「怖い話」を考えてみる・03

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訳がわからない(理不尽)、
  だからビビってしまう





なぜ、彼は死んだのか?

という問いに、科学は答えて説明してくれます。
「誤嚥による窒息死」、「急性心不全」、「出血性ショック」……など、
医学的に、いろいろな原因があるでしょう。
中には死因不明というケースもありますが、
TVドラマ「科捜研の女」で沢口靖子さん演じる法医学研究員・榊マリコさんならば、
「科学は嘘をつかないわ」と言って、とことん真実を追究してくれるでしょう。

またたとえば、津波に巻き込まれて亡くなったとしたら、科学は、
プレートがずれて地震が起こり……という津波が起こったメカニズムを説明してくれます。

あるいは、交通事故に巻き込まれて亡くなったとしたら、
運転手は寝不足気味だったという人的な要因や、
カーブで、さらには夕方の薄暮の時間帯で見通しが悪かったなど、
いくつかの要因が重なって事故が起きてしまった。
…というような顛末を、科学的なアプローチは解き明かしてくれます。

けれど「彼」という三人称の関係の人物ではなく、
「なぜ、あなたは死んだのか?」という二人称の死の場合、
あるいは「なぜ、私は死ぬのか?」という一人称の死の場合となると、
科学的な真実が明らかにされたとしても、
それを受け容れることができるか、どうか。

がんの転移によって死ぬ。それが原因である。
という診断、それが科学的な真実であり、解答であったとします。
しかし、それは、必ずしも
「なぜ、私は死ぬのか?」という問いへの答えにはなりません。
客観的な事実ではなく、私自身を納得させてくれる何かが欲しいのです。

その問いには、万人に共通な正解などないのでしょう。
もしかしたら解答がないのかもしれません。
が、それでも問わずにはいられない。
生きているものはいずれ死ぬ。
その運命から逃れられない摂理はわかっているつもりなのですが、
なぜ自分だけこんな目にあうのかがわからない。
良いこともしなかったけれど、それほどの悪業三昧をした覚えはないのに、
なぜ死ななければならないのか。
──などと考えてしまう。

そしてその問いの先に「私は死んだらどうなるのか?」という問いがあります。
科学は、この問いには答えてくれないかもしれません。
これは病理学、物理学の分野ではなく、
つまり心とか魂とかに関わる問題であるからです。

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以前、筆者が、上智大学のグリーフケアの市民講座に参加したとき、
修道女(シスター)であり大学教授の高木慶子さんが講演をなさって、
こんなエピソードを話してくれました。

その男性は末期の病気で、余命いくばくもなく、
死後は、どうなってしまうか、強い恐怖心をもっていたのだそうです。
そこで奥さんが、高木さんが終末期の患者の心のケアに携わっていることを聞きつけ、
夫をなんとか高木さんの元へ連れてきた。
しかしすでに、今日か明日かというような切羽詰まった様態で、
また、突然の訪問だったので、高木さんの方は心構えも準備も何もない状態でした。
けれど、この時を逃したらもう逢うことはかなわないだろうという一期一会。
高木さんは、たまたま手近にあった絵本を読み聞かせ、そしていろいろと話したそうです。
それは、アンデルセンの「マッチ売りの少女」の絵本でした。

「マッチ売りの少女」(1)は、ご存知の通り、年の瀬の大晦日、
年端のゆかない少女が、マッチを売り歩く物語です。
雪の降りしきる中、帽子もかぶらず、みすぼらしい服装では寒さもつのります。
おまけに、母親からもらった使い古しのスリッパは大きすぎて脱げてしまい、
馬車にあおられたときにあわてて片方をなくし、もう片方を知らない子に持っていかれ、
今は、裸足。──という描写が、ますますいたいたしい。

ひとつもマッチが売れないと父親から折檻されるため、すっかり夜になっても、
少女は家へ帰ろうとしません。
そして路地にうずくまり、マッチをすると、暖かな大きなストーブが現れます。
が、マッチの火はすぐに燃え尽き、幻想も消えてしまう。
そこで2本、3本とマッチをすると、湯気をたてたご馳走や、
1週間前、ガラス越しにながめたお金持ちの家にあったような
大きなクリスマス・ツリーが現れます。

そして4本目のマッチをすったとき、あたりがパアーッと明るくなり、
光の中に、この世で唯一少女の味方となり可愛がってくれた、
死んだはずのおばあさんが現れます。
ストーブやご馳走の幻想と同じように、おばあさんもすぐに消えてしまわないかと
少女は怖れ、大急ぎで、残りのありったけのマッチに火をつけます。
すると、
「おばあさんは小さい少女を腕に抱き上げました。
そして、ふたりは光とよろこびにつつまれて、高く高く、どこまでも高く
のぼってゆきました。
もう少女には、寒いことも、おなかのすくことも、こわいこともありません。
──ふたりは神さまのみもとに、召されたのです。」(1)

年が明けた次の朝、マッチを持ったまま、うずくまって凍え死んでいた少女の
その頬は赤く、その口元には微笑みが浮かんでいたと語られています。

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 「マッチうりの女の子」(2)
  ハンス・クリスチャン・アンデルセン作、
  スベン・オットー絵、乾侑美子訳
  童話館出版


 ※絵本「マッチ売りの少女」は、多数出版されていて、
 高木慶子さんがどの絵本を読まれたかはわかりません。

この物語を高木さんから聞かされた男性は、感銘を受けたようすで帰って行かれました。
そして、男性は他界する。
後日、高木さんと再会した奥さんは、お礼を言ったといいます。
あれだけ死を恐怖していた男性が、高木さんと逢った日以来、明るい顔になって、
残されることになる家族や友人を思いやるようになったそうです。

それは、どんな人にも通じる方法であるとか、
たとえばマニュアルでどうこう出来るというようなことではないのでしょう。
「私は、死んだらどうなるのか?」という問いに物語は答えてくれましたが、
それは万人に通じる回答ではありません。
高木さんという人がいて、高木さんという人を介在することよって、
男性と、アンデルセンの物語が出逢うこととなった。
男性は「たかが絵本」などと切り捨てることなく、物語を受け取り、体験することによって、
それは、他の誰でもない彼自身の物語となった。

男性は、病気による苦痛など諸々の事情が、あるいはあったのかもしれませんが、
安らかな死を迎えたのだそうです。
もしかしたら、光とよろこびに包まれて召されていったのかもしれません。
そしてもしかしたら、その口元には微笑みが浮かんでいたかもしれません。


こうした光に包まれるなどの表現は、
科学の立場からすれば、単なる幻想として切り捨てられるものでしょう。
そもそも、アンデルセンがつくり出したフィクションです。
しかしその光は、私たちの心の中にある共通するイメージをかたちにしたものです。
たとえば、「チベットの死者の書」(3)にも、
死の瞬間、輝く光に包まれるというくだりがあります。
そうした光の表現は、宗教の別なく、世界各地に見られるものです。

それは、“死”という不可知の暗闇の中で迷う私たちの足元を照らし、
支え、導いてくれるものでもあるのではないかと思います。

そこに、宗教があり、そして、物語がある。

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古来、人間は、死についての物語を紡いできました。
死んだ後には、この世、あるいは来世に輪廻転生する、生まれ変わるのだと
説くものもありますね。
アメリカ・インディアンのドゥワミッシュ族には、
「死は存在しない。生きる世界が変わるだけだ。」(4)
という言葉が伝わっています。

そして、死ぬのは怖くない、死んだ後には苦しみのないところへ行くのだと
教えてくれるものもあります。
時に、そこは神々が住む場所であったり、
食べ放題の果物に満ちた楽園であったりします。

天国。楽園。極楽浄土。
アアル(エジプト)。
ニライカナイ(沖縄)。
カムイコタン/アフンコタン(アイヌ)。
ヴァルハラ(北欧)
マグ・メル(ケルト)……など。

あるいは、冷たくて、暗くて、じめじめしていたり、
とても遠いところなのだと説くものもあります。
それは、現実的な死のイメージの連想であるようにも思えます。

冥界。冥府。冥土。根の国。黄泉の国。
ポクナシリ(アイヌ)
ヘルヘイム、ニヴルヘイム(北欧)。
トラロカン、ミクトラン(アステカ)……など。

あるいはまた、心正しい者は、天国や楽園や極楽に行くけれど、
生前に罪を犯した心悪しき者はこちらへと行くことになり、罰を受けるのだといいます。

地獄。煉獄。
ジャハンナム(イスラム)……など。

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これらは、宗教上の、世界を構築する厳然たる理(ことわり)ですから、
想像に過ぎないとはけっして言えません。
が、やはり、想像するという、人間が行う働きとは無関係でないように思われます。

そのイメージ作りには、想像力と深く関わり合う「物語」が加担しているでしょう。
フランシス・ベーコンも、
物語は、死への恐怖を増長するものでもあると言ってましたね。
死の恐ろしさは、神話や伝説、昔話などなどの口承によって、あるいは書き記され、
昔からくりかえし語られてきました。

たとえば、地獄。
絵解きでも、「六道地獄絵」「熊野観心十界図」など、
地獄の恐ろしさをメインテーマとして語ったものが少なくありません。
そこで使われたような掛け軸絵や、
源信の「往生要集」などに基づく凄惨な地獄を描いた「地獄絵図」などは、
日本中、各地のお寺に伝えられています。

そのひとつである鳥取・正福寺の「六道絵(地獄極楽絵)」と、
幼少期の水木しげるさんが出逢っています。
マンガ家の水木しげるさんは、お手伝いの「のんのんばあ」こと景山ふささんから、
お化けや妖怪の話を聞かされながら少年時代を送りました。
彼女に連れられて寺を訪れ、目にしたのがこの地獄絵で、
水木さんは、この絵によって別の世界の存在を知ったと語っています。

また、青森県では、雲祥寺の「十王曼荼羅(地獄絵)」の掛け図と、
幼少期の太宰治が出逢っています。
彼もまた、当時、女中であった越野たけさんから昔語りを聞かせられたり、
読書を教えられたりして、彼女に連れられて寺に行き、地獄絵を見たのでした。
血の池や針の山という文字通りの阿鼻叫喚の地獄絵図を見せられ、
嘘つきは鬼に舌を抜かれると聞かされて、泣き出した。
……と、自伝的な小説「思ひ出」(5)の中に綴っています。

また、画家でグラフィックデザイナーの横尾忠則さんも、
幼少期に地獄絵を見せられたおひとりです。
記憶が定かでなく、多分お寺でだったろうといいますが、
見たのは、地獄の閻魔大王の前に引き出され、
生前、何をしたかが映し出される鏡(いわゆる『浄玻璃の鏡』)の絵だったそうです(6)

いわば生前の行状をつぶさに撮影した録画を見せられるわけで、
周りに誰もいないと思ってはたらいた悪事も、しっかり映っています。
それが証拠のVTRとなり、閻魔大王の審判には申し開きができません。
そこで、極楽へ行くか、地獄へ行くかの運命が決する。
子どもであっても、ちょっとした嘘など、身に覚えのあった横尾少年は、
本気で恐れおののいたそうです。
横尾さんはこう綴ります。

「その後成人してからというものは閻魔大王と目も合わされないようなことをたくさんしてきたので、ある程度の覚悟はしている。だからそのときの恐れを少しでも緩和するために、ときどき自分の人生を一つひとつ振り返って反省するようにしている。こういう反省によって自分自身を知ることにもなる。嫌な自分を見ることはつらいけれど、今の自分を知るためには損はしないような気がする。」(6)

良いことをすれば報われる。悪いことをすれば罰を受ける。
こうした地獄の物語がもたらす恐怖は、そうした戒めを教育するための、
一種のシステムでもあるのかもしれません。
そしてその恐怖は、生命の大切さを教えるものでもあるでしょう。
子どもであったらなおさら、そのイメージは強烈です。

交流分析では、その人の人格を構成する側面を5つに分けて考えますが、
そのうちのひとつにCP(クリティカル・ペアレント=批判的な親)があります。
それは、いわば父性的ともいえるような厳しい親の要素。
良心や正義やモラルを守り、目標をもって厳しく自分や他人を律するというもので、
幼少期の親が人格形成に影響するというフロイトの理論に基づいています。
幼少期に、閻魔大王の厳しいジャッジの視線を意識することは、
もしかしたらちょうどそんな風に、人格の一部に影響するということがあるかもしれません。

お寺に伝わるこうした地獄絵図の残酷さやグロテスクをそのまま包み隠さず、
ストレートに子どもたちに見せる絵本「地獄」(7)をご存知の方も多いでしょう。
1980年に出版されたこの絵本は静かにロングセラーを続け、
21世紀になった今、脚光を浴びてブームとなりました。
かつて各地のお寺で行われた非科学的な物語の伝承が、
現代になおいきいきと伝えられているのは興味深いところです。

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 「絵本 地獄─千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵」(7)
  白仁成昭・中村真男著、宮次男監修
  風濤社



さて、しかしながら、
行いの善悪で、死後の世界の行き先の明暗は分かれると説明されるわけですが、
死そのものは、極悪非道の悪人のもとにも、
そしてどんなに清廉潔白で聖人君子な善人のもとにも、等しく訪れます。
善人だからボーナス的に寿命が長く与えられるということはなく、
むしろ「憎まれっ子、世にはばかる」「善人ほど早死にする」などといわれるくらいです。

アルベール・カミユの小説「ペスト」(8)に、パヌルー神父という人物が登場します。
物語では、町がペストという災厄に襲われ、死者も相次ぎ、非常事態となって閉鎖されます。
閉ざされた中で患者は増え続け、市民は精神的にも追いつめられ、疲弊していく。
そんな中、パヌルー神父は、聖堂で行われた説教講演で、市民たちに語ります。
──皆さん、あなたがたが禍(わざわい)の中にいるのは、当然の報いなのです、と。
心正しき者は、ペストを恐れることはない。
心が邪(よこしま)であるゆえに恐れおののくのであって、
悔い改めることを促すために、神がペストをつかわしたのだ。
今こそ反省する時であって、あなたがたはもっと信仰に励むべきだ。

その後もペストは猛威をふるい続け、子どもたちも次々と犠牲になります。
年端のいかない少年が、絶望の悲鳴をあげて死を迎えるのを前にしても、
主人公の医師リウーは、為す術(すべ)がありません。
立ち会ったパヌルー神父もまた「神よ、この子を救いたまえ」と言うのがやっとです。
やがて悲鳴の声が弱まっていき、最後には尽きて、命も尽きてしまう。
なおも悲鳴をあげ続けるように口を開けたまま。
涙の名残りを顔にとどめたまま。
リウーは、自分の弱さや鬱憤をぶつけるように、パヌルー神父に言葉を投げつけます。
──「あの子は、罪のないものでした。あなたもご存知のはずです!」

この後パヌルー神父もまた、少年と同じく、ペストに冒されることになります。


先述の横尾忠則さんは同じ著書で、記憶もおぼろな幼いときに、
賽の河原の物語を聞かされて怖かったことを語っています。
父母に先立って死んだ子どもは、ここへ連れて来られ、
小石を積み重ねて、父母のための供養塔をつくります。
しかし、やっと完成したかと思うと鬼がやって来て崩してしまい、
最初からまた積み上げなければなりません。
ギリシア神話のシジフォスは、死んだ後、神々をだました罰として、
大岩を転がして坂道を登り、山上まで持ち上げますが、そこまで来ると岩は転げ落ちる。
するとまた岩を山の上まで持ち上げるという苦行を、永遠に繰り返します。
賽の河原の子どもたちもまた、小石を積んでは崩されるということを、延々と繰り返すのです。

この話は仏典などにもなく、民間で伝え語られた俗説であるといいます。
この後、地蔵菩薩が現れて救ってくれるという結末があり、
もしかしたら地蔵信仰に基づいて作られた物語かもしれません。

筆者も子どもの頃、この話を知りましたが、当時も今も納得できません。
何の罪も犯していない子どもが、何でこんな罰を受けなければならないのかがわからない。
親に先立って死んで、親を悲しませたことが罪だというのですが、
本人だって、死にたくて死んだのではないはずです。
本人の意思ではなく、病気や事故などの災厄に巻き込まれただけ。被害者です。
それが罪なのでしょうか。

あるいはまた「因果応報」という理由もあるかもしれません。
子ども本人に罪はなくても、輪廻転生する前の当人が「前世」で罪を犯したために
罰を受けなければならないというのです。

キリスト教でも、先祖が罪を犯したために、罰を受けなければならないといいます。
「原罪」という教えです。
神の庇護のもと、自然界の一部のように動植物とともに暮らしていたアダムとイブが、
神に背いて知恵の木の実を食べる。
ちょうど、本能で暮らしていたサルが、進化して大脳皮質を発達させて知性を高めたように、
知恵を身につけたアダムとイブは、神の怒りを買って、楽園から追い出されます。
二人の子孫である私たち人間は、その罪を背負った罪深い存在であり、
たとえ生まれたての無垢の赤ん坊であっても、罪は先天的なもので免れない。

パスカルは、この教義に対して抗議し、
そんな太古の昔の一つの罪のために、意志ももたない幼児さえ永遠に罪に問うというのは、
われわれの「正義の基準に反するもの」だと書き記します(9)
が、しかし、理性にとっては不可解な、この「理性の躓(つまず)き」を越えるところに
信仰があるのだといいます。


筆者は、「因果応報」にしても「原罪」にしても納得できません。
しかし今考えてみると、納得はできないけれど、そういうことはあるかもしれないと思います。
つまり、理不尽。

罪のない無邪気な子どもでも、ペストにかかり、酷い死の犠牲となる。
罪のない無邪気な子どもでも、死の苦しみの後、さらに三途の川の河原で過酷な仕打ちを受ける。
それは、善は報われ、悪は罰せられるという理に合いません。
理不尽なのです。
そもそも「善は報われ、悪は罰せられる」という理屈があるのか、どうか。

理屈でとらえられない。不可解。
意味不明。
もう滅茶苦茶。訳がわからない。
カミユは、それを不条理と呼びます。

もしかしたら、世界にもともと意味や理由はないのかもしれません。
地震が起こると、人はそれを災難だと感じますが、それは地球内部の岩盤がずれただけです。
ただ単に、それだけ。
生きているものが、その生を終える。ただ単に、それだけ。
人が死ぬ。ただ単に、それだけ。
諸行無常。──すべては変わりゆき、移りゆくもの。ただそれだけです。

だから、「私は、なぜ死ぬのか?」と問うても、理由はない。
意味はないのかもしれません。
しかし、だからそれゆえに「天国」や「地獄」という物語があり、
それゆえに「因果応報」や「原罪」という物語があって、理由を求めようとするのかもしれません。
そして、男性が、高木慶子さんとアンデルセンに啓発されて、自分の物語を生きたように、
私の死を死ぬのは、私でしかなく、
私の物語をつくるのは、最終的には、私でしかないのでしょう。

「私は、なぜ死ぬのか?」という問いには意味がない。
しかしそれは、
「おまえは、どう死ぬのか?」 
と、問われているのであり、
そしてそれはつまり、
「おまえはどう生きるのか?」
と問われていることなのだと思います。

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今まで知らなかった、経験したことのない未知のこと、
よくわからない不可知なこと、
そこに私たちは不安を感じ、想像をつのらせ、恐怖を感じます。
そしてまた、私たちの理性ではとらえきれないこと、
理解の及ばない、または理解を超えるような不可解なこと、
理屈が通らない理不尽なことにもまた、不安を感じ、恐怖を覚えます。

「馬鹿と暗闇ほど怖いものはない」ということわざの「馬鹿」の方ですね。
「馬鹿」は、普通の道理にあてはまらない、常識を超えるような無茶苦茶をやらかす。
だから怖いというわけです。

幽霊やお化け、超常現象が怖いというのも、つまり私たちの理屈に合わない
理不尽な存在だからです。

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20世紀初頭、怪奇小説を書いた
モンタギュー・ロウズ・ジェイムズ(M. R. ジェイムズ)というイギリスの作家がいます。
1862年生まれで、「シャーロック・ホームズ」を生んだアーサー・コナン・ドイルとは3歳違い。
つまり、ドイルと同時代の人であるわけで、
その作風は、ドイルらの「推理小説」と似通っているところがあるように思われます。

いえ、「怪奇小説」ですから、登場するのは、
幽霊や、巨大な蜘蛛(「奏皮(とねりこ)の木」)や、
人間のような格好の全身が毛むくじゃらで大きな目玉をしたやつ(「寺院史夜話」)など、
非現実的な怪奇なものたち、または曖昧模糊な存在です(10)
また、M. R. ジェイムズは2足のわらじの作家で、彼は、博物館長も務めた古文書学者でした。
古いものを愛するいわゆる「好古家」で、出版した短編集のタイトルのひとつは「好古家の怪談集」。
小説には、中世の文献や遺跡、魔術や呪いといった前近代的なモチーフが満ちています。
しかし彼は、そうした非科学的、非合理的な古いモチーフを扱いながら、
それを、近代の合理的な文章、「推理小説」ばりの論理で描き出すのです。

ごくおおざっぱに言うと、中世、迷信や魔術などが身近な時代が長く続いていました。
近代になり、科学が発達するに伴って、
合理的な精神が、そうした迷信などの非合理的な暗雲を打ちはらったとされます。
19世紀のエドガー・アラン・ポーは、不可思議な幻想怪奇を描きましたが、
その一方で、科学的な観察眼を披露したり、暗号解読などの論理的な作品も書きました。
その作品「モルグ街の殺人」は、「近代推理小説」の始祖とされています。
科学的な論理を積み重ねていき、不可解な謎を解き明かす「推理小説」は、
まさしく近代という時代にふさわしかったでしょう。
「理解」することによって、恐怖の暗闇を打ちはらうキュリー夫人にも通じる
科学的なアプローチです。

M. R. ジェイムズは、近代以前の題材を扱い、自分自身でもその作風を
「十九世紀的感覚のもので、けっして二十世紀のものではない」と述べていたそうです
(──「M. R. ジェイムズ傑作集」(10)解説)。
けれど、二十世紀という時代の、その科学的な精神というものをかなり意識していたと思います。

「一夕の団欒(だんらん)」(10)という作品は、
冬の夜長の炉端でおばあさんが、子どもたちにお化けや幽霊が登場する物語を
話して聞かせるというスタイルです。
が、その冒頭で、
今のイギリスでは、そんな物語を語るおばあさんはみんな世を去ってしまったと述べられます。
そんな迷信俗説の代わりに語られるのは「化学の対話」や「純正科学の基盤としての遊びの精神」など、
真理だとか、ためになる教訓ばなし。
たとえば、ジェイムズが執筆した当時の一家団欒の風景はこんな具合だといいます。

子どもが言う。
「ねえ、パパ。土曜日に教えてもらった梃子(てこ)の原理はわかったけれど、
今度は振り子のことがわからないんだ。振り子を止めるとどうして時計が止まるの?」
すると、教育パパが、
「おまえはまた時計をいじって壊したのか。
おまえの実験精神のために、時計という有用で貴重な科学的器具を損なうのは賛成しかねるが、
まあ、しょうがない。
書斎からじょうぶな紐と、台所に行って女中から重石を借りてきなさい」

──こんな団欒風景ではしらけてしまう。と、前置きしてから、
本編である、昔ながらのおばあさんの怪談話が綴られるのです。

この作品が出版された1925年から、約100年。
団欒の風景も変わりました。
日本では、幼い水木しげる少年に怪談を聞かせていた「のんのんばあ」のようなおばあさんたちは、
だいぶ前に世を去ってしまったでしょう。
怪談や昔語りも消え、その代わりに、TVがお茶の間の団欒を支配するようになりました。
そして現在は、TVやネットの動画を、家族が個々別々に楽しむようになって、
一家団欒の「場」さえ失われています。

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同じくM. R. ジェイムズの「笛吹かば現れん」(10)の主人公は、
幽霊や迷信などの“超自然現象”をまるで信じない、
どころか、そうした話題を口に出すのも嫌悪するような大学教授です。

いかにも“いわく”ありげな中世の遺跡の笛を吹くと、にわかに強風が起こり、
彼は神経的な不調をきたし、一晩中眠れませんでした。
が、しかし、その強風は偶然に過ぎないと断じます。
宿屋の、彼の宿泊する部屋で、彼の留守中、窓で得体の知れない何かがおいでおいでをしていた、
と、近所の少年が目撃し、恐れて泣きながら告げます。
が、鍵を持っているのは彼だけで、留守中、誰も部屋に入れないはずでした。
女中がシーツを替えに入ったのだろうと推測しますが、女中は入っていないと言います。
宿屋の主人も、合鍵は使っていないと言います。
部屋に2台あるベッドの片方しか彼は使っていませんでしたが、
もう片方のベッドは、何かが暴れたようにシーツが乱れ、盛り上がっている。

こうした異変に彼は内心脅えますが、いろいろな勘違いがあっただけで、
少年の目撃談は、きっといっぱい食わせようとしたのだろうと判断します。
そうしてその夜も、その部屋にひとりで就寝するのですが、なんとその真夜中に……!
──という展開になります。

推理小説では、ひとつひとつ事実を積み重ね、その合理的な推理がミステリーを解き明かします。
京極夏彦さんの小説の主人公、「京極堂」こと中禅寺秋彦は、
「謎とは知らないこと。不思議とは誤った認識」だと言い、
「この世には不思議な事など何もないのだよ」
と、喝破します(11)
ここでは、幅広い情報を駆使する知識と合理的な論理が、蒙昧な無知を啓(ひら)き、誤りを正し、
非合理な模糊とした暗雲を打ち払うことになります。

が、M. R. ジェイムズの小説では、逆にその推理が、非合理な存在をあぶり出し、
その非合理さを証明してしまうことになってしまうのです。
物事を知って「理解」し、暗闇をあばこうとして掲げた理性の光が、
かえってとんでもない存在の姿を照らし出してしまうことになるんですね。

現代でも、たとえば、誰もいないはずの隣りの部屋から、ガタッと音がする。
マンションの6階の、ベランダもない窓の外に人影が見える。
写真や動画の中に、肉眼では見えない、あり得ないはずの人物の姿が映り込んでいる。
……などなど、筆者は実際に見聞きしたことも、経験したこともありませんが、
科学や理屈では説明のできない現象があるといいます。

そうした不思議の中に、妖怪やお化けや得体の知れないものを想像して、
ますます怖くなるということがあるでしょう。
あるいは、ほんとうに霊の存在を感じたりすることもあるのでしょう。
その恐怖は、今も、100年前のM. R. ジェイムズの頃も、
そして、もしかしたら太古の昔から変わらないものなのだと思います。

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理屈には合わない、馬鹿馬鹿しい、勘違いとしか思えないこと。
訳がわからない、理屈を超えてしまうこと。
それが恐怖を生みます。
そしてその理不尽な怖さは、
私たち人間の存在の不条理の不安にもつながるものであるかもしれません。
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(1)アンデルセン、大畑末吉訳「マッチ売りの少女」~「アンデルセン童話選・下」岩波少年文庫・所収
(2)ハンス・クリスチャン・アンデルセン作、スベン・オットー絵、乾侑美子訳「マッチうりの女の子」童話館出版
(3)エリコ・ロウ「アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉」扶桑社文庫
(4)川崎信定訳「原典訳 チベットの死者の書」ちくま学芸文庫
(5)太宰治「思い出」~「晩年」角川文庫・所収
(6)横尾忠則「死の向こうへ」PHP研究所
(7)白仁成昭・中村真男著、宮次男監修「絵本 地獄─千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵」風濤社
(8)アルベール・カミユ、宮崎嶺雄訳「ペスト」~「世界文学全集・39」新潮社・所収
(9)パスカル、松浪信三郎訳「パンセ」~「世界の大思想・22」河出書房新社・所収
(10)M. R. ジェイムズ、紀田順一郎訳「奏皮の木」「寺院史夜話」「一夕の団欒」「笛吹かば現れん」~「M. R. ジェイムズ傑作集」創元推理文庫・所収
(11)京極夏彦「陰摩羅鬼の瑕」講談社ノベルス


























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by kamishibaiya | 2018-02-22 06:05 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya