨーロッパから遠く離れた中近東やアジアも、辺境の地、未知の場所でした。
その地への旅は、好奇心を誘うロマンであると同時に、
危険を伴う恐ろしいものでもありました。
14世紀、ジョン・マンデヴィルは、その中近東、アジアを遍歴したとして、
「東方旅行記」(8)を著します。

同時代のマルコ・ポーロの「東方見聞録」では、
■頭が犬の人間(顔が犬のようなサル=ヒヒ)
■足がはえた巨大ヘビ(=ワニ)
など、当時のヨーロッパ人にはなじみのない、けれど実在するとおぼしき生物を紹介していました。
(頭がワシで胴体がライオンのグリフォンなど、架空とおぼしき生物の記述もありますが。)

それに対し、「東方旅行記」で紹介されているのは、たとえばこんな人間&生物たちです。
■エチオピアにいる一本足の人間。すばやく駈けることができる。その足はとても大きいので、
日光をさえぎれるほど。彼らのような一本足は、ドゥンデヤの島々にもいるという。
(=古代ギリシア時代から伝えられる「スキアポド/スキアポデス」とみられる。)
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■巨大カタツムリ。まるで小屋のような殻には、3~4人の人間が宿泊できそうだという。
■ドゥンデヤという島々に住む大男。目がひとつで生肉、生魚を食べる。
ドゥンデヤの島々には、次のような人々もいます。
■頭がない人間。目が両肩にあり、馬蹄のような口が胸の真ん中についている。
(=古代ギリシアのヘロドトスに記述されている「ブレムミュアエ」とみられる。)
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■鼻も目もない扁平な顔の人間。目の代わりに小さな穴があり、口には唇がない。
■背の低い小人。口がない代わりに、小さな穴へストロー状の葦や管をさしてものをすする。
舌がなくしゃべれないので、猿のようにキャッキャッと叫び、身ぶり手ぶりで会話する。
■耳がおそろしく長くて、膝までたれ下がっている人間。
(=古代ローマのプリニウスに記述されている「パノチー/パノッチ」とみられる。)
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■タプロベイン島(スリランカのセイロン島)にいる凶暴な大蟻。
このアリは犬ほどの大きさで、群れをなしてせっせと金鉱を掘り出している。
が、陽射しがきつく暑い日中には地中に隠れるので、そのすきに人間が黄金を横取りするという。

しかし、どうやらマンデヴィル自身は、実際には旅をしたわけではなかったようです。
当時の既成の旅行記や文献からいろいろと引用してまとめ、そこに想像を加えたようなのです。
荒唐無稽な、まったくのデタラメのように思われますが、
中世ヨーロッパ人たちは当時、こうした伝説を共有していたと思われます。
彼らは、未知の場所にはこんな怪物がいるかもしれないと想像しました。

ところが、やがて大航海時代となり、中近東やアジアは未知の場所ではなく、
既知の場所となります。
航海者たちが実際に足を運んでみると、そこには、
マンデヴィルが記したような怪物が闊歩していたわけではもちろんありません。
人種は違っていても普通に人間が暮らしているわけで、彼らの文化や生活を「理解」することで、
中近東やアジアは、恐れる場所ではなくなりました。

そして航海者たちは、まるい地球を一周し、さらには新大陸を発見し、
世界をすべて制覇したかのように見えました。
が、それでもアフリカ大陸の内地などは、
ヨーロッパ人が足を踏み入れたことのない未知の場所で、彼らは「暗黒大陸」と呼びました。
この時代には、さすがに一つ目の怪物がいるというような想像はされませんでしたが、
猛獣が跋扈して風土病が蔓延する、何が起こるかわからない恐ろしい場所と見なされます。
それが、19世紀、デイヴィッド・リビングストンが探検し、大陸を横断する。
未知の場所は既知となり、「理解」することで恐れる場所ではなくなりました。

グローバル化が進んだ現在、世界のいたるところへの旅行が可能となりました。
政情不安や治安の問題など、別な意味での怖い場所は今も各地にありますが、
得体の知れない恐怖は、そうそう見当たらないようです。
深海など人跡未踏の地はまだまだあります。
が、情報としては、未知の場所を地球の中に見つけるのはなかなか難しいでしょう。
そこに怪物を想像する隙間はないように思われます。
それでも私たちは、ネッシーや雪男やツチノコ、サスクワッチ(ビッグフット)などなど、
UMA(未確認動物)につきない興味を託したりするわけですが。

現代の私たちにとっての未知の場所は、宇宙です。
月には一歩を記しましたが、火星には未知の生物がいるのではないかと審議中です。
その先の宇宙は無限。
SFは、小説であれ映画であれTVであれマンガであれ、
宇宙にすみ、時には地球を訪れるさまざまな人間(宇宙人)や怪物を生み続けています。
未知であるがゆえに想像を羽ばたかせることができる。
それはロマンであると同時に恐怖の対象でもあるわけです。
そこには「最新の科学」という視点があるにはあるのですが、
中世の昔、世界の果てに頭のないモンスターがいると想像したマンデヴィルと
それほど変わりはないように思えます。

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さてそして、伊藤潤二さんが言っていたように、怖いといえば暗闇ですね。
「馬鹿と闇夜ほど怖いものはない」ということわざの通りです。
というのも、暗闇は、何があるか、何がひそんでいるかわからない。
闇に包まれ視界を奪われれば、ふだん見慣れている場所が一変して未知の場所になります。
それゆえ暗闇は、想像力を育む温床です。
そして何かがいるかもしれないという想像が怖さを生む。
私たちがサルだった昔、暗闇は、
夜行性の獣たちが跳梁し、ひそんで待ち構える危険なものだったに違いありません。
私たちが暗闇を怖がるのは、本能です。

絵本「おしいれおばけ」(9)では、
子どもたちが抱いている、そんな闇への恐怖が描かれています。

この絵本に出てくる「おしいれ」は西洋式で、つまりクローゼットの部屋です。
日本家屋の「押し入れ」は薄暗く、
そのほのかな闇に何かがひそんでいるような気がするものです。
こちらのおしいれ(クローゼット)も、
ドアの隙間からのぞける中奥はやはり薄暗く、不気味さをたたえています。

主人公の男の子は、おしいれ(クローゼット)に何かがひそんでいると感じています。
彼は、正体不明のその何かを「あいつ」と呼んでいるのですが、
姿が見えるわけではありません。
けれど、きっと「あいつ」はいる。

しかしこの主人公は、頼もしいやつで、いつまでもメソメソ怖がってはいません。
きっぱりと決着をつけてやると、おもちゃの鉄砲や武器をそろえて待ち構え、
対決しようとするのです。

そして夜になって電気を消すと、はたしておしいれ(クローゼット)からおばけが、
抜き足、さし足と忍びながら、ほんとうに現れます。
が、いざ現れて灯りをつけてみると、図体は大きいのですが、これが何とも弱々しい。

何がいるかはわからず、想像をするときには、
乱暴されるのではないか、食べられるのではないか、呪われるのではないかと、
あれこれ想像をたくましくして、自分で怖さを倍増させて考えます。
けれど正体がわかってみれば、何ということもない相手であることも多い。
敵意などなく、案外友好的な相手であったりもする。
ちょうどグリムの「こわがることを習いに旅に出た男の話」のようですね。

この絵本の物語に登場した相手は、想像以上に弱く幼いおばけでした。
男の子におもちゃで攻撃されて泣き出してしまいます。
おばけの手のつけられない弱虫ぶりに、男の子が下した決断がまた頼もしい。
彼は恐怖の対象であったおばけを慰めて、自分のベッドに寝かせてあげるのです。
恐怖で遠ざけたり、やっつけたり、排除するのでなく、
「理解」することで友だちにもなれる。
ベッドでいっしょに寝る男の子とおばけの、
安心してくつろぐ、安らかな寝顔が印象的です。

しかし、おばけは一人ではなく、おしいれ(クローゼット)にまだ隠れていて、
ラストでは、ドアから別のおばけが顔を出します。
ベッドはもう満員と語られるのですが、
恐怖を乗り越えて味方につけた男の子は、
この先、どんな相手がやって来てもきっとうまくやるでしょう。

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「おしいれおばけ」(9)
 マーサ・マイヤー、今江祥智訳
 偕成社




何がひそんでいるか、わからない。それが暗闇を怖い場所に変えます。
が、しかし、もしもひそんでいるものが既知の存在で、
「おしいれおばけ」の男の子のように、彼らを理解し、気持ちを分かち合ったとき、
暗闇は恐怖の場所ではなくなります。
むしろ、心地よい場所となる。

「ダイアローグ・イン・ダーク」(10)は、完全に光のない漆黒の闇の中で、
会話したり、歩いたり、壁や物に触ったり、ものを食べたりなど、
日常の行為を体験するワークショップです。
ここでは、視覚障害者の方が「アテンド(案内役)」となってくれます。
視覚障害の方たちが日頃暮らしている世界を体感し、
その生活のほんの一端を理解することでもあるんですね。
視覚がなくなることで、聴覚、嗅覚、触覚、味覚と、
他の五感が研ぎ澄まされることになる。
ここでの想像力は、プラスに働くことになるでしょう。
そして視覚がなくなることで、見た目や役職など、人間に貼り付けていたレッテルが消え、
「人間対人間」という存在同士のコミュニケーションが生まれやすいといいます。

子どもたちはこうした状況になじみやすいかもしれません。
ワークショップでは、暗闇にごく自然にとけ込む姿が見られたりするそうです。
危険のない、安心が保証された闇に包まれることは、
母親のお腹の中にいた胎児の頃の記憶に通じるような感覚があると思います。

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さてしかしながら、一般的な暗闇は、やはり怖いものでもあります。
フランシス・ベーコンは言いました。

「人間が死を恐れるのは、子どもたちが暗闇の中を歩くのを恐れるのと同じである。」(11)

そして子どもたちが抱くその自然な恐怖は、物語を聞かされることによってより大きくなる。
人間が死を恐れるのは、それと同じことなのだと、ベーコンは続けます。

まあ、子どもたちに限らないのですが、
何かがひそんでいるかもしれないという想像が、暗闇を恐ろしいものに変えます。
その種の物語──小説や映画やマンガやゲームなどのイメージは、想像をより高めることになり、
さらに恐怖を増大させる。
死の恐怖というのも、こうしたイマジネーションに関わっているというんですね。

なるほど“死”というのもまた、暗闇と同じように実体がよくわかりません。
曲がりなりにもこの世界に生きている私たちにとって、死は未知のもの、
死後の世界は未知の場所です。
臨死体験というのはありますが、
基本的に私たち生者の中で、死を経験した人は誰ひとりとしていない。
知らないから、そこに想像が生まれます。
そしてそこから、死に対する恐怖も生まれます。

ベーコンは、同じ文章で、セネカの次の言葉を引いて述べています(11)

「こわいのは死そのものより、むしろ、死に付随するものだ。」
──セネカ「書簡」より

うめき声。痙攣。変わる顔色。泣き崩れる友人。黒の喪服。葬式……。
こうした負のイメージが、想像を高め、死を恐ろしいものに見せているというのです。

現代では、そうしたイメージは、
たとえば映画やTV、マンガやゲームなどのヴィジュアルにも表れているでしょう。
恐怖感をより盛り立てるため、死体はしばしば、
損傷が激しかったり、腐っていたりというグロテスクを伴って描かれます。

ところが、解剖学者として
長年、人間の死体と向き合ってこられた養老孟司さんに言わせると、
本物の死体というのは、怖いものではまったくなく、静かで、
「見ると『何だこんなもんか』という印象を持つ方が多い」のではないかといいます(12)

「大体、人間は想像のほうを膨らませてしまうものなのです。
勝手に想像して本物より怖いものだと思ってしまう。」というのです(12)

ベーコンが“死”について語っていたことと同じですね。
ラ・ロシュフコーも言っていました。

「死の恐怖は、死そのものよりもつらい」(13)

ベーコンは、理性の灯りで、無知の暗闇を照らしたいと考えていました。
死についても、だから、浦沢直樹さんがしたように「じーっと」ながめてみる。
冷静な、理性的な目で、「じーっと」ながめてみる。
そうして、実際的な過程と状況を「理解」したとき、
付随するイメージが払拭されて、恐怖を軽減できるのかもしれません。

たとえば、がんという病気は、死につながるものとして、恐れられています。
がんを告げられ、ショックを受けることも多いようです。
しかし、現在、がんを根治することは難しいとしても、症状を抑え、
進行度や病状によっては、ほぼ日常生活を送ることも不可能ではないほどに、
医療技術が進んでいます。
そうした医療を理解し、自分の現時点での病状を理解することで、
職場で働く「ながらワーカー」の方たちが増えています。
「理解」することで、恐怖に惑わされず、前向きになれる。

それは、キュリー夫人が言っていた、
「理解」を深めるという科学的なアプローチの効果であるでしょう。

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けれども、です。
死は、科学的な、理性的なアプローチで、すべてをとらえることはできません。
一筋縄ではいかない。

ベーコンは、暗闇への恐怖、死への恐怖は、
物語を聞かされることによって助長されると言いましたが、
人間は、神話の昔から、そんな恐怖の物語を語り伝えてきました。
それは、科学的、理性的なアプローチでとらえきれないものと
深く関係するのではないかと思います。

そんな恐怖について、次に考えてみたいと思います。
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(1)シェイクスピア、福田恆存訳「マクベス」~「新潮世界文学1・シェイクスピア1」新潮社・所収
(2)パスカル、松浪信三郎訳「パンセ」〜「世界の大思想・22」河出書房新社・所収
(3)VR(バーチャルリアリティ)エンターテイメント施設「VR ZONE SHINJUKU」公式サイト、「高所恐怖SHOW」紹介ページ 
(4)映画「逃走迷路」1942年公開。監督:アルフレッド・ヒッチコック、出演:ロバート・カミングスほか。
(5)映画「北北西に進路をとれ」1959年公開。監督:アルフレッド・ヒッチコック、出演:ケーリー・グラントほか。
(6)映画「めまい」1958年公開。監督:アルフレッド・ヒッチコック、出演:ジェームズ・ステュアートほか。
(7)TV番組「浦沢直樹の漫勉」(NHK)2017年03月09日 出演:浦沢直樹、伊藤潤二
(8)J・マンデヴィル、大場正史訳「東方旅行記」東洋文庫
(9)マーサ・マイヤー、今江祥智訳「おしいれおばけ」偕成社
(11)ベーコン、成田成寿訳「随筆集」~福原麟太郎編「世界の名著20 ベーコン」中央公論社・所収
(12)養老孟司「死の壁」新潮新書
(13)ラ・ロシュフコー、二宮フサ訳「ラ・ロシュフコー箴言集」岩波文庫



[註1]この言葉は、彼女の言説を記した伝記には載っていません。
おそらくは手記か手紙に書いたか、あるいは講演やインタビューで語った言葉が、
広く流布されているのだと思います。
もともとはポーランド語かフランス語だったのでしょう、
訳された英語では、微妙にニュアンスの異なる次のような文章も伝わっています。

「Nothing in life is to be feared, it is only to be understood.
Now is the time to understand more, so that we may fear less.

人生には恐れるべきものは何もありません。理解さえすればいいのです。
恐れをなくすために、今、私たちは、もっと理解をするときなのです。」





















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by kamishibaiya | 2018-02-13 16:14 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya